前嵩西一馬|「モダンガール」のMemoirist(回顧録者)は誰か?

November 24, 2013|講義

10月15日に「ことばのpicture books講座 Lost Modern Girls編」(講師=ぱくきょんみ)にて、ゲスト、前嵩西一馬氏(文化人類学・沖縄研究)による公開レクチャーが行われました。

講座の昨年の主題「語り継ぐ」の延長線上で、歴史や、個人的な経験の中で起こった出来事を他者に伝えていく大きなテーマの一つとして、「モダンガール」というトピックを捉え返すこと。その試みのもと、歴史的にカテゴライズされたモダンガールそのものではなく、その回顧録者は誰かという問いによって、今語る意味を考えることで、モダンガールという物語の「外」の風景をいかに見ることができるかという前提が述べられました。

まず、一つの国の歴史の中のメモアールとして、アメリカニズムという風景に包括されるかたちでモダンガールが回顧された、1942年のシンポジウム「近代の超克」が例に挙げられました。さらに、ダンス・ファッション・サブカルチャーなど彼女らの世俗性と、現代の我々の感性・同時代性をリンクさせて共有するいくつかの例に触れられました。そうしたモダンガールの研究/物語のなかに、歴史学や文学研究に登場する最たる集団カテゴリー「国民」を補助線として導入したとき、──モダンガールとは我々日本国民である──というように表され、統合される言説について指摘されました。そして、それはホミ・K・バーバが唱えた、実態として突き詰めることは不可能だが、物語の中に再生産される国民の概念であるとして、検証されました。

そこで、歴史的に国民概念が自明ではなかった沖縄における当時のモダンガールの様子や、脱神秘化のかたちで徹底した世俗化を描き、共同体的・伝統的なものからモダン、モダニストを立ち上げていく大城立裕のエッセイなどが取り上げられました。

最後に、モダンガールと同世代である前嵩西氏の祖母が、偶然テレビで見たオリンピックの開会式での光景が挙げられました。それは、ある国の選手団の行進で全員が颯爽と被っていたパナマ帽を上げ世界に向けて微笑みかけた時、「私が小さい時に作っていたあれだけのパナマ帽はあの人たちが買ったんだ」とつぶやいたエピソードでした。国民という条件を軽々と乗り越えるような清々しさを宿すこの想像力とは、世界各国・万国旗などの数えることができる世界ではなく、哲学や人類学で内在的超越性とされる、自分の中にあるがゆえに外=世界とつながっていく風景として、モダンガールを捉えうる視点ではないかと結ばれました。

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