2004.04.01 武田将明

煙草と聖書〈8〉

『ロビンソン・クルーソー』における欲望の問題

8.

現実界と他者のない世界――ジジェクとドゥルーズを批判するクルーソー

『意味の論理学』への付論「ミシェル・トゥルニエと他者のない世界」のなかで、ジル・ドゥルーズは、トゥルニエによる『ロビンソン・クルーソー』の改作『フライデーあるいは太平洋の冥界』を論じながら、デフォーが表現できなかったロビンソン物語の可能性を考えている。デフォーのロビンソン物語は、ドゥルーズによれば、無人島という実験場を想定して、実社会にある経済的な秩序を再構成したものにすぎない。だが、無人島という環境、他者のいない世界は、精神に本質的な影響を及ぼさないだろうか。「他者の第一の効果は、私の知覚する個々の対象、あるいは私の思考する個々の概念のまわりに周辺的な世界、外皮あるいは背景を作ることである。その世界には、ある場所からほかの場所への動きを制御する移動の法則に従って、ほかの対象や概念が来ることができる。」私の周辺に他者がいて、その人たちは知覚するが私は知覚しないものがある、と考えることにより、私は世界を前景と背景に区分することができる。他者がいることによって、私は圧倒的なものや思考の洪水に混乱させられることなく、個々の対象や観念に意識を絞ることができるのである。つまり、他者が知覚と思考の秩序を可能にしている。ラカン風にいえば、他者の存在によって象徴界が成立する。だから、ドゥルーズの「他者のない世界」とは、まさに象徴界の破壊された世界である。「世界の構造から他者が欠けると何が起こるだろうか。その時には、太陽と大地、耐えがたい光と暗い深淵との過酷な対立だけが支配する」。しかし、ラカン/ジジェクと異なり、ドゥルーズは、他者のいない世界において、「心理的な自殺」ではなく、実在する秩序の再構成でもなく、別種の精神の可能性を考察しようとしている。「この場合、知覚の領野に何が起きているのだろうか。それはほかの範疇に従って構造化されるのだろうか。それどころか、極めて特別な質料へとそれは開かれ、特殊な、形相のない領域へと私たちが侵入するのを可能にするのだろうか。」

ドゥルーズによるロビンソン物語への介入は、私たちの文脈から注目に値する。なぜなら彼の論考は、他者のない世界、すなわち象徴界の崩壊した世界でクルーソーが新しい主体性を獲得する可能性を示唆しているからである。しかし、ドゥルーズの問題点は、あまりに安易にデフォーの『ロビンソン・クルーソー』を解釈したところにある。すでに見てきたとおり、デフォーのロビンソン物語などというものは存在しない。ロビンソン物語とは、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』という作品に対して押し付けられてきた恣意的な読みの集積に他ならない。デフォーのクルーソーが島で経済秩序を再構成しているというドゥルーズの批判は、もっともありふれた、古典派経済学的な『ロビンソン・クルーソー』解釈をなぞっているだけである。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』をまともに読まなかったことが、トゥルニエのロビンソン物語に対するドゥルーズの解釈にも致命的な欠陥をもたらしている。実社会の秩序に回収されてしまう(とドゥルーズの考える)デフォーのロビンソン物語との違いを強調するために、彼はトゥルニエのクルーソーが島から出て行かないことに注目している。実社会から完全に隔離された場所にクルーソーを置くことで、トゥルニエはより徹底的な想像力の実験を行ったのだ、とドゥルーズは言う。しかし、実社会から無人島に向かう欲望こそ、『ロビンソン・クルーソー』を特徴づける重要な要素であることは、私たちが明らかにしてきたところである。象徴秩序を超えた現実界からの呼び声に反応し、無人島にたどり着くまでのクルーソーの欲望を無視しているがゆえに、ドゥルーズは現実界の問題について、無自覚とはいわないまでも、不当に軽視している。無そのものとしての現実界は、「特殊な、形相のない領域」あるいは「大いなる健康」と彼がニーチェに倣っていう状態に至るための通過儀礼として扱われるのみである。ドゥルーズは、デフォーのクルーソーが実社会の秩序を再構成しただけだと批判するが、実社会から切り離された世界を前提として、新しい主体性や「大いなる健康」を語ったところで、文字どおりのユートピア物語に終わるだけではないのか。ドゥルーズ/トゥルニエの問題提起、すなわち、象徴秩序を再構成せずにクルーソーが生きていく可能性を考えることは重要だが、ラカン/ジジェク的な現実界の手強さにも十分気を付けなくてはならない。しかし私たちは、この困難の自覚のなかですでに希望を手にしている。なぜなら、ラカン/ジジェク的な現実界をドゥルーズ/トゥルニエの提起した方向で乗り越えているテクスト、それがデフォーの『ロビンソン・クルーソー』にほかならないからだ。

『ロビンソン・クルーソー』には、主人公が過去の出来事を摂理によって説明する場面が数多く存在する。病んだクルーソーが煙草の箱に聖書を見つけたときや、聖書を読んでいて自分にぴったりの句を見つけたときはもちろん、一見してありがたくない事柄を受け容れるときにも、ある種の摂理を見出そうとしている。「一言でいえば、ここでの生活は、ある面では悲しみの生活であり、別の面では恵みの生活だった。これを慰めに満ちた生活にするには、ただ、いまの境遇に示された神の慈愛と配慮を感じ、それを日々の慰めとすればよかったのだ。」いってみれば、精神の健康のために、クルーソーはいかようにも取りうる出来事に摂理を見出すことにしたのである。この彼の思想の真髄があらわれているのが、キリスト教の悪魔の概念をフライデーに教えたときのやりとりである。クルーソーは「神は最後には悪魔をきつく罰せられる」と説明するが、なぜ悪い者をすぐに殺さないのか、フライデーには理解できない。それにクルーソーは答える。「そんなことをいえば、お前も私もここで神を怒らせるような悪いことをしているのだから、なぜすぐ神は我々を殺さないのか、と尋ねるようなものではないか。我々は悔い改め、赦されるためにしばらく見逃されているのだ。」これを聞いたフライデーは、「あなた、私、悪魔、みんな悪い、みんな見逃す、悔い改める、神みんなを赦す」と結論する。神は最後には悪魔をも許す。事後的に見れば、善いことも、悪いことも、すべてが摂理の働きである。窮極の道徳はアモラルなものだとすでに書いたが、摂理はそのような状況を肯定する原理である。この視点によって、クルーソーを苛み続ける欲望さえも肯定される。次の台詞は、第二部で、島を去ったクルーソーが更なる冒険に出るときのものである。

若い頃からの世界を放浪したいという猛烈な欲望(……)が、私を罰するために見逃されていたことは明白だった。(……)しかし、我々が欲望の急流に押し流されるのを容認し給う神の力のひそかな目的は、摂理の声を聞くことができ、神の裁きとおのれの過ちから宗教的な結論を導くことのできる者だけに理解されるのである。(……)天の定め給う一切のものは最善なのだ。[もし私が放浪をやめたら]、かくも多くの感謝すべきことも経験できなかっただろうし、読者諸氏も、「ロビンソン・クルーソー」の旅行と冒険の第二部についてついに聞くこともなかっただろう。

もちろん、聖書のなかに「汝の欲望を貫徹せよ」という格言はない。そもそも「悪魔も最後には許される」という句も明白には存在しない。しかし、摂理は聖書の内容を解釈することで得られるのではない。第二部におけるあらたな航海の途中で、船員たちがマダガスカルの現地人を大量に殺戮する。この「マダガスカルの虐殺」をクルーソーは非難し続けるが、彼と対立する水夫長は巧みな弁舌で船員を説得し、とうとう彼を船から追い出してしまう。この水夫長も、自分の説を根拠付けるのに聖書を引用するのである。もちろん、このことでクルーソーの信仰は崩壊しない。他人と聖書の解釈を争うよりも、自分が聖書を読んでいること自体が、彼にとっては重要なのだ。

では、摂理に後押しされる彼の欲望とは何だろうか。先の引用にあるとおり、それは「世界を放浪したいという猛烈な欲望」だった。確かに、船乗りにあこがれた若い頃から、彼はこの欲望を持っていた。しかし、聖書を発見する前と後で、クルーソーの欲望は微妙な変化を遂げている。まず、無人島に漂着するまでの彼は、父や国家という上位の審級から逃れるという動機があった。つまり、彼の自由を禁じるものからの逃走であり、ここには禁止と欲望との相補的な関係が認められる。これは精神分析的には象徴界の外部である現実界に飛びこむことを意味し、そのときクルーソーの欲望の流れは一方向をむいている。その必然的な結果として無人島にたどり着いたクルーソーは、今度はひたすら無人島=現実界からの逃亡を願う。あいかわらず彼の欲望は無人島か外界かという二分法のなかで動いていたのである。聖書あるいは摂理の発見により、ようやく彼は欲望を禁止との関係で捉えることから解放された。そのとき、無人島と外界の二分法は解体し、島の内部からも欲望への誘いが訪れるようになる。クルーソーの日記によれば、彼が病気から回復したのは七月三日であるが、同じ年の七月十五日には「この島をもっと徹底的に探索し、今までに自分が少しも知らなかったどんな産物があるかを確かめてみようという激しい欲望」にかきたてられて、「島そのもののもっと念入りな調査」をはじめている。そこで彼はさまざまな発見をする。川岸の草原、煙草の青々と茂る高地、大地を埋め尽くす大量のメロン、頭上にぶら下がるみずみずしく熟したブドウ。そして、ココア、オレンジ、レモン、シトロンの繁茂する「かくも新鮮で、かくも青く、かくも豊かな土地、すべての草木がいつでも新緑と春の栄華を保っている土地」。いまや、あらゆる場所が、彼の眼には等しく魅力的に現れ、彼の訪問を待っているように感じられている。第二部で、すでに齢六十を越え、十分な富を手に入れたクルーソーは、純粋な見ることの楽しみに耽ることを望む。

もし私が二十年も若ければ、財産を作るためにこの地[=インド]に留まり、冒険はもうしない気持ちになっていただろう。しかし、十分に金があり、出世への貪欲な欲望よりも、世界を見たいという落ち着かない欲望に駆られて外国にやってきた、六十の坂を越した人間にとって、金儲けがどういう意味をもっていたであろうか。(……)ソロモンの話に出てくる眼のように、「見るに飽くこと無き」私の眼は、放浪し、見ることをいっそう強く欲していた。かつて一度も足を踏み入れたことのない世界の一隅に私は来ていた。(……)私は見られるだけのものを見ようと心に決めた。そうすれば、世界中の見るべきものをすべて見たといってもいいだろう、と思った。

しかしなぜ、彼は世界中を見たいと欲するのだろうか。この特殊な欲望は、島で彼が獲得した特殊な主体性と関連があるのだろうか。それを解く鍵は煙草にある。

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