2004.03.14 武田将明

煙草と聖書〈7〉

『ロビンソン・クルーソー』における欲望の問題

7.

崇高な対象としての聖書と煙草

『ロビンソン・クルーソー』は、第二部の途中で、主人公を理想的な政治主体とすることも、無人島を理想の国家とすることも放棄してしまった。デフォーがこの作品を書いた理由も、クルーソーがとり憑かれている欲望の正体も、これでさっぱり分からなくなった。このようなときは、いたずらに読み進めるより、今まで読んだ箇所を再検討するほうが賢明である。私たちが見過ごしてきた、クルーソーの欲望のより深いところが明らかになるかも知れないからだ。島にクルーソーしかいないところから再開しよう。次第に無人島での生活に慣れてきたクルーソーだったが、突如島を襲った地震に驚き、更には原因不明の病に冒され、心身ともに疲れ果てる。そんなとき、彼は自分を救ってくれる二つのものを発見する。

病状がぶり返すのではないかという不安にひどく苛まれていたとき、ブラジルの人々はほとんどあらゆる病気にほかでもない煙草を処方することをふと思い出した。(……)疑いなく天の配剤によって、私は[煙草の入った箱へ]向かった。というのも、この箱に、私は魂と肉体の両方をなおす良薬を見つけたからだ。箱を開けると、なかには私の探す煙草があった。そして、同じ箱にいくつか書物もしまわれていたので、私は聖書を一冊取り出した。

以後、彼は聖書を毎日読む習慣をつけ、信仰を確立するわけだが、なぜここで、聖書だけでなく煙草も発見されているのだろうか。煙草は、クルーソーにとっては病気の薬として、小説では不信心なクルーソーが聖書を発見するための媒介物として導入されているだけかに見える。ところが、病から癒えたクルーソーは、聖書を読むことと同じくらい、煙草を吸うことにも執着しているようなのだ。聖書への愛ほど頻繁には語られないが、作中のところどころに、クルーソーの煙草への偏愛が示されている。彼の生活に不足している必需品を次々に挙げたあとで、最後に、「もう一つ欲しいものに、煙草のパイプがあった」と彼は言う。さらに別の箇所では、無人島では貨幣の利用価値がないことを語ったあと、「一グロス[=十二ダース]の煙草用パイプを手に入れるためなら、(……)一掴みの金銀貨を与えただろう」とまで口にする。ついにパイプの自作に成功したときの、彼の喜びの声を聞いてみよう。「煙草用のパイプを作れるようになったときほど、私が自分の腕を自慢に思ったことはなかったし、これほど嬉しいものを手に入れたこともなかった。」クルーソーにとって、島での生活を続けるために、聖書に劣らず煙草も不可欠なものだった。彼は聖書と煙草を「魂と肉体の両方」を癒すものと呼んでいる。聖書が魂、煙草が肉体を癒すと考えるのが決して十分な解釈ではないことは、彼が健康なときも煙草を手放さないことに示されている。聖書と煙草の組み合わせが、クルーソーの精神にいかに働きかけたのかを検討してみよう。

『ロビンソン瞑想録』には「孤独について」というエッセイが収められているが、そこで強調されているのは、孤独が環境よりも心理の問題だということである。

[無人島では]世間の楽しみから幽閉され、人間社会から監禁された。しかしそんなものは孤独ではない。実際、私の物語にあるように、崇高な事柄への瞑想に耽ったときを除けば、その何ひとつとして孤独ではないのだ。(……)荒涼たる島での二十八年間に経験したどんな孤独よりも、世界でもっとも多数の人間の集まるなか、つまりロンドンで、この文章を書いているときの方が、はるかに大きな孤独を享受しているといえる。

最初に孤独が発見されたのは無人島においてだが、ひとたび見出されるや、孤独は内面的な性質を与えられた。無人島という外的環境がクルーソーの精神の問題へと置き換えられたのである。孤独の獲得こそ、クルーソーの無人島での精神生活を解き明かす鍵といえる。そして無人島での精神生活を知るには、無人島に来るきっかけを作った彼の欲望に立ち返る必要がある。

謎の欲望の命じるまま、クルーソーは父の権威を逃れ、母国の外に飛び出した。人倫の拘束を逃れることは、ひとつには家族や国といった個人の上に立つ審級から自由になることだった。しかし他方で、クルーソーは彼の意思を超えた欲望に従っている。欲望もまた個人の上位に立っているが、もはや社会的な根拠を持たない。ゆえに私たちは、人倫を超えた道徳の審級に属するものとして欲望を扱ってきた。ならば、道徳としての欲望を追求した果てに立ち現れる精神の場はいかなるものだろうか。あらゆる人間的な秩序を逸脱せよ、とクルーソーに命じる欲望それ自体が人間的な秩序を持っていることは考えられない。だから、クルーソーが欲望そのものを仮に見てしまったとすれば、それは理解不能なカオスとして現れるほかはない。無人島にたどり着いたクルーソーは不幸のどん底に叩きこまれる。あらゆる人間的秩序と無縁であるという意味で、無人島は彼の欲望の本質を体現していたにもかかわらず、今度はそこから逃れようと空しい努力を続けることになる。これは不思議なことではない。彼の欲望が人倫を超えた無秩序に向かっていたことは、彼が無秩序そのものに耐えられるということを必ずしも意味しない。むしろ、社会秩序のなかにいるからこそ、無秩序な場に向かう心理が生じるのであり、あらゆる秩序から身を切り離してしまえば、そこで彼が出会うのは無そのものにほかならない。それは恐るべき混乱を彼に引き起こすばかりだ。いってみれば、クルーソーは象徴秩序の外にあるリアルなもの、現実界と遭遇したのである。

『ロビンソン・クルーソー』において、象徴秩序とは、父や国家が代表する社会秩序、あるいは人倫の体系のことである。象徴秩序の隙間、そこから逃れる抜け穴である現実界は、クルーソーを惹きつけて止まない。しかし、あらゆる障害を撥ね退け、彼の欲望のもっとも奥の部分まで進んでしまったとき、彼は無そのものに直面しなければならない。それは精神分析的には、すべての症候が解消した地点である。「もしもかかる根源的な次元の症候が解消すれば、それは文字どおり「この世の終わり」を意味する。症候への唯一の代替物は無である。純粋な自閉症、心理的な自殺、象徴世界を完全に破壊するほどの死の欲動への屈服」(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)。

聖書と煙草がクルーソーの窮状を救ったことを、ラカンやジジェクであれば、「崇高な対象」という概念で説明するだろう。剥き出しの無として現れた無人島=現実界の恐怖から逃れるために、聖書と煙草が崇高な対象として特別な位置におかれ、それを根拠としてクルーソーは象徴秩序を回復することができた、ということになる。ここで聖書という書物の内容によって対象の崇高性を確立するのであれば、クルーソーの精神の救済はキリスト教の文脈で理解されることになるが、それでは結局、すでに私たちの退けたピューリタン的経済人であるとか、神意を授かった君主としてのクルーソーの物語を復活させることにしかならない。他の説明を考えるために、もう一つの崇高な対象、煙草に注目してみよう。煙草はいかにして崇高になれるか。それを知るための恰好の本として、リチャード・クラインの『煙草は崇高である』がある。メリメの『カルメン』で、語り手が煙草を介して盗賊と親しくなる場面を紹介したあと、クラインは論じる。

「崇高の分析論」において、カントは次のように書いている。

『(……)大空にむくむくと盛り上がる雷雲が稲妻と雷鳴とを伴って近づいてくる有様、(……)一過したあとに惨憺たる荒廃を残していく暴風、怒涛の逆巻く無辺際な大洋、おびただしい水量をもって中空に懸かる滝などは、我々の抵抗力をかかるものの威力に比して取るに足らぬほど小さなものにする。しかし我々が安全な場所に居さえすれば、その眺めが見る眼に恐ろしいものであればあるほど、これらの光景は我々の心を惹きつけずにはおかないだろう。我々はかかる対象を好んで崇高と呼ぶのである。これらのものは、我々の心力を日常の平凡な域よりも高揚させ、まったく別種の抵抗力を我々のうちに開顕するからである。そしてこのことが我々に、見るからに絶大な自然力に挑む勇気を与えるのである。』

このカントの旅行者のように、メリメの語り手も喜んで最大の危険、彼の日常の経験にはまったく縁のない暴力と向かい合う。彼が喜んで死と直面できるのは、煙草の持つ、人の心を和らげる力が生みだした魔法の円の中に自分が守られているとわかっているからである。

煙草は眼前にある恐怖を和らげ、そのとき恐怖は独特の快楽すなわち崇高へと変貌する。赤裸な虚無と対峙したクルーソーが煙草を摂取したときにも、同様の心理が働いたと考えてみてはどうだろうか。

ここで、カントの崇高論とラカンの崇高な対象論との関連に触れておこう。この二つの概念は、たまたま同じ術語を使用しているだけかも知れないからだ。カントの崇高論について、次のような説明がなされうる。主体が稲妻や暴風に直面したとき、はじめは巨大な力の前に圧倒され、我を忘れる。しかし、私たちが安全な場所にいる場合には、このような力を観察することができる。このとき想像力は知覚の限界を超えた力を捉えることはできないが、理性が、まさに想像力の限界としてそれを理解する。よって崇高とは理性の感じる快楽である。稲妻や暴風は理性の力を借りてはじめて、悟性(理解力)の範疇に収められる。ラカン/ジジェクにおいては、崇高な対象とは象徴界に開いた穴(現実界)を埋める特殊な対象である。この対象は、現実界の在処を示しながら、同時に現実界そのものを隠している。しかし、このような崇高な対象をもってはじめて、主体は象徴秩序のなかに生きることができる。仮に崇高な対象を除去し、現実界の覆いを取り払ってしまえば、そこには「この世の終わり」としての無が現れ、主体を「心理的な自殺」に追いやってしまうだろう。カントにおいても、ラカン/ジジェクにおいても、稲妻や暴風、あるいは現実界に直に接することは禁止されている。かかる破壊的なものは、ある緩衝材を通じて見られることによってはじめて理解可能である。ただし、カントは緩衝材を通じて稲妻や暴風(現実界)を観察できると説明しているのに対し、ラカン/ジジェクは実際のところ主体が見ることができるのは緩衝材だけであると考える。この緩衝材が「崇高な対象」なのだ。

そうした違いはあるが、カントとラカン/ジジェクのどちらにしても、崇高とは、一時的に混乱した主体が秩序を再構成する過程として描かれている。また、そこにはひそかな禁止、現実界そのものに接近することの禁止も盛りこまれている。ところが、『煙草は崇高である』の著者が紹介する『カルメン』の一シーンにおいては、語り手が恐るべき盗賊と接近し、親しげに会話をする様子が描かれている。よって、カントの議論に厳密に従うなら、煙草は崇高ではない。煙草によって、主体は崇高とは別種の行動原理を獲得している。象徴秩序による支えを必ずしも必要としない主体性。それはいかにして可能なのか。この疑問には、いままで挙げてきた論者の誰も答えていない。

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