2004.01.20 武田将明

煙草と聖書〈3〉

『ロビンソン・クルーソー』における欲望の問題

3.

人倫から道徳へ――ジャーナリズムとの訣別

おもな主張がことごとく実現され、さぞかしデフォーは自分の使命の達成に満足して『レヴュー』を終刊させたことだろう。そう思うのが普通である。ところが、事実はその正反対だった。『レヴュー』の終刊号を見てみよう。

お別れを告げる前に、少しばかり辛抱してもらって、読者諸氏のあいだで猖獗を極めている伝染性の病毒を非難することを許していただきたい。(……)奇妙な話だが、私見では諸氏のすべてが流行の、しかし忌まわしい現代的売春に毒されている。(……)自惚れ、奢侈、貪欲、不和、憤怒、錯誤など、今日のあらゆる公然たる害毒は、売春の罪と呼ぶのがもっともふさわしいし、もっとも有効に非難できるだろう。(……)諸氏の気分、想像、あるいは嗜好を過度に高めるものは、諸氏と同衾する娼婦なのだ。勤勉な商人は彼の店と寝ている。浮かれた洒落者は(……)彼の衣服や外見と寝ている。(……)読むことと寝る者もいれば、書くことと寝る者もいる。そしてそのどちらもしない三分の一の者は怠惰と寝ているのだ。ある者は自分の作品と寝て、ほかの者は他人の作品と寝る。『イグザミナー』[*1]と寝る者もいれば、『ガーディアン』[*2]と寝る者もいるし、一部の愚か者は自分で自分の娼婦を作る。どれだけ多くの連中が『スペクテイター』[*3]を犯したことだろうか。(……)現在我々には公娼がいる。(……)こちらのコーヒーハウスやあちらの社交クラブの専属とはいえ、公共の役に立っている。こいつらは一般に罵りを得意とする娼婦で、時に政府、時に王位継承、時にフランス人、時に合邦、時に交易が槍玉にあがる。(……)ひょっとすると私はこの新聞と寝ていたのかもしれない。

これはどういうことだろうか。まず目を引くのは、デフォーが「勤勉な商人」と「浮かれた洒落者」とを、自分の嗜好を追求している点で同様に「現代的売春に毒されている」と定義したことだ。マックス・ヴェーバーの図式に従うならば、勤勉な商人こそ、徹底した自己管理を骨子とするピューリタン的倫理の産物ではなかったか。しかし、ほかでもないピューリタンの系譜に属するデフォーが、勤勉な商人を道徳的に堕落した人間の例として挙げているのだ。もちろん、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーも引用しているリチャード・バックスターなど、富の蓄積の道徳的危険性を説くピューリタンは存在した。しかし、デフォーの批判が富の蓄積ではなく、勤勉さに向かっていることは、商人と熱心に装いを凝らす洒落者とが比較されているところから明らかである。富を非難するピューリタンにとって「道徳的に真に排斥すべきであるのは、とりわけその所有のうえに休息することで、富の享楽によって怠惰や肉の欲、なかんずく聖く正しい生活への努力から離れるような結果がもたらされること」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)であるのに対し、デフォーの場合は、何事かに夢中になっている状態それ自体が、すでに非道徳的だということになる。この認識に立った上で本格的に批判されるのが、新聞というシステムそのものである。新聞を書く者は、九年ものあいだ週三回『レヴュー』を発行してきたデフォーその人を筆頭に、仕事に淫している(「書くことと寝ている」)。新聞を読む者も、自分の嗜好に合わせて気に入った情報や意見を手に入れ、享楽しているという意味で、「読むことと寝ている」。新聞は多数の人間に快楽を提供する公娼にほかならない。

これが極端な意見であるのはいうまでもない。繰り返しになるが、『レヴュー』は相当な政治的成果をあげていたのである。それを売春の一語で全否定するのは、いくらなんでも言いすぎではないのか。上のような論理を押し通せば、この世に売春でない活動などなくなってしまうではないか。かくも理不尽なデフォーの怒りには、二つの問題が背景にあるものと思われる。

第一に、すでに何度か言及している、当時の英国の不安定な政治状況である。特に上の引用が書かれた1713年には、アン女王の次の王位をめぐって熾烈な政治的抗争が繰り広げられていた。女王に継子がいなかったため、ハノーヴァー選帝侯ジョージが王位を継承することが決められていたが、遠戚のジョージよりは亡命中のジェームズ三世を迎えるほうがいいのではないか、とひそかに考える者も少なくはなかった。また、これを機に、ジャコバイティズムのレッテルを貼ることで政敵を貶めようという工作もあとを絶たなかった(被害者のひとりが、結果的に釈放されたとはいえ、しばらくロンドン塔に幽閉され、その権謀術数に満ちた政治生命をついに終えたハーリーその人だった)。九年間の努力にもかかわらず、政争そのものはまったく沈静化しない。その状況へのいらだちが、最後の最後での怒りの爆発につながったと考えることができる。これは、「アテネ協会頌」でデフォーが讃えた知の帝国が思いどおりに確立されないことへの失望として説明できるだろう。『レヴュー』は政治の中枢に近いところから情報を発信し続けた。しかし情報の網は党派の乱立とそれに比例する新聞の濫発によって中心も周縁も不明確になり、個々の新聞は啓蒙の手段ではなく気まぐれな読者の嗜好に媚びるだけのものとなった。この状況の背後には、肝心の政治の中枢そのものが不安定であり続けているという問題がある。政治的混乱を利用しようとする諸党派があるために、王位は脅かされ続けているし、安泰な政府も存在しない。危機の時代にもかかわらず、一貫した政治運営が困難になっている。デフォーたちが歓呼して迎えた名誉革命から二十五年も経つというのに、イギリスの政治機構が磐石になるどころか、このような悪循環からいつまでも抜け出せないのはなぜなのか。知の帝国を樹立できないことへの不満は、畢竟、イギリスが強力な近代国家として完成しないことへの不満と平行している。

実は、人間の活動全般に悪あるいは不道徳を見出すのは、『レヴュー』終刊号のデフォーに限った話ではない。例えばバーナード・マンデヴィルの『蜂の寓話』(初版1705、しかし1723年に増補改定版が出てはじめて耳目を集めた)を見てみよう。「私悪すなわち公益」という副題のついたこの作品によれば、人間の行動原理は所詮私的な利益の追求(私悪)であるほかはない、しかし交易や生活水準の向上はすべて私益の追求を出発点としているのだから、私益の追求そのものを否定することは人間的な生活を否定することになる、つまり私悪を否定してなおかつ公益を獲得することは不可能である。

文明の利器を享受し
戦で名をあげ、でも安楽に
大きな悪もなく暮らすなんて、
頭のなかの虚しい楽園。
利益を受けとるかぎり
不正、奢侈、自惚れは必ずある。
(……)
法に刈りこまれ、縛られれば
悪は有益になる。
それどころか、国民が偉大になるためには
空腹が食事をさせるのに必要なのと同じく
悪は不可欠なもの。
徳だけでは国は栄えない。

マンデヴィルもまた、私的な嗜好の追求それ自体が不道徳であることを認めている。しかし、デフォーと違って、彼は個人的な不道徳がなければ国家の繁栄はないという理由で不道徳に対して寛容であれと説く。公共に害をもたらすほどの悪行は、もちろん法律によって罰しなければならないが、悪の根を絶つことはできないし、するべきではない。こうした論理はデフォーの非難よりも進歩的に思われるし、実際、のちのアダム・スミスら古典派経済学との類縁性もしばしば指摘されている。スミス自身は『道徳感情論』でマンデヴィルの倫理的な側面を批判しているものの、一見して無秩序な交易市場は神の見えざる手によって調整されているという古典派の主張は、マンデヴィルの国民経済理論と問題意識を共有しているのは確かである。しかしながら、デフォーが社会における道徳の不在を非難したことを、時代遅れの狂信的ピューリタニズムとして片付けることは、『レヴュー』の筆者に対する不当な評価にはならないだろうか。私利私欲を追求する社会への無差別な攻撃には、ピューリタンの説教師ではなく一流の政治ジャーナリストならではの不満と不安があったのではないか。デフォーの怒りを説明する第二の理由、革命と暴動の問題へと話を進めよう。

1681年、二十代はじめのデフォーは人生の選択に直面していた。それまで四年間、非国教会派の牧師になるための勉強をしてきて、あと一年で課程を修了することになっていた。聖職につくことがいよいよ具体的となってきたことで、あらためて本当にそれでいいのかどうか疑問を感じたものらしい。結局、彼は学校を中退して靴下の販売をはじめた。獣脂蝋燭の販売に長年従事し、ロンドン市政に発言権のあった彼の父と同じく、商人として確固たる地位を築き、ゆくゆくは政治にも参入してみたい、そんな野心をもっていたのではないかと思われる。また、聖職者としての生活が実社会との繋がりを希薄にすることを、彼は危惧していたのかも知れない。「宗教的または哲学的な理由で人間社会から隠棲することは単なるごまかしである。隠棲しても掲げた目的を達成できないし、宗教の義務を履行したことにもならない。それには実践が伴わなくてはならないから。ゆえに隠棲はそれ自体反宗教的であり、さまざまな点でキリスト者の生活と矛盾する」(『ロビンソン・クルーソー瞑想録』)。当時ロンドンで商売に身を投じることは、ひとつの政治的決断でもあった。非国教徒を主体とするロンドンの経済人たちに対し、かつてピューリタン革命で父親(チャールズ一世)を殺されたチャールズ二世は不信感を隠さず、対立は年々深刻化していた。のみならず、王位を継ぐことが決定していた王弟ジェームズは公然とカトリックを奉じており、やがて非国教徒への弾圧が始まることも予想された。デフォーはロンドン(シティー)と宮廷との対立の現場に足を踏み入れたのである。

1685年、ジェームズが即位しジェームズ二世となった直後、チャールズ二世の庶子でプロテスタントだったモンマス公が反乱を起こした。デフォーは自ら武器を取って反乱に参加したがすぐに鎮圧された。その三年後の名誉革命によって彼らロンドン経済人たち最大の危機はとりあえず乗り越えられたわけだが、ここで重要なのは、デフォーの政治活動が王への反乱から始まっているという事実だ。他方、名誉革命以降のデフォーは、プロテスタントの権利を代表するウィリアム三世を擁護する側に立つこととなった。その後、アン女王の治下(1702〜1714)でも、『レヴュー』を通じて政府を支持していたことはすでに述べたとおりである。名誉革命後、非国教徒の苦境は乗り越えられたかに思われた。フランスとの長期化する戦争が莫大な軍事費の調達を必要とし、英国の金融を牛耳る非国教徒たちと政府との結びつきが深まったからである。しかし、これは旧来の支配層たち、および国教を信奉する一般市民のあいだで反発を引き起こし、1710年には、ある国教会の説教師への裁判をきっかけに大規模な反政府、反非国教徒運動が起こり、暴徒がイングランド中を騒乱に巻きこんだ。その被害で破壊されたものの一つに、政府系新聞『レヴュー』の印刷所も含まれていた。数日後には別の印刷所から『レヴュー』を発行し、暴力に屈しない気概を示したデフォーだったが、彼の政治思想はより困難な問題に直面していたはずである。暴力による政治への介入をいかにして正当化できるのか、あるいは、革命と暴動の違いはどこにあるのか、という問題である。

反乱と革命から出発したデフォーは、権力への反抗それ自体を否定することはできない。しかしながら、自らが暴力の対象になったとき、反抗の正当性をどのように制限するかを考える必要に迫られた。もちろん、個々の反対勢力に対し、自らの政治的立場を主張することで自己弁護は可能である。だが、各勢力が自己主張をするばかりでは、政治的な正当性は相対的なものになり、勝てば官軍という論理しか残らなくなる。ゆえに、「勝ち組」に属していたにもかかわらず、『レヴュー』の筆者は常に不満を抱き続けたのであり、このことは彼が金目当ての三文文士とはおよそ異なる書き手であったことを証明している。『レヴュー』の成功は、国民の啓蒙・説得というより、既存の政治権力へのしたたかな協調によって得られていた。それは例えば、推定二百部という『レヴュー』の売り上げ(『スペクテイター』は三千部)に如実に現れている。真に正当な政治的主体はいかにして可能か。この問題に答えを出すのは、政治ジャーナリズムの内部からは無理である、というのが、九年間『レヴュー』に携わったデフォーの結論だった。社会制度を論じるだけでは、ほかの新聞と相対的な優劣を争うことにしかならない。それゆえにデフォーは、人倫(社会的な規範)を超えた道徳(普遍的な規範)の審級へと進むことになったのではないか。人の法の解釈から神の法の獲得へ。『レヴュー』終刊号での罵詈雑言は、この新しい展開の宣言として、あるいはジャーナリズム全体への宣戦布告として読むことができるだろう。そうでなければ、『レヴュー』もまた公娼の一人にすぎなかったなどと言う必要があっただろうか。また、仮に不満はあっても、着々と彼の設計どおり建設されていた大英帝国の現場から一歩身を引く理由など、どこにあったというのだろうか[*4]

*1 一時期ジョナサン・スウィフトが関わっていたトーリー党支持の新聞。
*2 リチャード・スティール編集のホイッグ党支持の新聞。
*3 ジョウゼフ・アディソンとスティールが共同で編集した当時を代表する新聞。
*4 マンデヴィルや古典派経済学の視点には、この正当な政治的主体をいかに確立するかという問題意識が欠けている。彼らの思想においては、神的なものは政治とは関係なく、市場の上に位置している(「神の見えざる手」)。それは社会から道徳的な審級を排除したことと一致し(「法に刈りこまれ、縛られれば/悪は有益になる)、結果として既存の法を超えた正義を考えることを不可能にする。この文脈から見れば、デフォーは、古典派経済学の批判を通じて革命の可能性を考察したマルクスと近い立場にいる。
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