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「99パーセント問題」とは何か?|
2011年度岡崎乾二郎ゼミ講義録

この講義録は、四谷アート・ステュディウムの学生のみに公開している講義録より
一部を抜粋したものです。


2011年度 岡﨑乾二郎ゼミ基礎|自由応用 第12回+第13回の講義録です。
基礎、自由応用の合同講義が行なわれました。

>> 岡﨑乾二郎ゼミの講座案内はこちらです。


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【「99パーセント問題」とは何か?】

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●99%の排除されたもの:Occupy Wall Street のデモのスローガン「We are the 99%」
代表(リプレゼンテーション)は選択された「図」=1%そこから排除された見えない99%の「地」がある
○ある日用品。今は美術館に一つしかない。かつては日常の中に沢山あった。日常の中にあればゴミにまみれている。民芸運動:美術館にあるだけではなく、ゴミの山の中にあってもいい。
ex. 少年週刊誌『少年マガジン』:大人になってみるとレアアイテム
 →100個バラ撒いて、1つのなかに99個を見せなければダメ。
 →表向きは日用品のふりをしている、しかしそれはもう使われない。その技能を残すためだけに存在している。道具なのに道具ではないから不健全。千年後に残すという意味では健全。


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週刊少年マガジン創刊号の表紙(1959年)

○芸術と他の人造物の関係をどう考えるか?(普通の道具と作品の関係を考える)
【ex.】 ロバート・ラウシェンバーグのダンボールの作品:商品として供給されたものをアッサンブラージュ。それでいいのかどうか?→目利き・消費者的(それを選んだことが重要):美術作品は結局のところ、ゲシュタルトの強さで測られてしまう。

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Robert Rauschenberg《Baton Blanche(Cardboard)》1971年


●絵画と装飾の違い
絵画は、①絵画それ自体が部屋(空間自体をつくる)②図(文字、アイコン、判子のようなもの)。
装飾は、①支持体や展示場所を選ばない(選べない)、空間に寄生するという戦略。②どこからでも見れる、部分しかない。
○装飾は99%。ゴミに生まれてゴミに終わる。絵画も生産物として捉えれば装飾と同じ。


●風景=背景=地
○風景画は元々は「何を描いているかわからない」ものだった。積極的な意味をもたない「背景」。→風景は背景、すなわち「地」だった(視覚のフィールド、視野そのものが示されている)
【ex.】ターナー、モネ
 →複製芸術(版画)が風景画を生み出した。ex. 北斎などの浮世絵:図像の多様化
 →「図」が成り立つのは極めて絞り込まれた状況のみ。「これが〜である」とわかるのは、あらかじめ観客との関係が選択されているから。

◎背景が前景化する、主題に変わる:無意識にしか、背景としてしか見られていなかったもの、なんとなくしか視野に入っていなかったものを絵にしたのが風景画。→「見る」とは、人の区別の中にある。
○風景画の誕生とナショナリズムの誕生はセットになっている。

cf. ケネス・クラーク『風景画論』、柄谷行人『日本近代文学の起源


●観客(鑑賞のスタイル/使用のスタイル)の問題:メッセージモデルで捉えると...
〈特定された多数〉=マッスとして捉えうる観客(メディアによって大衆として組織されている):数で捉えられる。
〈不特定多数〉=空間や時間に位置づけられない。
不特定な少数〉=不特定な少数に作品が届くためには、不特定多数に作品を渡す必要がある:複製が効果をもつ。


●芸術家は有名(1%の代表)、クラフトマンは無名(99%):
シャーマニズムのパロディのよう。そうでないと資本主義は成立しない。実際、社会主義国では芸術家はいらない、とされていた。みんな個人表現をしたいしその方が世の中うまく回る、というのが資本主義下の芸術
ヨーゼフ・ボイス緑の党の関係は?

○クラフトマン=誰がそれを享受するのかわからない、知っていたとしても享受するのは自分ではない(作品の意味を作者は決定できない)。→「(強いられて)それだけを専門にしてきた人」と「生活の合間にモノを作る人」の違いとは?

○「悪人の金でも金は金」あるいは、親鸞の「悪人正機」説と芸術作品は似ている:究極に突き詰めると、芸術の自律性の問題などとパラレル。


●分業体制の崩壊と占拠

○経済構造が崩壊すると、(分業体制の)生産システムもまた壊れて部品しか作れなくなる。
役に立たない無駄な技術、全体とは関係ないどうでもいい部品だけが残る(部品=機能的だがそれが何の機能があるかわからない)。
 →技術としてはあるが生活体系に位置づけられない(役に立たないものをつくるのが発明家の条件)。全体との関係を失った部分:部品になってはじめて価値を認められる。
○芸術としか言いようがないもの、言わざるをえないもの(はじめから「芸術」と呼ばれているわけではない)。→人間でいうと身分がまだ決まっていない、「人間」としか言えない。
cf. 岡崎乾二郎「売れ残り商品としての芸術」、コンスタンティン・ブランクーシの作品をめぐる裁判(以下の文献に記述あり:中原祐介「模型千円札事件——芸術は裁かれうるのか」)
「場所ふさぎ」別名「占拠」存在自体に意義がある、1%を目指さなくていい(もっとリッチになりたいと思わなくていい)。Occupy Wall Street のデモは「あいつらは何をしたいのかわからない」と言われる。でもそれで何が悪いのか? 永遠にその場を占拠しているだけ。


●哲学者タイプの芸術家(ex. ジョルジョ・モランディ、後期ジョルジュ・ブラック坂本繁二郎など=ハイデガー的)の問題
○世俗を超越しているため、ひきこもってしまう。→発表する意義は?「みんなこういうふうに哲学すればいいのに」ということを、どこに向かって見せるのか?
○「哲学者タイプの芸術家」は見た目はニヒリスティック(今ある世界に対してはペシミスティックに見える)だが、世界の外にはじめから立っているため、実は楽観的。
→だが、そのような者たち同士は、いがみ合い喧嘩することが多い(歴史上の他者とは仲がよいが)。哲学者は、遠くにおいてのみ連帯する?


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Giorgio Morandi《Nature morte》1941年


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坂本繁二郎《煉瓦と瓦》c.1944-50


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Georges Braque《Wheatfields》1960年


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☆☆
これまでの延長の「複製芸術」の課題:
最終的に、同じ作品を10組つくること(10カ所で同時に展覧会を行う)。
①その作品を見たときが「展覧会」となる。 複製芸術なら「展覧会場」はいらない。
②「10種類の異なる展示の仕方がある」と考えてよい。
ex. 誰か特定の人に頼まないとその作品が見れない(特定の人に作品を寄贈するが、その人は申し込みをした者には作品を見せなければならない)、など。
 →作品を見せることが演奏(パフォーマンス)になるようにする
  自分の仕事をどのように受け渡すか?→委託/流通システム
複製芸術なのに一回性がある、ということがポイント。

  
●偶発性をいかにつくり出すか、確保するか:コントロールできないものに対する態度
○茶道は「一期一会」を演出した。モノを出会わす場。
 →複製芸術の方がよい:他にもありここにもある、だけど違う、と感じさせる
  モノを見る眼が揺らぐ。「同じもの」が揺らぐ。


「偶々出会う」という偶発性
【ex.】「開いててよかった」がコンビニだが、24時間営業だからいつ来ても誰にとっても開いているのがあたりまえ。「偶々今、開いていた」というありえなさがあってこそ「よかった」と思える。「あらゆるニーズに対応しています」←→自分のためだけにコンビニが開いていた
【ex.】お見合い←→恋愛(ソル・ルウィットの作品は、お見合い的)
【ex.】色:色を感じさせるのは対比。見る側に葛藤を引き起こさせないと、色は感じさせられない。例えば、赤と青はそれぞれ別の世界にあり、自律している(どちらが手前にあるか奥にあるかは人間の頭の中で起きる)。「偶々出会う」は、その赤や青が動きそうに見えるときの、ひっくり返るような感覚。
cf. ハンス・ホフマン「Push & Pull」
 →また、色彩には拡張力がある。マティスの切り紙の赤はたとえ途切れていても、全体を覆っているように見える。色があるだけで、すぐに(対象が)確かにあると思ってしまう。これは星座を知覚するのと同じ感覚:星座はどこにも存在しないが、確かにある。
【ex.】写真はかつて「決定的瞬間」を撮ると言われたが、むしろ写真を見ているときが決定的瞬間になった方がよい。
【ex.】寄裂(よせぎれ):アッサンブラージュ
【ex.】落書き:画面を無視する、描く場所を気にしない


◎生の出会いではない部分をつくらないと、生の出会いは生まれない。


外部と下部構造の区別がつかなくなるのが「都市」
○都市ではインフラ(土木、下水道、電気などの下部構造)は「環境」として認知される。
 →ところがそれは人工環境であるから、実はその外もある。
○都市においては、人々が何を考えていようと一緒に住める(人の活動・意識が上部構造)。
 →都市は、何も知らない人でも生きていけるように作られている。cf. 生政治
 →テクノロジーが発達すればするほど、わからないことが増える
 (自分達の生活習慣とそれを支えるものとが分断されている)。
  近代的な主体であるほど、テクノロジーが破綻してインフラが露呈するとパニックになる。
 →メタボリズムの建築はすべてを同一の基盤構造の上に作ろうとする。
理論の萌芽=今まで排除されていたものに気づく特殊が普遍になる
 →思い込みだけならデータはいらない。
○近年の科学では、理論よりデータの方が先行している。昔と違って膨大にデータは集積可能になっている。
 →つまり、ある意味では気づいた者勝ち。科学までインフラ先行になっている。
【ex.】子供の言語習得:両親の会話が途切れたときに、まるで空間を埋めるように、初めて子供が発話することがデータ解析の結果判明した。