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平倉圭の「映像ゼミ」理論と実践
2009年度講義録より

*以下は、四谷アート・ステュディウムの講義録(学生のみに公開)より
一部を再録したものです。

>> 平倉圭の「映像ゼミ」理論と実践 2010年度(9月21日開講)講座案内

第1回[2009年10月1日]
大地とダイアグラム――映像と思考の場所


index
-イントロダクション|ゴダールと映画=言語、革命
-宿題
-スミッソン・大地とダイアグラム・泥の思考
-配布資料


――配布資料:シラバスより
映像によって思考するとはどういうことか。それが本講義の問いである。この問いを本講義では2つの面から探求する。
(A)過去の映像作品を対象に、それを成り立たせている思考の論理の言語化を試みること。
(B)自分自身で映像作品を制作し、映像による思考の可能性を新たに発明すること。
毎回私からのレクチャーのほかに、(A)作品分析と(B)作品制作の2種類の宿題を課し、書くことと作ることの両面から実践的な技術を磨くことに主眼を置く。全6回の集中的な授業を通して、受講者各自が、映像による/映像についての自分自身の思考を、自分自身を超えて展開できるようになることを目標とする。講義の背景にあるのは、思考の革命的可能性という問いである。主要な参照項となるのは、仏/スイスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールと、アメリカの美術作家ロバート・スミッソン。



イントロダクションゴダールと映画=言語、革命


ゴダールには「思考する形態としての映画」という魅力的なアイディアがある。そこでは映画は「革命」という問題と結びついている。彼は若いころ、まだ言語がきちんと成立していない(と彼が信じる)場所へ赴き、言語のかわりに映像を使って人々が喋りだせばどうなるか、という実験をした。その実験は失敗に終わるのだが、映像で考える別の人間をつくりだそうとするもので、「革命(人間を革命する)」と考えていた。

思考は言語の行為そのものといえるが、言語のかわりに映像で考えると何がおこるのか。
例えば「わたしは犬を飼っている」を言葉ではなく映像で表そうとする。犬と遊んでいる姿を映したとしても、その犬が実際にわたしのものであることを表すには、かなり工夫しなければならない。また、様々な概念、「わたしたち」「普通」「言語」「考える」などは撮ることができるだろうか。「わたしたち」という概念はほとんど人間そのものだが、たくさん人を映すこととは違う。映像は何かを映してしまうと必ず具体的になってしまう。一般的な状況や普遍的な状況を映像で表すことは、とても難しい。
かつて映画を言語として扱おうとした人はたくさんいた。初期のサイレント映画はエスペラント語(世界中の誰もがわかる人工的につくりあげた言語=普遍語)と考えられた。あるいはソヴィエト・モンタージュ派と呼ばれるエイゼンシュテイン。彼は映画を革命的な社会を生みだす新しい言語として使おうとした。

具体的な映像を使ってなにかを撮ると、表そうとした観念より以上のもの、あるいは以下のものが映ってしまう。さまざまなものが映ることで、映像の思考は曖昧に、あるいは不確定になってしまう。その結果、映画を言語として考えていた人たちはいなくなっていく。
映画は、それによってなにかを考えることができるかもしれないが、そこでなにが考えられたのかは、はっきりとわからないような言語であり、しかも見ている人にとってそうであるばかりでなく、つくった本人さえ確定できないものとしてあらわれてしまう。
本講義では、この「不確定性」の問題を扱う。映像のもっている曖昧さ、不確定さを思考の題材にする。

ゼミ第1回では、映画を言語化するときの手がかりとして、スミッソンの作品をみた。しかしスミッソンが映画のなかで語っていたのは、映画について思い出したり書いたりするのはできないということ。不確定にならざるをえない。この不確定なもののなかで思考するとはどういうことかを、今後の講義で考えていく。


宿題
A1 「地面」をテーマに、1分以内の映像作品を制作してきてください。
B1 『十月』(セルゲイ・エイゼンシュテイン監督、1928年)あるいは『戦艦ポチョムキン』を観て、作品の核心を構成すると思われる論理を取り出し、2000字以内で分析しなさい。
※『十月』のどこがすごいのか、たんなる感想文にせずに、「作品がどのように作られているか」に注目して分析する。
※1つないし2つのシーンを詳細に「観察」して、そこから発見したことを書くとよい。

A1: 次回授業時に提出
B1: 10月12日12時までにメールで提出


スミッソン・大地とダイアグラム・泥の思考 


《パサイックのモニュメント》:フレームとエントロピー
ロバート・スミッソン。画家として出発し、彫刻をつくり、文章も書きながら、アースワークと呼ばれる屋外の巨大な作品をつくる。
スミッソンは《パサイックのモニュメント》(1967)という、旅行記のような写真を美術雑誌に発表する(ニュージャージーのパサイックという土地に旅をするフォト・エッセイ)。NYから電車に乗り込み、新聞と『アースワーク(人工の土をつくる技術についての工業的な本)』を読む。その間に、自分の思考のなかに入ってくる音や(他者の)声が、頭の中で渦を巻き始める。だんだんと思考が新聞や本に支配されてくるような雰囲気のなかで、パサイックに降り立つ。するとその土地がリアルな土地ではなく、あたかも巨大な写真のように見えた。
スミッソンはこう記している。「パサイックで歩くことは、まるで巨大な写真のなかを歩いているかのようだ」。「真昼の太陽は場を映画化した。橋と川を過剰露光した写真に変えながら。それをわたしのインスタマティック400で撮影することは、写真を撮影するようだった。橋の上を歩くとき、わたしはまるで木と鉄でできた巨大な写真のなかを歩いているようだ。そしてその下には川が、絶え間なき空白以外は何も示さないような巨大な映画として存在する」。スミッソンは巨大な映画のようにみえる風景を撮影した。

(《パサイックのモニュメント》最後の写真)スミッソン「片側半分は黒い砂、もう片側は白い砂によって分けられてた砂の跡を思い浮かべる。一人の子供をそこで百回時計回りに走らせると、砂が混ざり、灰色になり始める。今度は反対に、その子供を反時計周りに走らせる。結果はもとの砂場の回復ではなく、より度合いを増した灰色さと、エントロピーの増加である」。
スミッソンは作品をつくる際、つねにエントロピーの問題に取り憑かれていた。


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Robert Smithson, The Monuments of Passaic, 1967.


スミッソンが活躍する60年代の手前に流行したのは、抽象表現主義だった。大雑把に言えば、画家が作家のエネルギー、情熱を、あたかも絵画の内側にぶちまけたかのように見える作品だった。そこで実践されていたのはエントロピーの逆で、なにかが熱せられたかのような状態、冷めていかないような状態が目指されていた。しかしスミッソンがしばしば使う言葉は、そうしたものとは逆向きの、「崩壊」、「疲れる」、「忘れる」などで、崩れていくような感覚がつねにあった。崩れていく自分そのものを作品化しようとする。
崩れていくものを、いかにして見せることができるだろうか。たくさんの石を持ってきてフレーム(箱)に入れるように、パサイックで見つけた砂場にも、なにかが崩れていることを確認するために、フレーム(枠)がある。意地悪くみれば、美術館で見られるようにうまくフレーミングをして、商品として美術館で展示をして、売り抜けたという言われ方もできる。ただ、そのままで作品にならないものを作品にする、というだけでないところがある。


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Robert Smithson, Partially Buried Woodshed, 1970.


屋外の作品《部分的に埋められた小屋》 (1970)。なにかが消えてなくなることを作品としてつくりあげる。ここでは小屋がフレームだが、自らが壊れることで、なにかがそこにあったことを示すようなフレーム。フレームの崩壊によってエントロピーを指し示す作品になっている。
フレームのなかに入っているものは、何らかの秩序をもっているものとして経験される。フレームを書き込むことで内部の秩序が保たれる。ではそのフレームはどこにあるだろうか。人間の心的な構成物か、それとも物理的な構成物か。もちろん両方である。物理的にペンのインクなどで囲んで区別することでもあるし、思考の抽象的な心的な出来事そのものでもある。
スミッソンはこのフレーム、ダイアグラムが、頭の中に存在していると同時に、世界に存在しているものであると考えていた。


《スパイラルジェッティ》:泥の思考と大地語
スミッソン「アースプロジェクトのことを考えるとき、人は「泥のような思考(muddy thinking)」を避けることができない。あるいは、わたしが言うところの、抽象的地質学、つまり人の心と大地は恒常的な浸食の状態にあり、心の川は抽象的な土手を削り、脳の波は思考の絶壁を登り進み、観念は道なる石に砕け、概念の結晶は砂のような理性の沈殿物へとばらばらになる。」
この短い文でスミッソンが言いたいのは、人間が考えるのは、ひとつの風景のようなもので、思考のなかには土手や波や石や川があり、地質的な作用がある。逆に、この世界にある地質学的な風景そのものも、風景のなかに現実化された思考であるということもできる、ということ。


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Robert Smithson, Entropic Landscape, 1970.


スミッソンにとって、人間の内的な思考と外側にある風景は、ほとんど区別がない。
《エントロピック・ランドスケープ》(ドローイング、1970)。この風景はスミッソンの内部の風景であると同時に、スミッソン自身がこれからつくろうとしている、具体的な建築的スケールをもった作品の設計図。内部の思考と外部の環境が通じてしまう場所。その場所をスミッソンはポオの小説、『ナンタケット島出身のアーサー・ゴルドン・ピムの物語』からとる。

――配布資料:ポオ「ゴルドン・ピム物語」
白人が未開の野蛮人の国で、洞窟の平面図を発見する。物語自体は唐突に終わってしまうのだが、あとがきに、洞窟の平面図だと思っていたものが、文字であったこと、壁が剝げて文字のように見えたものが、実はアラビア文字の語根であったと記されている。もちろんつくり話なのだが、スミッソンはこの物語を好み、壁が剝げて文字のように見えつつ文字でない、と思いつつ文字だったというのは、彼にとっての、大地そのものが思考する可能性と繋がっている。

スミッソンはそれを「大地語(earthwords) 」と呼んだ。スミッソンには頭のなかの思考が風景になっていく考えがあったが、ポオはその逆で、ただの壁の模様が言葉になってしまう。人間が考えるのと同じように、大地が言葉を喋るようなアイディア。もちろんそれは、人間がつくったものかもしれないし、そうでないかもしれない。人間がつくったものか、大地がつくったものか、スミッソンはそのふたつが決定できないところに関心をもつ。
《スパイラルジェッティ》(1970)のような抽象的なダイアグラムを地面につくり、人間のつくったものであると同時に、大地の言葉でもあるようなものをつくろうとした。

思考は人間の外にもある。簡単な例は、筆算。桁数の多い計算で書き記しておくことで、あるひとつの計算をしている最中、その前の計算を忘れていられる。それを書いた人間がいなくなっても、その思考は残り続ける。部屋の配置などからも、なんらかのかたちで住んでいる人の思考していたパターンが残る。それはある意味、外在化された思考であるといえる。
映画も、なんらかのかたちで思考が外在化する。作者が死んでも、再生し、繋ぎ直される。誰かがつくった思考過程が別の人の脳に接続して、別の人の脳として映画が機能する。
スミッソンが「泥の思考」で考えているのは、人間が考えたものでなくても、そこに思考がありうるかもしれないということ。科学的ではなく神秘主義を孕んでいるのだが、そこを大地語といった。


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Robert Smithson, Spiral Jetty, 1970.


《スパイラルジェッティ》の映像は、湖に把手をつくるプロジェクトのドキュメンタリーであるだけではなく、つくるに至った思考のようなものをあらわしている。
乾いた泥はヒビが割れる(ダイアグラムが発生する)。それは人がつくったものではないが、ポオの洞窟の剥げ落ちた模様のように、大地の思考の軌跡と読むことができる。それは人間のつくるダイアグラム、地図のようなものと連続している。雑誌や地図をばらばら破り、崖から放り投げ、地面の上に地図がちらばる。投げた紙片が泥の形成と同じようなかたちであらわれる。人の思考と泥の思考の連続性をみせるところから始まっている。
地層そのものであるかのように本を重ね、人の思考と泥の堆積を同じものとしてみせる。また人のつくったダイアグラム地図と、現実の風景が浸透しあうような映像が映しだされる。把手をつくるトラクターの映像と、静かな水の音が交互にあらわれる。恐竜の映像に切り替わり、把手をつくる荒々しい運動と重ねられる。トラクターの全体像と操縦する部分は画面に映らない。そのことで、あたかも意図を持った自動機械のようなもの(恐竜)が、把手をつくったようにみえる。
映像を分析するときに重要なのは、そこになにが映っているかではなく、そこになにが映っていないかである。

《スパイラルジェッティ》の映像の最後は、ダイアグラムの中心部に、太陽を映すようにカメラをもってくる。そのときにナレーションで、「太陽というのは一個の星ではない。まるで蜜蜂が群れをなしているかのように、星雲が集まってできたようなものだ。ただ一つの星ではない。群れだ」という。くり返し太陽を中心部にもってくる。すると中心部が見えなくなる。「太陽を見続けていると頭痛がしてくる。さらに見続けていると、記憶喪失の症状が始まり、集中力の低下がおとずれる」という。
ドローイングの段階では、(権力が)こつらを見つめてくるような絵を描いていた。プロジェクトの段階でもそれはあったが、実際にこの映像になると真逆で、ドローイングの中心にある目玉が、太陽になって消えてしまう。自分が壊れ、記憶喪失をもたらす映像としてこの映画を出す。
映画の編集台の上に置かれたスパイラル状のリールを映し、映像は終わる。

スミッソンは後に、『アートフォーラム』誌に「スパイラルジェッティ」についての文章を書き、こう言っている。
「映画について書くことはできない。なぜなら映画は忘れてしまう。映画をみていると、だんだんといろいろな映画の記憶が混ざってきて、映画について思い出そうとしても、なにも書けなくなってしまう。真っ白なスクリーンの姿でしかない」。
またスミッソンはそこで、理想的な映画館のあり方を書いている。それは洞窟を映画館にするというもの。ただしそこで上映できるのは、その洞窟をつくるところを撮影した映画のみ。それをずっと流したままにする。映画は物質であるために、何十年とかかるうちにフィルムはすり切れて、真っ白な光しか残らなくなる。そうすることで、なにかつくられた構造が反復され、真っ白な記憶喪失になるような映画がつくられるという。


配布資料 
-シラバス
-第1回講義 大地とダイアグラム――映像と思考の場所
-第1回 ブレインストーミング
-第1回 アンケート

-C. S. パース『記号学』より
-E. A. ポオ『ゴルドン・ピム物語』より
-ジル・ドゥルーズ 『シネマ2*時間イメージ』より


[構成:秋本将人・印牧雅子]