2004.02.23 武田将明

煙草と聖書〈5〉

『ロビンソン・クルーソー』における欲望の問題

5.

『ロビンソン・クルーソー』――長い財布の勝利?

「私には兄が二人いた」とロビンソン・クルーソーは、彼の「生涯と冒険」の物語のはじめに記している。「そのうちの一人はフランドル地方派遣のイングランド歩兵連隊で中佐の職にあったが、ダンケルク近郊でのスペイン軍との戦闘において死んだ。」あたかも『家庭の導き』の長男の記憶を喚起するかのように、小説『ロビンソン・クルーソー』は始まっている。これが単なる思いつきではないことは、『ロビンソン・クルーソー』の主人公もまた、原因不明の欲望にとり憑かれ家を飛び出すことが示唆している。『ロビンソン・クルーソー』は、人倫を超えた道徳的主体を主人公に据えることで、『家庭の導き』の長男が提起した問題をより深く扱うことになるのである。『ロビンソン・クルーソー』が『家庭の導き』第二部の翌年に出版されたという事実も、二つの作品の関連を証拠立てている。私たちは、『ロビンソン・クルーソー』をめぐる二つの問いについて、答えに近付きつつあるようだ。「デフォーがなぜ『ロビンソン・クルーソー』を書いたのか」については、『レヴュー』の終刊で浮上し、『家庭の導き』が切り開いた、道徳的主体の問題を徹底して追究するため、という答えが可能だろう。また、「ロビンソン・クルーソーの欲望とは何か」に関しては、道徳的主体が必要とする、人倫を超えた何かからの要請あるいは命令が、クルーソーに欲望を抱かせていると答えられるだろう。ここで欲望と私欲をはっきりと区別しなくてはならない。私欲とはマンデヴィルが「私的な悪」と呼んだ私益追求のことであるが、クルーソーの、あるいは道徳的主体の欲望は、私益の追求という説明を超え、個人の意思をも超えた行動原理を意味している。

以上の認識に立って、『ロビンソン・クルーソー』を読んでみよう。周知のとおり、父の説得を聞かずに船乗りになったクルーソーは、数度目の航海で無人島に漂着、自分の過去について反省するうちに信仰に目覚める。この展開は、『家庭の導き』との関連でいえば、父の強制によるのではなく、自主的な契機としての神の法への覚醒を描いていることになるだろう。『家庭の導き』では悲惨な死を遂げねばならなかった長男に、デフォーは無人島という悔悛と救済の場所を与えたのだ。このようにして、道徳的な主体がアモラルな状態から救済され、再び善なるものの領域に身を落ち着けることができるのである。

クルーソーを捉えていた謎の欲望は、結局のところ、彼のような不幸な主体を悔悛させるための神的な配慮だったのだろうか。とりあえず、この仮定に従って読解を続けてみよう。信仰を獲得したクルーソーは、悲惨な境遇にも絶望せず、島を着実に開発し、生活環境を整える。この結果、彼はひとりだけの王国の君主ともいうべき地位を築く。自嘲をこめながらも、彼は自分の生活がそれなりに満たされていることを語る。

わが小さな家族とともに、私が食卓に着くのを見れば、禁欲的な人でも微笑を浮かべたことだろう。私こと、全島の君主である皇帝陛下がいた。私は全臣下の生命に対する絶対的な権利を持っていた。(……)[おしゃべりなオウム、老犬、二匹の猫という]家臣にかしづかれ、たったひとりで王のように食事をとる私の姿を見よ。(……)このように私は家臣に伺候され、このように豊かな食事をとっていた。人付き合いを除けば何も欠くものはないといえた。

道徳的主体を確立したクルーソーは、ついに小さいながらも一国の主となるのである。ここにデフォーの主権概念を読むことができる。家父長的(人倫的)強制によらず、神に従う道徳的主体が国の主権者になる。これはユニークな王権神授説である。王権の根拠は神的なものであるが、フィルマーらが唱えたように人類の祖アダムからの血縁関係で説明されるのではない。外国から来た人間が神聖な君主となる『ロビンソン・クルーソー』の政治神学は、血縁が神的な統治を可能にする根拠だという考えをむしろ否定する。この視点から君主と国民との関係を考えると、外国に自国よりも神聖な君主がいれば、国民がその外国人を王に戴くことは神の意思に沿っていることになる。この論理は名誉革命のような政治変革をうまく正当化できる。カトリックのジェームズを廃して、プロテスタントのウィリアムとメアリを王に迎えるのは、デフォー的王権神授説に従うなら、神の意思の反映にほかならない。名誉革命の擁護者デフォーは、当時の革命理論の主流だったロック的な社会契約論とは一線を画していた。「ロック氏や[アルジャーノン・]シドニー氏などの人々が[王権神授説に反対して]唱えてきた主張を私は知っている。そして私は彼らの体系が完璧な答えだと思ったことは一度もないと言わねばならない。だが、私は自らの光によって議論をするのであって、他人の光によるのではない」(『レヴュー』)。かくしてデフォーは、ロック的な社会契約説でもなく、フィルマー的な王権神授説でもなく、独特の革命的王権神授説を構想するに至り、彼の理想とする君主の条件を満たす人物を『ロビンソン・クルーソー』において描き出すことができたのである。

島の主権者としての自覚を得たあと、クルーソーは現地人やヨーロッパ系の船乗りたちと出会う。その結果、彼はフライデーをはじめ忠実な臣下を支配する立派な君主となる。クルーソーの統治がいかに素晴らしいものであったか、彼自身の自慢話を少し聞いてみよう。

どんなモスクワ帝国の皇帝よりも、自分のほうがもっと偉大で強力な君主だった。ただし、その領土はそう大きくなく、臣民もそう多くはなかった。まず第一に、私は自分のすべての臣下の生命と財産を完全に思うままにできた。だが、私の絶対的な権力にもかかわらず、わが領土のなかで、誰一人として私の統治、私の人格に対して不平不満を持ったものはいなかった。私の王国に属するすべての土地は私自身のものであり、すべての臣下は私の小作人であり、しかも自ら好んでなった小作人であった。彼らはみな私のためなら血の最後の一滴まで戦う決意をもっていた。また、私ほど誰からも愛され、しかも心底畏れられていた専制君主(私は専制君主を自認していたのだが)はかつていなかったはずだ。

このような帝国こそ、デフォーが「アテネ協会に捧ぐ」や『レヴュー』で理想としていた国家ではなかったか。実のところ、ロビンソン王は有能なジャーナリストの側面を持っている。彼が現地人とどのように戦うかを見てみよう。クルーソー個人は、決して人並みはずれた体力・武力の持ち主ではない。その彼が、個人の戦闘能力および人数の双方で勝っている現地人たちと戦うために重視したのは、正確な情報の収集である。フライデーから現地人来たるの報せを受けた彼は、自軍(といっても二人だが)の軍備を整えた後、望遠鏡を使って偵察に出掛ける。「望遠鏡でみると、たちまち、蛮人が二十一人、捕虜が三人、丸木舟三隻の姿がうかびあがった。なんでもこの三人の捕虜の肉を喰べて勝利の宴をはろうとするもののようだった」。その捕虜のなかに白人もいることを知って、クルーソーはいよいよ攻撃の決心を固める。あらかじめ複数の銃に弾をこめていた彼らは、灌木の陰から次々に発砲し、多数の現地人を一瞬のうちに殺害する。このとき、クルーソーは常に死んだ敵、負傷した敵の数を確認し、なるべく一人残さず殺すように注意している。ちなみに、クルーソーが現地人と一対一で格闘することは一度もない。周到な武器弾薬の準備と、正確な情報収集によって強敵を打ち破るクルーソーの戦術は、ジャーナリスト的君主の勝利であり、長い財布の持ち主による長い剣の持ち主への勝利であり、畢竟、近代的な帝国による前近代への勝利だったといえよう。

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