2004.03.06 武田将明

煙草と聖書〈6〉

『ロビンソン・クルーソー』における欲望の問題

6.

デフォー的政治神学の崩壊――『ロビンソン・クルーソー』第二部を読む

すべてが解き明かされたかに見える。クルーソーの欲望は、彼を真の君主にするための天の声だったようだし、デフォーが『ロビンソン・クルーソー』を書いたのは、まさにクルーソーのような君主と彼の帝国を自分の政治思想の頂点として描きたかったからだといえるだろう。しかしながら、このような整合的な解釈を突き崩してしまうのが、『ロビンソン・クルーソー』という作品なのである。今までの議論で取り上げたのは、『ロビンソン・クルーソー瞑想録』(一七二〇)も含めて三部作を構成するこの作品の、第一部の終わり付近までにすぎない。読み進めるにつれ、様々な問題点が出てくる。まず、第一部でロビンソン王が島、いや、彼の帝国をあとにする場面。さきほど言及した現地人との戦いで、クルーソーは捕虜となっていたスペイン人を救出しているが、このスペイン人には現地人の国に残した仲間がいることが判明する。クルーソーの許可のもと、彼は丸木舟に乗って、苦しい生活をしている仲間たちを島に呼び寄せに行く。スペイン人たちの帰還を待つクルーソーは海に船影を見つけるが、それは彼らの丸木舟ではなく、イングランドの船だった。船内で反乱が生じ、近くにあったこの人気のない島に船長たちが置き去りにされることになったのである。クルーソーとフライデーは船長たちを助け、船を奪還する。問題はここからである。クルーソーは、捕虜となった反逆者たちに対して、命を奪う代わりに彼の島で生活させることにする。そして、しばらくしたら戻ってくるはずのスペイン人たちを待ちもせず、事情を説明する手紙だけを残し、救出された船長の率いる船でさっさとイングランドに帰るのである。これはおかしな話ではないだろうか。島に残された者がいるからには、クルーソー主従と船長たちを乗せても船にはまだ余裕があるはずで、善良なスペイン人たちの何人かを一緒に連れて行くことも可能である。しかも、船を乗っ取ろうと企んだような悪人たちを残して、あとは仲良くやってくれ、というのは、島の君主にしては随分と無責任な話ではないか。

イングランド帰還後のクルーソーの更なる冒険を描いた第二部において、案の定、イングランドの悪党たちとスペイン人たちとは折が合わず、クルーソー不在のあいだ島の秩序が乱れていたことが明らかにされる。とりあえず二つのグループを和解させたクルーソーだったが、それではまだ、ふたたびクルーソーがいなくなったあとで対立が再燃しない保証はない。ここでひとりの人物が登場する。フランス人の司祭である。彼はクルーソーとは別の船で布教のために航海していたが、船中で火災が発生し、沈没するところをクルーソーに助けられた。かくしてクルーソーの船の客となり、彼の島まで連れてこられたのである。司祭は島の状況を見兼ねて進言する。クルーソー不在のあいだ、島の一部の住民は現地の女性を妻とし、子供も生まれていた。司祭は、彼らの結婚が正式の手続きを経ていないこと、すなわち神の承認を得ていないことを批判し、さらに、この女性たちをはじめ、島にいた現地人に対して、キリスト教の布教がなされていないことを根本的な問題として指摘する。司祭が主張しているのは、キリスト教を中心とした社会秩序の構成である。司祭の発言内容はあくまでも宗教問題に限られているが、『ロビンソン・クルーソー』第二部において浮上した島の統治の問題と関連づけて考えるなら、現地人と白人の両方を含んだ島の社会を宗教的に一枚岩にすることで、島民同士の仲間意識も強まり、より平和な状態の実現が期待されるだろう。そこまで考えたかどうかは知らないが、司祭の熱心な主張に打たれたクルーソーは自らも布教に協力する。その結果、悪党だったイングランド人も敬虔になり、島の政治に積極的に貢献しようとしはじめる。いわば、島の宗教改革によって、混乱の元が断たれることになったのである。

しかしここには大きな問題がある。フランス人の司祭は、その出自から明らかなとおり、カトリックの聖職者である。それに対して、クルーソーはプロテスタント(はっきりと書かれていないがおそらくは非国教徒)である。この問題に対して、クルーソーはプロテスタントとカトリックの違いを表面化せず布教を行うよう、司祭とのあいだで取り決める。このような配慮によって、カトリックのスペイン人たちと、プロテスタントのイギリス人たち、そしてどちらでもないキリスト教徒としての現地人たちとのあいだで、ひとつの信仰を共有する共同体が成立する。これは一見、宗教分裂を超えた調和の理想が表現されているかにも思えるが、やはりカトリックの司祭が最初に島のキリスト教化を唱えるという事実には、カトリックとプロテスタントとの違いが示されている。司祭自身、特に自分が布教に熱心である根拠を、彼とクルーソーの宗派の違いに見ている。司祭の言いたかったことはこういうことだろう。プロテスタンティズムの本質は個人主義的な信仰にあるので、他人の宗教を自分と同じものにすることには関心が薄い。しかし、カトリシズムにあっては、信仰の本質は教会と結びついており、より共同体的な要素が強い。だからクルーソーは自分の信仰さえ確かであれば神の恩寵を受けられると考えているかも知れないが、この島に教会など制度としてのキリスト教の確立していないことは、司祭の立場からすれば「神の命令に背いて」いる。歴史的事実としてプロテスタントも異教徒への伝道を盛んに行ってきたではないか、という反論がなされるかもしれない。しかし、プロテスタントの伝道について、ヴェーバーは次のように書いている。「巡回説教によってすべての異教徒に福音を文字どおり「供給する」ために、巨額の費用を投じておびただしい数の宣教師(……)が準備された。(……)そうやって説教を聴いた人々がキリスト教に改宗し、救いにあずかるようになるかどうかは、いや、彼らが宣教師の言葉を文法的にだけでも理解しているかどうかさえも――原理的には副次的なことであり、むしろ、神のみが聖意にしたがってなし給うことなのだ」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。異教徒への伝道において、彼らを改宗させることは義務ではない。伝道によって神の栄光を讃えること自体が義務であり、目的なのである。ちなみに、同書によれば、「カルヴァン自身は、教会の拡大は「神ひとりがなし給う業」だという理由から、異教徒伝道の義務を認めていない」。さらに、歴史的な事実以上に、クルーソー本来の宗教観とフランス人司祭の宗教観とをはっきり区別する記述を、『ロビンソン・クルーソー』第一部に見出すことができる。フライデー、スペイン人ひとり、それとフライデーの父を島の住民として迎えたあと、ロビンソン王は次のように言っている。「三人しか臣下がいないのに、彼らは三者三様の宗教を持っていた。わが従者フライデーはプロテスタント、彼の父は異教徒で食人種、そしてスペイン人はカトリックだった。しかし、私は全領土を通じて信教の自由を認めていた。」この時点ではむしろ、クルーソーは島における異教徒への寛容政策を誇っていたのである。

第一部と第二部のあいだで生じているギャップは、デフォー/クルーソーの表現する個人主義的な王権神授説の欠陥を暴いている。島の君主としてのクルーソーの地位は、彼が独力で築いたものである。これは、彼の保持している主権は原理的に譲渡不可能であることを意味している。ほかの者が島での主権を確立するには、その者が個人として神の承認を得なければならない。だから、第一部で島を退去する際、彼は誰にも統治権を譲渡せず、彼のいない島はたちまち内戦状態に陥ったのである。もっとも、第一部の世界では、彼が島にいるかぎり統治の問題は生じないといえる。しかし、第二部になると、すでに述べたように、島の住民は現地の女とのあいだに子供をもうけている。これは、島の社会がクルーソーの死後も継続することを意味している。クルーソーはイングランド帰還中に子を三人持ったが、子供たちは島に来ないし、たとえ来たとしても、血縁主義を否定するクルーソーの王権論に従えば、彼が子供に王権を譲渡することなどできない。島の統治は、クルーソー個人の力量ではもはや解決できない問題と化しているのだ。だから、第二部で、島全体のキリスト教化により、象徴的な支配秩序を安定化させる政策をクルーソーが採ったことは偶然ではないのである。ここで起きているのは、いってみれば『ロビンソン・クルーソー』の『家庭の導き』化である。宗教によって家父長的支配者(それはもはやクルーソーとは限らない)の権威を安定させるとともに、共同体の均質性を確保する。結局、クルーソーの島にも、家父長的権威主義が導入されることになった[*5]

だが、『ロビンソン・クルーソー』は、この段階からもたちまち移行する。島の改革を推進していた当の本人クルーソーが、新秩序の完成とともに島を退去してしまうのである。イスラエルの民を率いながら、自らは約束の地に入れなかったモーゼのように? いや、ちょっと事情は異なるようだ。クルーソーは急いで島を立ち去らねばならない訳を司祭に説明する。

商人に借りた船で、私は東インドに行く途中なのです。ここに船を留めておくのは、貸主に対する耐え難い不正行為になります。この間ずっと乗組員の給料や食事代を貸主に払わせているのですから。実の話、ここには十二日間だけ滞在する約束になっています。仮にそれ以上滞在すると、一日につき三ポンドの滞船料を払わねばなりませんし、滞船料を払うとしても八日以上は滞在できないのです。

クルーソーにとって、自分の商売は島の統治よりも重要だった。しかも今回も、スペイン人やイングランド人の臣下たちをひとりも乗船させない。家臣を放ったらかしにしたまま立ち去ったクルーソーが、このあと島にやってくることはなかった。私たちは振り出しに戻ってしまったようだ。主人公によって島の統治そのものが捨て去られた以上、一旦は解決したかに思われた二つの問い、「ロビンソン・クルーソーの欲望とは何か」そして「デフォーはなぜ『ロビンソン・クルーソー』を書いたのか」について、再度問い直さねばなるまい。

その前に、ひとつ指摘しておきたいことがある。『ロビンソン・クルーソー』の解釈のうち、主要なもの二つの恣意性が、これまでに明らかになった。まず、クルーソーを近代的経済人の典型とみる、古典派経済学的解釈。これはもちろん、クルーソーを『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の文脈で読む傾向と軌を一にしている。まず、このような読みは、無人島でのクルーソーの生活設計が、実はデフォーの政治思想の反映でもあったことを隠蔽している。更に、クルーソーが独力で島の生活空間を構築していく話はフライデーと遭遇する前までの内容でしかない。その後の内容の変転ぶりを考えれば、この解釈は経済の説明モデルとしての価値はともかく、『ロビンソン・クルーソー』とはもはや関係ないものであると断言できるだろう。同じことが、『ロビンソン・クルーソー』を帝国主義批判の文脈から読むことについてもいえる。「英国による征服の真の象徴はロビンソン・クルーソーである。(……)彼は英国の植民地主義者の真の原型である」と指摘したのはジェームズ・ジョイスだったが、それ以来、『ロビンソン・クルーソー』あるいは作者デフォーの帝国主義的偏向を指摘することは頻繁になされて来た。このような読みは、先ほどの経済人クルーソーというイメージが隠蔽している問題を暴きだしている点で興味深いものの、やはり『ロビンソン・クルーソー』解釈としては中途半端といわざるを得ない。今度はクルーソーが絶対的君主となり、島を統治するまでの話をあたかも『ロビンソン・クルーソー』の終わり/目的であるかのように読んでいるが、クルーソーの帝国があっさりと崩壊すること、クルーソー自身は島という国家から飛び出すことなど、すでに指摘したとおりである。私たちの批判はポストコロニアル批評そのものに向けられているのではない。『ロビンソン・クルーソー』にポストコロニアル批評を当てはめることは、古典派経済学を当てはめるのと同様、何か決定的な点を隠蔽することになるといいたいのだ。

*5 『ロビンソン・クルーソー』が家父長的権威主義を採用する大きな理由に、島における内戦状態があるというのは興味深い。政治思想の領域で、家父長制にもとづく王権神授説を主張した人々にも、通例内戦の回避という動機が働いている。ボダンとユグノー戦争、フィルマーとピューリタン革命(別名「内戦(シヴィル・ウォー)」)など、その好例である。ちなみに、政治の場においてはある種のスターリニズムが不可避であると説く「スロヴェニアの巨人」ジジェクは、そのエディプス・コンプレックス擁護と相俟って、家父長制的な権威主義の伝統に属しているが、彼にもまた、ユーゴ内戦という背景があるのだった。ちなみに、『ジジェク・リーダー』(ブラックウェル、一九九九年)序文で、彼は自分のことを「聖ポール的唯物論者」と規定している。
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