これからの芸術、これまでの芸術――3 ゲスト=前嵩西一馬/眞島竜男
芸術と法、を巡って。
11月12日、前嵩西一馬氏(文化人類学・沖縄研究)、眞島竜男氏(美術家)をゲストに、「これからの芸術、これまでの芸術」シリーズ第3回が開催されました。
岡﨑乾二郎氏から基調講演として、芸術作品がスキャンダルを引き起こす場合にそれがどう理解されるべきか、また、芸術作品が両立できない価値観を本当に抱え込むことができるのか否か(敵対性の概念)という二つの問題が挙げられました。岡﨑氏は、これらの問題の具体例として、作者・作品・及ぼす効果の三項の関係の図式化から、マネの「オランピア」が引き起こしたスキャンダルの画期性とモダニズム芸術の規範=作品の自律性の概念との一致について分析しました。また、北米で開催された写真家石内都の「ひろしま」展への反応などを例に、スキャンダルの構造として、メッセージを発信する側と受け取る側との間で意味を共有するための場が一義的には安定していないこと、それ故に双方の場の違いが露呈してしまうことが指摘されました。そして、カントの美学的判断の影響により、芸術が異なる意見を包摂し論争を中和するための予定調和的な概念として扱われていることが、国家の公共性の仕組みと重ねて語られ、これらのトピックに基づいて討議が展開しました。
前嵩西氏は、芸術と法の問題に関わる事例として、かつての赤瀬川原平の千円札裁判と、昨年カリフォルニア大の学生がアジア系学生を侮辱する動画をインターネットに公開して話題になったことに言及し、その動画とそれへのレスポンス動画のいくつかを鑑賞しました。美術館はどの範囲で公共性を担えばいいのかという眞島氏の問いに答えて、前嵩西氏は「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄」展(2009年)のキュレーションに際して起こった出来事について語り、本土と沖縄というナショナルなものに直結した対立ではなく、本土と沖縄の二項対立でしか語れない状況そのものに対するカウンターがあることを強調しました。そこから、表象されないものと権威の関係についての議論がなされました。また、国際展システムを中心とした芸術と公共性の関係や、如何なる外部も包摂し得るアメリカのナショナリズムの仕組みが検証されました。
眞島氏からは自身の作品の試みにも引き寄せて、公共的なものやポピュラーなものをなぞってみることで、それがいかに個人の身体に入ってくるかの過程の重要性が示唆されました。そして、眞島氏の作品を評して岡﨑氏より、本来ズレて然るべき芸術作品と個々の言説を一致させることが美術館の公共性を守る前提になっている点が指摘され、また近年の傾向として、そのズレや分裂を維持してスキャンダルを内在化していることが語られました。