2003.10.10 武田将明

煙草と聖書〈2〉

『ロビンソン・クルーソー』における欲望の問題

2.

情報と帝国――「アテネ協会頌」から『レヴュー』へ

最初に取り上げるのは、「アテネ協会頌」という詩である。1692年、当時まだダニエル・フォーと名乗っていた後の『ロビンソン・クルーソー』の作者は、『アテネ協会史』という書物に詩を献呈した。アテネ協会とは、『アテネ新報』(1691〜1697)という新聞紙上で活躍していた架空の学者集団であり、読者から寄せられたさまざまな疑問(ニュートン力学や聖書の解釈について、もちろん恋愛の悩みも)を解決するのをその務めとしていた。ちなみに、「アテネ協会」という名前は、古代の学問の中心だったアテネと近代の学問の府と目されるイングランド王立協会とを合成して作られている。古今無双の頭脳集団というわけだ。

アテネ協会の偉大さに比例して、詩人の構想も壮大なものとなっている。十七世紀末の「悩み事なんでも相談室」を讃えるために、彼はまず先史時代を想起する。

科学も学問も名前を持つ以前
膨大な記憶が世評を記していた
それは忘却が生まれ、機知が無知を見つけて
軽蔑するよりもはるか昔のことだった
人間は六百年前のことを語れたが
まだなお遠い先の運命を追求していた。

このような時代には、知識を書き留める必要がないので本や文字は存在せず、人間のあいだに能力の違いもなかったので、万人が平等に暮らしていた。しかしあるとき

天から奇妙で粗野な言語が王位につき
専門用語の雲が世界に広がった
混乱が合流し恐るべき戦隊となり
かくして無知王が統治をはじめた。

無知王の専制政治により荒廃を極めた世界を救うために「知恵」と「学問」の二人の若者が立ち上がる。彼らはアテネとローマで勝利を収め、世界は光を取り戻す。

「知恵」と「学問」は、歳月とともに名声を加え
妬まれることなく永遠の帝位を享受している。
彼らの帝国は世界の果てまで広がり
遠い王国まで太守を派遣し、
彼らの忠実な役人は世界中に散らばり、
我らはこれらのことを不滅の詩で謳う。

この詩が「不滅」の傑作とまでは言えないとしても、デフォーのジャーナリズム観を知るうえで重要な詩であることは確かである。詩人はジャーナリズムと政治を平行して捉えている。「無知」に対して「知恵」および「学問」が繰り広げる闘争は、もちろん『アテネ新報』が多数の読者を啓蒙する過程を描いたものだが、それだけでなく、ここに作者はある政治事件を重ね合わせている。この詩が出版される四年前に起きた、名誉革命のことである。「知恵」と「学問」が二人で「無知」と戦っていることに注目して欲しい。名誉革命の時には、カトリックのジェームズ二世の王位が剥奪され、プロテスタントのオランダ総督オレンジ公ウィリアムがイギリス王家との血縁の深い后メアリと共に王位についたのだった。デフォー自身、名誉革命の前のモンマス公反乱の時から反ジェームズ派であり、オレンジ公すなわちウィリアム三世の熱烈な支持者でもあった。「永遠の帝位を享受」という箇所には、大陸に逃げたジェームズと、それを支援するルイ十四世の脅威に屈せず、新しい王室が繁栄するようにという願いがこめられている。詩人が描く革命後のイギリス(スコットランドやアイルランドを含む)の理想像は、「世界の果てまで広がり」、あまねく太守や役人を派遣する強力な中央集権国家である。おなじ箇所を理想的なジャーナリズムの描写として読むならば、国家の隅々まで情報網を張りめぐらせ、網の中心から国民に共通の知を授ける様子が描かれているといえる。ここで判明するのは、デフォーの理想国家と理想のジャーナリズムとの相互補完性である。安定した集権体制があれば情報網を構築することは容易になるし、国民の情報を中央で管理することは体制の安定に貢献するだろう。もっとも、これは次善の策でしかない。詩に描かれる本当の黄金時代には、超人的な知識を万民が所持し、上から啓蒙する者もなかったわけだが、デフォーはそのような手の届かない理想は追求せず、これ以降、政治と知の帝国の建設に心血を注ぐことになるのである。すでに紹介した『企画論』では、フランスのアカデミーを模倣した英語の改良・普及のための公的機関の設立を唱えているが、これも知の帝国のために立案されたものだ。これに続く類似した提案がスウィフト、アディソンなど他の人々からも出されたが、英語アカデミーは実現しなかった。その代わり、デフォーは(そして英語アカデミーを提案したほかの文士たちも)ジャーナリズムの世界を操ることにより、あくまでも自力で帝国を築くことにしたのである。

とはいえ、新聞を出版するには金が要る。また、政治家とのコネもなければ必要な情報を収集できない。十八世紀のはじめには、すでに有能な政治パンフレット作者として知られていたデフォーだったが、未だに一城の主とはなれなかった。この問題を一気に解決してくれたのが、皮肉なことに、筆禍事件による投獄だった。1702年、彼は『非国教徒への手っ取り早い対策』というパンフレットを出版した。これは当時の大きな社会問題だったイングランド国教の信者と非国教徒との対立を解決するために、かつてルイ十四世がナントの勅令を破棄してユグノー(フランスにいた新教徒たち)を追い出したように、非国教徒の市民権を剥奪し、全員追放すべしという主張のこめられたものだった。主張の強引さはもちろんのこと、更に問題なのはデフォー自身が非国教徒だったということで、要するに、彼は国教会の過激派を装って人道に反する主張を行うことによって、世論の流れを国教会に批判的になるように操作しようとしたのである。この作品が巻き起こした政情不安を理由に、作者デフォーは牢に繋がれ、晒し台に掛けられることとなるのだが、そこでロバート・ハーリーという政治家に助けられる。ハーリーは、イギリスで最初にジャーナリズムを使った情報操作を統治に利用した人物として知られている。デフォーの文才に興味を覚えたハーリーは、彼を釈放するよう取り計らうとともに、自分のお抱え文士の一人として雇ったのである。

1704年2月19日、国務大臣ハーリーの支援をひそかに受けて、デフォーは『レヴュー』紙を創刊した。それから九年間、彼はこの新聞を原則として週三回刊行し続ける。内容から見て、すべての記事を一人で執筆していたものと思われる。かくも長期にわたって、ひとりの人間が同じ新聞を編集するのは、政治ジャーナリズム華やかなりし当時にあっても異色だった。更に注目すべき点は、この新聞が常に政治の中枢と関わりを持っていたことである。1688年の名誉革命後、ロバート・ウォルポールが長期政権を敷くようになる1720年までの三十年余り、英国の政治は果てしない政争(それはトーリー対ホイッグという図式に還元できるものではない)によって混乱していた。『レヴュー』の九年間にも、例えばハーリーが政権から追われたことがあったが、デフォーはゴドルフィンという別の政治家に庇護を求めて成功し、政府の支持を続けた。その後ハーリーは首相として政権に返り咲くが、そのとき『レヴュー』はハーリー支持に再転向している。

このようなやり方は、当然同業者の顰蹙を買った。「金のために何でも書く傭兵文士」、「無知文盲の輩」、「姦通者」など、デフォーへの誹謗中傷は大変なものがあった。当時の諷刺画のなかに、悪魔に裸の尻を差し出しているデフォーの姿が描かれている。超人的な執筆力の秘密は悪魔とのおぞましい契約にあるものと疑われていたらしい。たしかに、彼は生涯借金に追われていたので、金を稼ぐ必要があったのは事実である。しかし、『レヴュー』の主張自体を読めば、意外なほどデフォーは首尾一貫している。排他的な国教徒への批判、ジャコバイティズム(ジェームズ二世の死後、ジェームズ三世を名乗ったその息子を支持する英国の政治運動)への警戒、イングランドとスコットランドの合邦への支持など、『レヴュー』の基本思想は変化していないのである。そして、これらの論点すべての背景にあるのが、1702年から続いていたフランスとの戦争だった。デフォーの考えでは、当時フランスの国力は他国を圧倒しており、イングランドは恒常的な危機に瀕していた。それは国家の存亡の危機でもあり、同時にデフォーにとってはプロテスタンティズムの存続の危機をも意味していた。これに対するデフォーの戦略は、カトリック国フランス対プロテスタント国イングランドという対立軸を鮮明にし、イングランドの政治的、軍事的、経済的な優位を獲得していくことだった。スコットランドとの合邦は国力の増進に不可欠だったし、排他的な国教徒はカルヴァン派のスコットランドとの合邦に反対しているので抑圧しなければならなかったし、ジャコバイティズムはカトリック国フランスがイギリス政治に介入する機会を与えるので断固阻止しなければならなかった。フランスとの戦争については、彼は戦況が膠着していた頃には愛国心を煽るべく努め、(ウィンストン・チャーチルの祖先である)モールバラ公の活躍で主要な戦闘に勝利しはじめると一転して早期和平を唱えた。戦勝に酔うイングランド国民の批判を浴びたこの主張も、イングランドの財政状況を熟知していたデフォーにとっては当然のものだった。近代の戦争においては戦闘における勇猛さよりも戦費の調達能力が重要であることを、デフォーはくり返し語っている。例えば次のように。

国家の力は今では、昔とちがって、勇気、豪胆、品行によって計られるのではない。国家の富こそが、それを強大にするのであり、戦争の費用をもっとも長く調達できる国民こそが、最終的に敵を征服するのだ。確かに、ローマ人は征服によってほかの国々の富を奪い、彼ら自身の貧しさは勇敢さを高める拍車だった。そしてしまいには、彼らはゴート人やヴァンダル人という無数の貧しい民族の餌食となった。しかし今や事情は変わり、国を征服するのはもっとも長い剣ではなく、もっとも長い財布なのだ。(『レヴュー』)

一見理解しがたい『レヴュー』の主張も、実は慎重な状況分析に支えられている。デフォーが党派にこだわらず、時々の政府との関係を保ち続けたのは、権力の走狗だったからではなく、むしろ冷徹な政治分析家(当時の用語ではpolitical arithmetician政治算術家)だったからである。特定の党派に誠実であるよりは、党派を変えてでも自分の主張を政治に反映させねばならないという、彼一流の使命感がそこには働いている。彼の主張の説得力を証明するかのように、度重なる背信行為にもかかわらず彼は政府から雇われ続けた。もちろん、政治の現場に彼が与えた影響力は限られていただろうが、事実としてスコットランドとの合邦はなされた(1707)し、フランスとのあいだでユトレヒト和約も成立した(1713)。この和約は、彼以外のあらゆるイングランド人が戦争賛成だった頃から主張していたものだけに、実現まで非常に時間はかかったものの、その意義は大きい。そして和約の成立と時を合わせるかのように、1713年、『レヴュー』は幕を降ろしたのである。

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