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六義園見学、作庭の問題|
岡﨑乾二郎ゼミ基礎/自由応用 2009年度講義録[2]

この講義録は、四谷アート・ステュディウムの学生のみに公開している講義録より
一部を抜粋したものです。


2009年度 岡﨑乾二郎ゼミ基礎|自由応用 第2回(4月24日)の講義録です。
基礎、自由応用の合同講義が行なわれました。


>> 岡﨑乾二郎ゼミの講座案内はこちらです


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六義園見学


六義園|りくぎえん
1702年(元禄15年)完成。徳川5代目将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保の下屋敷に、柳沢自らが開園させたもの。
六義園の名の由来は、中国の『詩経』に分類されている詩の分類法を和歌に適用させた紀貫之の『古今和歌集』の序文にかかれている「六義」(むくさ)に因む。柳沢吉保はこの『古今和歌集』に出てくる和歌を庭園で再現しようとした。

前回述べたように、
. 庭園には 風景として自然を見る型(風景の型=パターン)が示されている。庭園=風景の型を通して、自然は風景として見える。
. 庭園は、すでにある庭園の解釈(庭園と庭園の関係、集合、つまりさまざまな風景の型を統合したもの)として成立している。
. すなわち庭園は、複数の庭園(風景の型)の集合=構造化されたものである
. 庭園には、その文化にありうる複数(無数)の風景(の見方)の重なり=集合として、その文化にとって自然とは何か(どのように見られていたか)が示されている。 
. 自然は庭園の模写であると同時に、庭園自体は庭園の模写である。結果として、庭園は すでに作られた(誰かによって見られた風景としての)庭園を写していることになる。
(自然)〜 風景 ← 庭園 (複数)→ 庭園 → 庭園
. 行ったことのない、行くことができない異国(ex. 中国の風景)がいかに把握され、伝達されたか。
. なぜ訪れたこともない庭園を模写することができたのか?多くの場合、詩歌、付属的に絵画が その媒介となった。
. 日本の文化において、とくに古今集、新古今集は文化的な記憶(を伝達する基本的な)媒介としての機能を担ってきた。なぜ和歌は、そのような文化の規定(基底)的なものとなったのか?



第2回の現地での演習課題
10〜20枚のスケッチ(これらのデータをもとに庭園を再現(復元)できるように)を作成する
(補助として写真を10カットのみ選んで撮影することも可)

  
★★
次回までの課題
六義園のオススメコースを6種類制作する
(表現メディアは何でもよいが、写真を使用してよいのは、自分が立体をつくってそれを撮影する場合)


[課題のポイント]
もしもあなたがこの庭園の持ち主で、いつも異なった種類の客が来るとしたら? => 客ごとにそれぞれコースを変えなくてはならない

回遊式庭園は、明確な中心がある:上空から俯瞰したら(地図に書いたら)、「真ん中に池がありそのまわりを陸地が囲っている」というふうにしか見えない
いかに中心を見せずに、ふと気づくと「ああここだった」と感じさせるか?単純でありながら単純に見えないようにするには、どうすればよいか?


1つの公園が6つの異なった公園に感じられるようなコースをつくる
(1つの場所を6つの別の時間軸で見る)


・実際は回遊式なので複数の道があるが、それぞれのコースは線的にまとめること
【ex.】 道がなくてもよい(たとえばヘリコプターで上空から見るというコースがあってもいい)、ツツジだけ見せたいならこういう順路がよい、など
場面(あるいはストーリー)を想起してつくること
【ex.】 狭い道から広い道に出る、裏山かと思ったら大通りになっていた(「千里場(馬場跡)」:明治神宮の道に似ていたりする)など
【ex.】 灯籠は庭好きな人にとって理解しがたい。しかし灯籠の配置によって、大名好みの風景がつながるようになっている

複数の風景が接合する点が問題(順路、コースによって矛盾しないようにできている)



補助解説


1.


★庭園の基本とは
人間の「想起」に訴えかける技術によって、限定された場所に無限定な空間(時間)をつくり出すこと 境界線をいかに超えるかという問題
(人間が何かを認識するとき、全体は見えず、部分から何かを想起している:目の前にあるのは、つねに限定された情報)


★この問題の解決策として、以下のような技法がある

A. 見立て 比喩
B. 模型として示す「縮景」=景色を縮減する
C. 「回遊式」=順路(順序)があるということ(文学も映画も美術もこの特徴によって繋げうる)
→見る側の位置が固定されておらず、動き回れる
 技法としての回遊式に、どのような有効な点があるのか?
A→Bという順序で見るのと、B→Aという順序で見るのでは異なる
 =「時間」的プロセスの差異(ヴァリエーション)によって、多様性を示す
D. いかに限定=閉鎖した空間を意識させなくするか(いかに外部と内部の区分、境界を意識させなくするか)
→「借景」=外部の風景を景観として取り込む
→「ハハー」=境界を隠し掘りにする


★しかし、最も本質的な方法は、人間の認識形式をそのまま使うことである。
つまり、人間が捉えうることができる 感覚与件 sense data はつねに、対象そのものの部分でしかない。部分から全体が想起されている。断片→全体。
こうして庭園は、洋の東西を問わず 記憶術 と大きな関係をもつようになる。その必然的な展開として、廃墟、遺跡から風景を想起するという技法(時間的変化を超えて、いま目の前の現象にない、ありうるべき風景を想起する)が発展する。


【ex.】 西洋の庭園


■イタリア式庭園:グロテスク(Grotesque)
→グロッタ(Grotta 洞窟=地中):何があるかわからないという無限定の空間


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ブオンタレンティの洞窟(Grotta del Buontalenti)


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Cupid's Grotto


■フランス式庭園:幾何学的→ミニマリズムと同じで、ひとつの装飾パターンが延々と繰り返される

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シャンティー庭園(Chantilly Garden)


■イギリス式庭園:ピクチャレスク(Picturesque)、風景式庭園


■スタウアヘッド庭園(Stourhead Garden)

http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Stourhead

http://en.wikipedia.org/wiki/Stourhead



■廃墟主義:わざわざ公園のなかに廃墟をつくる(ギリシャ・ローマの遺跡などの影響)

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【ex.】 ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin, 1594-1665)、クロード・ロラン(Claude Lorrain, ca.1600-82)などの絵画にも出てくる


庭園にこうした廃屋、四阿を配置することを「フォリー」と呼ぶ。
中国、日本の庭園でも同じ

「西洋と東洋が洋の違いを超えて交流していた」というよりも、そもそも作庭の論理的構造が要請している
→人工的に、閉じた(完結した)構造をつくろうとしている(=無限を表現する)



2.


■作庭術の主要な構成要素
・築山:アンギュレーション(angulation)、凹凸をどうするか?
・遣水:水をどう流すか
・石
(以上は構造的な要素)
 +
・植物
(時間の変移により、どのみち変わってしまう要素)

変わっても成立するためには、どうすればよいか? 


「荒び(すさび)」
「見立て」の一種:「見立て」を極限化するとどうなるか?→「つわものどもが 夢のあと」

その基本は想起
「今はないが、かつてはこのような景色があったに違いない」と思わせる表現


【ex.】 「つつじ茶屋」周辺の、かつて遣水があったとおぼしき箇所:
「いまは枯れていたとしても、水が流れていたのはここであり、こここそがその風景だ」ということが想起される
→石が並んでいるだけで、川の音が聴こえてくる。枯山水の技術はこうした発想から生まれた
→誰もがわかるようにしなくていい


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【ex.】 「つつじ茶屋」:いまにも崩れそうな掘立小屋のような、廃墟風の茶屋
→それを演出してかっちりつくってある
(下部は枯れ木のよう、上の屋根は一度壊れたものを上げているように見せている)
=廃墟を利用し隠棲している者(ホームレス)の存在を喚起させる
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【ex.】 六義園八十八景の一「剡渓流(せんけいのながれ)」:
「山陰橋」から「つつじ茶屋」を眺める。
中州に住んでいる友人を訪問したが、門のところまで行って帰っていったという中国の故事


★重要なのは「記憶」ではない
たとえば、犬などの動物が感じる「気配」→ある人が死に視覚的に存在しなくなっても、匂いが残っていたらかなりリアルに感じる。
一方で人間は嗅覚が鈍いので「匂いは時制を持たない」と言われている→同じ匂いがしたら過去の記憶がありありと甦ることがある。【ex.】香道

そのときのことを思い出すのではなく、いままさにそれが起こっている気配がする
いわばお化け屋敷の仕組みに近い(ひとがいないのにひとがいるように感じる)
記憶というよりも、部分的な知覚が何かを想起させる点が重要


【ex.】 「蛛道(ささかにのみち)」:道が蜘蛛の糸のように細いことから名づけられたとされている
→しかしむしろ、細道のまわりに笹があり、その笹の音がさらさら鳴り、まるで蜘蛛がそろそろと近づいてくるように感じるからそう呼ばれている、とした方が正確ではないか?

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連想する、見立てること=Aを見て別のBを感じること=「アソシエーション association」
・無関係なものをいかにつなげるか?
・想起は個人的なものではない(むしろ視点が変わる)
現在と過去の区別、思い浮かんでいることと見ていることの区別を消去するのが「見立て」(「模倣」とは異なる)



3.


■スケールの問題


山水画を描くコツと作庭のコツは似ている→山水画では、「劈頭」と呼ばれる、小屋を建てたくなったり釣り人を置きたくなったりするような、平らな場所をつくる。作庭では、スケールを出すために、平らなものと垂直なものを組み合わせる(それだけで空間がつくれる)


【ex.】 六義園入口付近の仕掛け:
1. 入口の最初の門、「内庭大門(ないていだいもん)」をくぐると、大きなしだれ桜が視界を遮る

(道はゲームのように枝分かれしており、どの道を選ぶか、選択するようにつくられている)

2. 大門の次にある小さな門をくぐると、ぱっと水平的に風景が開ける
(この門は身長くらいに低く、小さい:茶室の入口の効果に似て、実際は狭いところに入っていっているのに、一端低くすることで広く感じさせる)

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■景観形成
水平や遠近の変化、あるいは水の流れによって、景色の方向がつくれる


【ex.】「滝見の茶屋」に行く前にある、小さな広場:垂直に木が生えている、ぽっかりと空いたスペース
→このスペースの垂直性と、茶屋周辺の水の流れによる水平性の対比が重要

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【ex.】 「出汐の湊」:水源があった、もともとは浜ないし湿地帯だったであろう場所→砂利(玉石)が敷かれていてなだらかになっている

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4.


■現代美術=現在中心主義の誤り


【ex.】 2008年の横浜トリエンナーレの展示があった三渓園:
三渓園は六義園よりよい建物があるが、それらの関係の組み立てはおもしろくない。
しかしそこにあった、人がいないのにテープレコーダーで録音された声がする、という現代美術の作品はもっと酷い
→実際に声が聞こえなくても声が聞こえるような状況をつくったその庭で、
リテラルに声を流すという行為の野暮ったさ

歴史の捉え方の誤謬。
あるいは「現在のこうした現代美術を、将来どうやって想起するのか?」という観点が入っていない

現在中心主義:現在だけが特権化されている
「現在を前提として、そこに昔あったことを再現する」という現代美術と、
「いまあるこの時間も、過去になる」という荒びは、時間の捉え方が真逆


■現在があって過去があるのではない

【ex.】遺跡発掘反対の論:遺跡は土のなかにあることによってすでに保存されている。
掘り返したことによって、かえって朽ちてしまう(ex.カビが生えた高松塚古墳)。
「現在に甦る」とはいかなることなのか?


現在性を静止したものと捉えてはダメ。
認識自体が「想起する」という時間性を帯びた構造をもっている

見える人には見える、見えない人には見えない → 「見えた」という認識のプロセスが、芸術のなかに組み込まれている

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【ex.】 映画『雨月物語』(1953)監督:溝口健二、原作:上田秋成
http://www.youtube.com/watch?v=L8wgawni0mc&feature=related
→『雨月物語』より(06:00より後を再生すること)
この映画の琵琶湖のほとりの朽木屋敷(廃墟)の表現には、荒びという庭の表現の基本的感覚がよく示されている


【ex.】 「建築は知覚のなかに現われるのか、それとも物体として存在するのか」という建築家の抱えるアポリア
バーナード・チュミ《マンハッタン・トランスクリプツ》(1976-81):実際に建築をつくるのではなく、知覚のなかに建築が現われる




作庭の場合、フェノミナルな部分、現象までは操作しない。
構造だけをつくる=変化しても残るものは、認識の構造

■なぜ庭と記憶は結びつくのか?(「眠くなる」という点も含めて)

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【ex.】 映画『去年マリエンバートで』(1961)監督:アラン・レネ 脚本:アラン・ロブ=グリエ
→『去年マリエンバートで』より(04:00より後を再生/参考にすること)
http://www.youtube.com/watch?v=eqzEdN2XaSk&feature=related


→(以下ははじめから再生)
http://www.youtube.com/watch?v=NhOiscfXofQ&feature=related


いま見ている、味わっているということよりも、それが何につながるのかという点が重要
【ex.】 和菓子:味そのものはどれもあまり変わらない。
色や素材などの視覚的な要素と、和歌のような「謂われ」によって成立している



5.


かけがえのないもの、そこにしかない唯一のもの
=記述できないもの、
 要素・部分の組み合わせに解体できないもの、
 言い換えることができないもの
=存在それ自体と無限
→単独性、唯一性、キャラクター、固有性(あるいは固有名)の問題


【ex.】ファッション: 
「荒び」は、パンクないしグランジ・ファッションに相当する
なぜわざわざ新しい服を破いたり、ブリーチ・アウトさせたり、染みをつくったりするのか?
→ 服そのものを見せているのではない
→ 古びた感じを人為的につくりだす(「侘び/寂び」)
形式化しえない部分を形式化する
  

【ex.】「田舎風」「大名風」 → 「〜風」であるかぎりは本物になれない:
オリジナリティがなくなる=様式化する、スタイルになる

スタイルを通して、スタイルでは一般化できない、スタイルを超えた、
「ひとつしかないもの/そこにしかない(=キャラクター)」を表現しなければならない
形式の問題から出てきた「単独性(シンギュラリティ)=たったひとつしかないユニークなもの、かげがえのないもの」の問題


主語(概念)と述語(属性、記述)の関係


たとえば、かけがえのない人(恋人、親、子)。アリストテレスという哲学者がいる(いた)こと。六義園という庭園があること。こうしたひとつしかないもの(ほかのもので置き換えられることがないもの)はいかに記述できるのか?
要素でその特性を記述すると、その特性をもつものは同じであるということになってしまう。


【ex.】 (黄色、楕円形、果物、すっぱい)→ レモン


しかしこれは、レモンという「類」を説明することはできても、ここにしかない「このレモン」を説明することはできない(【ex.】 智恵子のかじったレモン)。


様式が発達すると、様式のカタログが整備され、田舎風、都会風など、様式(スタイル)の組み合わせで個性を表現できるようになるが、いかにこうした組み合わせで差異が表現できたとしても、それは置き換え可能なものしかつくることができない。オンリーワンのもの=単独性ができないという問題につきあたる。
→ それが、19世紀の建築様式のCharacteristics キャラクターという問題として、前面にあらわれた。


■この単独性(たったひとつしかないユニークなもの)があることは、どのように確かめられるのか?
それは固有名という言葉の効果ではないのか?


【ex.】 クリプキの解説
ふたつの異なる固有名(呼び名)が示す対象が同一であることは確かめられない。それぞれ別の単独性=固有性を示してしまう。


a.
LONDON(ロンドン 英語)とは LONDRES(ロンドレ フランス語)である(とイギリス人が言う)。


b.
LONDRES とは LONDONである(とフランス人が言う)。

このようにいくら説明しても LONDRES と LONDON が、同じ場所を示すことは確かめられない。つまり、aとbの二つの文が同一であることは絶対に確かめられない(別の単独性を示す)。どちらの単語が主語とたてられるか、その位置によって回収される場所がまったく変わってしまう(主語と述語の関係が絶対にイコールにならず、述語は主語の一部になる)。



「このわたし」があるのではなく、むしろ文の生起するプロセス(順序)の問題。「ロンドン」という言葉、言説がいかに組織され使われてきたという時間的経緯が、そのなかに刻み込まれている(誰が最初にそれを呼んだか、それが何を指したか、この言葉によって何が引き出されたか、など)。それゆえ名前(固有名)は、ナショナリズムの起源になる


【ex.】「バラは赤い」
ひとはバラを見ていると思っているが、現象として現われているのは、「赤い」「棘がある」といった個々の述語(性質、属性)だけ
主語の「バラ」は概念であり、バラ自体は見えない。むしろ述語から主語が想起されている

「〜の本質は何か」という問いは、束ねる中枢があることを前提としている。
しかし実際には、ひとつの全体概念があり、それが部分の性質を束ねているのではなく、束ねている点がある(かのように)想定されているだけ


誰がどう見てもいつでも同じとするのが、ミニマリズム(ズレがない)。対する「つねに変化するバラを表現したい」というときの無限性、庭の特異性とは?

いわば、ほとんどバラの気配がない、属性であるギリギリのところを狙う


【ex.】 壊れている棘が一本落ちている
重層的にさまざまな感覚が呼び起こされる、その微妙な点をつく(そのために、できる限りあいだを省く)
【ex.】 落ち葉がたくさん落ちているだけでも、すべてきれいに掃除されているだけでもダメ。一回すべてきれいに掃除したあと、そこにニ、三枚葉を散らす
→暗号解読の作業に近い



参考:


作庭については
・景観デザインについて|岡崎乾二郎
http://kenjirookazaki.com/jp/land.html
・此岸と彼岸|岡崎乾二郎
http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/method/okazakihouhou/text2.html


ピクチャレスクについては
・固有性(キャラクター)と構成(コンポジション)--あるいは十九世紀における建築言語の変遷|コーリン・ロウ(『マニエリスムと近代建築』所収)



文責:高嶋