批評(創造)の現在シリーズ――5 木村覚/前嵩西一馬/柳澤田実/岡﨑乾二郎

March 6, 2010|講義

言説という罠(Public Enemy as Public Interest)

12月16日、批評(創造)の現在シリーズ第5回が開催され、木村覚(美学、ダンス研究・批評)、前嵩西一馬(文化人類学、沖縄研究)、柳澤田実(哲学、生態学的人工物研究)各氏のレクチャーの後、岡﨑乾二郎が加わりディスカッションが行なわれました。

木村氏はWBCでのイチローを例に、「パフォーマンス」を「性能、約束」と「遂行、実現」という二つのレベルに分けた上で、パフォーマーは誰と何を約束し実現するのかという問題を提起しました。前嵩西氏は、ある種の文脈に対する違和感としての「汗」や「ニヤニヤ笑い」などの身振りや、日本社会に過剰に同一化しようとする沖縄人の心理などを「私的言語」として捉え、それはどのように翻訳することができるのかを考察しました。柳澤氏はカラヴァッジオとカディッシュマンの二人を中心に、様々な時代の「イサク奉献」をテーマにした美術作品における羊の扱いを分析し、動物犠牲という人間の身勝手な行為において、功利性の外部が出現する可能性、あるいは人間が動物に生成変化する可能性について論じました。
ディスカッションでは、本土に対する沖縄、人間に対する動物のような、メインに対する周縁的なものの中にこそ情報価値があること、ジャドソン・ダンス・シアターやポップアートの運動は、メインとは実はサブではないかという価値の転倒を含んでいるという整理がなされた上で、作品や言説によってクリティカルポイントを突くことの困難さや可能性と危険性について議論されました。

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■レクチャー

木村覚
他者のパフォーマンスを(パフォーマンスとして)理解すること 約束とパフォーマンス

前嵩西一馬
「ふつうにはなせ」――誤爆する私的言語
"Talk Japanese": Private Language as Friendly Fire


柳澤田実
他方、家畜は立っていた:功利性の外部はいかにして現れ得るのか

質疑応答:岡﨑乾二郎


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