2004.02.17 武田将明

煙草と聖書〈4〉

『ロビンソン・クルーソー』における欲望の問題

4.

抵抗の政治神学――『家庭の導き』

『レヴュー』終刊後、デフォーは自分の思想を表現する新しい形式を模索しはじめる。その大きな成果として、『家庭の導き』(第一部・1715、第二部・1718)という対話集がある。題にあるとおり、家庭における宗教教育を指導するために書かれたこの作品では、様々な場面を想定した家庭内での対話が収められ、正確な読解のために著者による解説や注釈が補われている。第一部の最初の対話では、「見解は正統だが実践は異端」である父親が、家長としての義務を怠ってきたことを後悔し、家庭での信仰生活を改革することを決意する。ここで示され、また全編でも強調されているのは、家庭の長(父、夫、召使に対する主人、徒弟を抱える親方など)は個人的に宗教心を持つだけでなく、家族の生活がキリスト教のしきたりを厳密に守るよう管理・指導しなくてはならないということだ。必然的に、家長は家庭という社会の統治者として表現され、作中には明らかに政治的な含意を持った表現が頻出している。

例えば、第一部で信仰生活の改革を意味するために用いられている単語は "Reformation"(原文でも常にRは大文字)であり、デフォーは意図的に歴史上の「宗教改革」と作中の家庭での宗教教育とを重ね合わせている。この家庭内宗教改革は、具体的には、着飾って教会に出掛けないこと、安息日の夜には外出しないこと、芝居を見ないこと、酒を飲まないこと、小説を読まないことなど、およそ非宗教的と捉えられることすべての禁止と、教会以外にも家庭内で定期的に祈りの時間を設けることだった。こうした父の極端な方針に長男が反対し、次のようなやりとりを交わす。

息子 自由は生まれながらの権利です。獣もそれを求めます。自ら進んで籠に入るような鳥がいるでしょうか。

 悪を行う自由は放埓への隷属であり、もっともひどい拘束だ。そして悪を行わぬよう監禁されることは唯一の真の自由である。ともあれ議論を長引かせぬために、私はわが家に住む皆のものに、神の命令に背いたり、あるいは神の安息日を汚したりするような自由を今後禁じるのがいいだろう。もしもお前に私の統治に服する積りがないというのなら、私の領土から立ち去るがよい。

この引用が示しているのは、自由や隷属という概念の両義性である。父と息子という対立する二つの陣営の双方が、自由の所有権を主張している。さらに注目すべきは、父が自分の優位を示すために善悪の概念、さらに神の権威に訴えていることだ。ここに私たちは、デフォーの抱えていた問題の端的な発露を見る。自由、隷属などの政治概念を共通認識として確立することが不可能であるため、対立する複数の陣営が同じ概念を使って敵を批判するという事態が生じる。この際限なき対立を克服するには、政治的主張を超越した審級に訴えるしかない。それが善悪という基準であり、神の審級である。しかしこの上位の審級がいかに危ういものであるかも、上の引用に暗示されている。「議論を長引かせぬために」父は息子に一方的な禁止の命令を出し、違反時の領国追放という罰まで押しつける。神の審級が議論の対象とならないことは、設定上ただしい。仮に父と息子の両方が自分の善性を主張し、議論しはじめたとすれば、そのときすでに、神の審級は政治の審級に貶められているのだから。だから、神の審級を成立させるには、説得なき禁止と処罰に頼るしかない。かかる禁止と処罰が正当化しようと試みるのは、父の方針が道徳的に正しいのはそれが正しいからだ、という偏執的な同語反復である。このような統治の正当化は、パスカルが紹介する無神論者が改心した方法を想起させる。「聖水を取ったり、ミサを聴いたりなど、彼らはまるで信者であるかのように振舞った。あなた方[=まだ改心していない無神論者たち]もそうすればごく自然に信仰するようになり、より敬虔になることだろう」(『パンセ』より。スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』に引用あり)。仮に議論のレベルでキリスト教に説得されていなくても、まず儀式に参加し、祈りの身振りをすること。それによってはじめて、人は信仰を回復し、敬虔な主体になることができる。つまり、「すでに信じているかのように行動せよ、すると信仰はあとから自然とやってくる」(ジジェク、前掲書)というわけだ。現に、『家庭の導き』第一部で父の命令に従う子供たちは、父の論理ではなく権威に服従することからはじめている。このとき父は神の代理人としての機能を果たしている。神というオリジナルの真正なコピーとして、父の権威が主張され、息子や娘の反抗はそれ自体で反道徳的な行為として、内容にかかわらず処罰される。

このような道徳性の導入は、『天路歴程』のやり方とは異なっている。すでに見たように、『天路歴程』では、家庭生活に人倫の象徴を見て、主人公が家庭を捨てるところから道徳的探求が始まっている。しかし、『天路歴程』も『家庭の導き』も、世間一般の家庭に不道徳を見ている点では一致する。道徳性の導入の仕方が、前者では個人的であり、後者では集団的なのが、上記の違いをもたらしている。そしてデフォーの関心が個人よりも集団的な道徳性にあったことは、『レヴュー』からの流れで理解できる。バンヤンの描くような道徳的主体は政治そのものを人倫の側に置き、放棄してしまう。それに対してデフォーが求めていたのは、道徳的な政治主体であり、それを可能にする政治神学だった。では、『家庭の導き』の政治神学とはどのようなものだろうか。それは王権神授説と関連しているように思われる。しばしば王権神授説が王の統治を根拠づけ、あらゆる可能な反抗を批判するのは、神に創造された最初の人間アダムの人類全体の父としての権威である。このような主張を唱えるフィルマーの著作が『家父長制』(Patriarcha)と題されていることから分かるように、王権神授説は国家を家族的政治体と捉えている。王の統治を支える原則は国民の福利ではなく、まして契約関係などでもなく、家族において父が年長者として支配的に振舞うのと同じ、神の定めた自然法則である。デフォーもまた、政治を道徳的に根拠づけるために家族というモデルを採用し、フィルマーと同じような帰結を得ているのだ。

しかしこの帰結にデフォーが違和感を覚えないはずはない。何しろ彼自身が王への反逆と革命から出発した人間であり、自他共に認める王権神授説への批判者だったのだから。第一部の三年後に出版された『家庭の導き』第二部の序文で、デフォーは次のように言っている。

なんであれ、第二部を書くというのは大胆な冒険である。また、第一部の成功が第二部の成功を期待させるようなきまりは存在しない。(……)これはミルトン氏のすばらしい詩『楽園回復』[『失楽園』の続篇]の運命だった。(……)[しかし、この二冊の『家庭の導き』のうち]どちらが欠けても不完全であると私は思わぬわけに行かない。

第二部の主要な対話の一つは、感情に任せて息子を折檻し、教育者としての義務を果たしたつもりでいる父親が、隣人の導きで寛大な心に目覚めるという話である。ここには確かに、第一部に不足している何かを補完する意図が見られる。第一部の主張では、父の権威へのいわば盲目的な服従の必要性が説かれていた。しかしそれでは、王権神授説、デフォーが暴政の温床と非難した理論と変わるところがなくなってしまう。そこで、本人は熱心な教育者のつもりだが客観的には暴君という人物を第二部で登場させ、彼が家族(国民)の幸福への視点を持つように導いたのである。『家庭の導き』第二部は第一部の社会契約説的修正である。この点で、序文に『楽園回復』への言及があるのは示唆的といえる。人類が悪魔の誘惑に屈服する様を描いた詩『失楽園』の後を受けて、「人の子」イエス・キリストが悪魔の誘惑を撥ね退ける『楽園回復』が書かれたのと類似した動機が、『家庭の導き』第二部の執筆の背景にある。

だが、第二部における社会契約説的修正は、『家庭の導き』第一部で提示された問題を解決したことにはならない。父が家族の幸福を考えつつ支配権を握ることがありうるからといって、家族の幸福が父の支配の根拠になるというわけではない。少なくとも世俗的な意味での家族の幸福(人倫)よりも神の法(道徳)が優先されなければ『家庭の導き』という作品そのものの存在意義がなくなってしまう。なぜなら、本来この作品が扱っていたのは、父と息子とが議論による合意に達しなかった場合、つまり契約を結ぶことが不可能な場合における政治的主体の確立だったのだから。

家父長制と王権神授説という罠から道徳的政治主体を救出するためのヒントは、むしろ第一部に示されている。第一部で、父は家族全員の宗教改革を試み、先述の長男と長女の二人が激しく抵抗する。やがて長女は近所の青年と恋に落ち、品行方正な青年に感化される形で敬虔な主体へと転向する。他方、長男はいつまでも父の言うことを聞かないため、父の持つ土地(領土)の一部を割譲された上で勘当される。彼は兵士としてフランドル地方に出征し、片手を失う重傷を負って故郷に帰還する。故郷ではかつて共に反抗した長女だけが彼を出迎える。すでに父と和解した長女は、長男にも和解を促すが、彼はなかなか受け入れない。

 親父のいう自由ってなんだ? 親父はぼくに自由を許したというけど、それは服従か餓死かを選ぶ自由だ。あいつに跪くか、物乞いをするか。これで自由が許されてるっていうのかい?

 兄さん。感情と反抗心がどんなに兄さんを誤らせているか気付いて。父さんは暴君じゃないわ。神さまに兄さんの眼を今からでも開いて欲しい、悔悛は神から賜わる物で、自分にそれを強制する権力はないって、父さんは言っているのよ。
(……)
 ぼくは親切な心には簡単に屈してしまうよ。暴力には決して屈しないが。」

兄を心配する妹の心にほだされて、一時は和解の決心をした彼だったが、結局敬虔な生活を受け入れることができないので、父との再会もならなかった。絶望して何度か自殺を試みるが死に切れず、回復後は世話になっていた妹の家を飛び出して自暴自棄な生活を送る。そして、

ついに死の床につき、譫妄状態に入ると、彼は「お父さん! お父さん!」と叫んだ。「ぼくはお父さんを傷つけてしまった! お父さんに会わせて! お父さんに許してもらいたいんだ!」 しかし、父親はたまたま地方に出掛けており、その許に知らせを届けることができないうちに、彼は死んだ。

この悲惨な最期にもかかわらず、いやむしろ、この悲惨さゆえにいっそう、長男の生き方は人倫の審級を超えた何かを体現していたといえないだろうか。長男の反抗心は、最後にはほとんど自己目的化し、彼自身の和解への希望さえも抹消する強迫的な要請へと変貌している。救いようのない自己を自殺によって処罰する自由さえも許されず、文字どおり理由なき反抗に殉じて死んでいく。ここには常識を超えた力が働いている。はからずも『家庭の導き』は、長男の生き方のなかに、もっとも道徳的な主体を表現することになったといえる。父の命令に従うことは、所詮、家父長制という人間の掟に従っていることにしかならない。父が神の権威を笠に着ていようとも、そのとき依拠される神は、キリスト教社会のなかで(少なくともその一部で)慣習的に認められた神であり、すでに半分世俗化、人間化している。それに対し、長男の過酷な反抗は、あらゆる地上の律法からはみ出している。にもかかわらず、彼は彼を導く謎の力に屈しないわけには行かない。仮に人倫の軛を脱した純粋な道徳性を考えるなら、『家庭の導き』では長男がもっとも道徳的だといわねばなるまい。少なくとも、近所の好青年と結婚したいという私欲にもとづいて敬虔になった長女よりは、どんな強制や説得にも屈しなかった長男の方が道徳的に振舞っている。もちろん、それは常識的に考えて良くない生き方であるだけでなく、当人にも不幸な生き方である。しかし、『家庭の導き』のデフォーは、道徳性の問題について、いまだ善悪の観念にとらわれていたバンヤンより一歩進んで、図らずもカント的な認識に達していたといえよう。ジャック・ラカンによれば、道徳から人倫の要素を削ぎ落とし、徹底的に形式化したカントの思想に従うなら、サドの作品はきわめて道徳的だと解釈できる。いや、カントやラカンを持ち出すまでもあるまい。私たちが確認すべきなのは、『天路歴程』の主人公も『家庭の導き』の長男も、純粋道徳の見地からは区別のつけようがないということである。窮極の道徳とはアモラルなものなのだ。

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