自然と芸術|
岡﨑乾二郎ゼミ基礎/自由応用 2009年度講義録[1]
この講義録は、四谷アート・ステュディウムの学生のみに公開している講義録より
一部を抜粋したものです。
2009年度 岡﨑乾二郎ゼミ基礎/自由応用 第1回 4月17日の講義録です。
第1回は基礎、自由応用合同の講義でした。
岡﨑乾二郎ゼミの講座案内はこちらです
http://studium.xsrv.jp/studium/kouza_workshop.htm
★今学期テーマ
◎ 前期の課題アウトライン。
自然とは何か、芸術形式を、自然との関わり方の様々な方法として考える。
そのファーストステップとして、自然観察=採集をおこなう=自然のデータを採集(写し取ることを含む)する形式=方法=技術を考案、その技術形式にしたがって、自然観察=採集を行う .ex 自然科学におけるサンプリング、植物図譜
↓
最終的な目標として、集めたデータを結びつけ、自然を再構築する(方法をつくり、再構築する)。
ex 庭園など
◎◎ 1回目の課題。自然観察= データの採集(サンプリング)を行う。
◎◎◎ 解説(要点)
1 芸術は芸術作品としては完結せず、かならず外部(自然)と関係づけられることで成立してきた。その方法=技術はさまざまである。
2 芸術を構成するのは、既存のさまざまな技術である(芸術固有の技術は存在しない)。
3 個々の技術にのみ注視すれば、それぞれは自律した、自然との関係をもち(必ずしも芸術とよばれることを必要とせず)成立している
4 自然と関係せず、成立する技術は存在しない。
5 一方で、技術(それがともなう形式)を媒介とせず、直接自然をとらえることはできない。
6 自然とそれぞれ具体的(厳密)、規定的な関係をもつ、それぞれの技術は、みかけは芸術的(美術的)にみえたとしても、必ずしも芸術という説明を必要としない。
(→対して、芸術表現はつねにこうした、さまざまな技術を利用してきた →1
7 自然 はひとつの概念である。その用語を概念として用いる(使用する)側によって、定義される自然であるにすぎない。
8 -1 諸技術相互の関係をとらえ、あるいは、それを最終的目的を把握しようという要請のなかで、芸術という概念が必要とされてきた。
8 -2 この意味で 芸術と概念のステータスは 人間という概念のステータスと同型である。
9 人間自身(身体)もまた自然の一部である。 意識(精神)/ 自然(身体) の区分は 精神自体が自然によって基礎づけられている(身体によって形成されている)ことを振り返れば、容易に崩される。→ 2 芸術を構成するのは、既存のさまざまな技術である(芸術固有の技術は存在しない)。
★★解説で示された具体的な事例(以下のような事例が紹介された)
○1
芸術家の「自然観察」と 自然科学者の「自然観察」の差異を考える科学者の植物画は、画家の風景画と何が違うか。
・植物画譜の事例。
牧野富太郎(1862〜1957)
シーボルトPhilipp Franz Balthasar von Siebold(1796〜1866)の日本植物誌(川原慶賀などによる下絵をオランダで図版化。下絵の方が絵としてのバランスなどがとれていないが正確。印刷された図譜は様式的に整えられ、誇張されている)。
http://commons.wikimedia.org/wiki/Philipp_Franz_von_Siebold_and_Joseph_Gerhard_Zuccarini
↓
自然科学者により観察された対象は、観察方法、観察形式(描写方法)によって規定される。→つまり自然科学者も、いやおうなく表現者=芸術家であるほかない)。
ex. エルンスト・ヘッケルErnst Heinrich Philipp August Haeckel(1834~1919)
http://ja.wikipedia.org/wiki/エルンスト・ヘッケル
→ 記録の形式(描写形式)が、実際の自然には存在しないものを存在させてしまう
ヘッケルの有名なテーゼ、「個体発生は系統発生を繰り返す」、
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Haeckel_drawings.jpg
胚の発生図(胎児の発生過程の図)の意図的に体系化されたチャート図(いくつかの箇所は実際の観察ではなく、連続的に見えるよう想像的に補われた図であった)から、導きだされたものだった。
一方で、ヘッケルの 自然における芸術的形態は、その様式的(対称性を強調した)描法が当時の芸術家たちに大きな影響を与えることになった。
http://commons.wikimedia.org/wiki/Kunstformen_der_Natur
→ 近畿大学国際人文科学研究所紀要vol.4 述2
岡﨑乾二郎 『自然の規範としてのイメージ イメージの規範としての技術』
http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-2749-2
ex.画家としてのコンスタブル/自然科学者としてのコンスタブル
•コンスタブル John Constable ( 1776 – 1837)は雲を分類、体系化した
ルーク・ハワードLuke Howard (1772 – 1864)の研究
http://en.wikipedia.org/wiki/Luke_Howard
http://www.islandnet.com/~see/weather/history/howard.htm
http://www.cloudman.com/luke_howard.htm
に影響を受け、多くの自然観察のスケッチ
http://www.vam.ac.uk/collections/paintings/galleries/display/constable_oil/index.html
を残したが、それをそのまま絵画作品として発表することはなかった。→絵画作品を統御している規範と自然科学的な観察は異なるという自覚。
↑ たとえば、コンスタブルは自身のこのようなスケッチに見られる画期的、大胆な構図そして精密さで、自身のタブローに木の幹を描くことはなかった。
http://commons.wikimedia.org/wiki/John_Constable
•同時代のJ・M・W・ターナー Joseph Mallord William Turner (1775– 1851)の絵画
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Joseph_Mallord_William_Turner
はスケッチをそのままタブローにした(あるいは偶然できた色の斑点から絵画を仕上げた)ように見えるが、ジョン・ラスキン John Ruskin (1819 – 1900)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9e/Study_of_Gneiss_Rock.jpg
↑ ラスキン自身による自然の岩石のスケッチ
はハワードの理論をそのまま援用し、ターナーの絵がいかに自然観察(科学的な雲などの気象観察にもとづいているか、を弁護した)。↓
http://art-bin.com/art/oruskincontents.html
コンスタブルは 自然観察の対象としての自然と芸術の対象としての自然を区別しているが、ラスキン(ターナー)にとっては、自然科学は芸術表現を正当化する根拠にされるようになった。
○2
◎近代哲学の「観察者」
デカルト による精神と自然の区別。
世界のすべてを物質的な因果で決定されている(=機械)として考えるが、
それを観察者=観察する精神は、その物質的因果に含まれない、と考えた。cogito, ergo sum
↓
観察者(主体)/対象
精神/自然
の対立図式の確立
西洋的近代精神=「精神は物質世界=自然から独立して存在する」の典拠。
◎18世紀の変化
観察者自身(あるは観察というプロセス自体)を、客体=対象として再帰的に再発見する。
現象としての「自然-認識-過程」の発見
○ルソー
Jean-Jacques Rousseau, 1712 – 1778
精神自体が自然である → 「自然へ帰れ」
自然としての精神
○ゲーテ
Johann Wolfgang von Goethe 1749 – 1832
観察者と分離された対象=客体は、生命を失っている。
(静的な観察は、対象のもつ有機的連関を消してしまう)
生きた過程として自然対象を捉えるとともに、
それを観察する行為、観察者自身の身体もこうした有機的なプロセス、自然過程に
根拠づけられていると考えた。
・運動、変化、成長そのものの中に形式の同一性を求めていく」
・部分同士の関係を読みとく
・見るという行為自体を生理的に位置づけようとした
↑ ゲーテ『形態学』より、 ゲーテのスケッチ
○ディドロ
Diderot,Denis 1713~84
百科全書の思想 諸技術の連関
・自然(現象)そして文化
を複数の技術形式(アルゴリズム)の重なり、関係性として捉える
↓
技術ごとに自然の捉え方(イメージ)が怪物的に変わる
↓
そのさまざまなる自然の連関が文化であり、さまざまな技術を統合するものが芸術である。
19世紀
○ラスキン
ウィリアム・モリス
William Morris, 1834 – 1896
大文字の芸術(グレート・アート、The Great Art)から 小文字のさまざまな技術(レッサー・アート、Lesser Arts)へ
・様々な技術ごとに世界が違って見えてくる。
・同じ対象でも大工と植木屋と農家では異なった見方をする。
・諸技術(描き方)が解釈する対象。
大文字の芸術によって諸芸術をまとめるのではなく(ヒエラルヒーではなく)、小文字のさまざまな技術が有機的に連合して(頂点=中枢がなくても、秩序をもつ自然秩序のように)、つくりだす美的世界を考える →一種の生態的なモデル→人間の活動までをシステムとしてみる
★★★
本日の演習課題、
「自然をサンプリングする」
注意事項。
サンプリングの形式(自然を写す、切り取る形式、ルールを厳密に決める、
→誰がやっても、その形式で同じ対象をとらえれば、同じ観察データが得られるようにする。
→そのデータをもとに作り出される対象像が、つねに同じ像となるようにする。
Ex1 遠近法も こうした形式の一つである。
Ex2 1953年学生だったラウシェンバーグが
「自然と芸術展」に出品した作品。
風景画などが大半の出品作のなかで、ラウシェンバーグは
大地(土とそこに生えた植物、などすべて)の一角をそのまま切り取って箱につめ、そのまま垂直に壁に展示。毎日、作品に水をやりに行く。
学外に出て
対象を選択する切り取り方や描き方を厳密に設定して 対象を描く(自然科学者のように)
★★★★
次回への まとめ
採取した、さまざまなデータ、断片的な自然像を
むすびつけるものはなにか?
あるいは技術ごとに分裂した 自然像をどのように
まとめるか?
ex, アイク兄弟による 「神秘の子羊」/ゲントの祭壇画(Ghent Altarpiece)
同時には咲くことがない花が共存して描かれている( エデンとして)
次回 4月24日は 庭園について/
*講義は終了しています。
第2回以降の講義録の公開は未定です。
ちなみに4月24日は「植物学の日」(牧野富太郎の誕生日です)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/46820_29303.html