2004.04.08 武田将明

煙草と聖書〈9〉

『ロビンソン・クルーソー』における欲望の問題

9.

むすび――シミュラークルとしてのクルーソーと小説の問題

『煙草は崇高である』からの引用をあらためて見てみよう。「煙草の持つ、人の心を和らげる力が生み出した魔法の円」は、外界の危険に対する私たちの警戒心を解きほぐしてくれる。煙草のこのような効能は、聖書を読むクルーソーが、いくぶん外の世界を無視して、自分が摂理に守られていることを感じるのにも役立ったと思われる(愛煙家のクルーソーは聖書を読むときも煙草を吸っていたはずである)。しかし、クライン/カントが『ロビンソン・クルーソー』と食い違うのは、崇高を持ち出す際、緩和された危険な現実が秩序に取りこまれてしまう点である。クルーソーの摂理とは、実在の秩序のことではない。個々の出来事について、事後的に見出されては捨てられる、アド・ホックな説明にすぎない。摂理は主体を拘束しないのである。象徴界を再構成せずに緩和された現実界を眺めるクルーソーは、知覚の限界を理解して崇高を感じる代わりに、眼に見えるものひとつひとつが彼の欲望を駆りたてるような世界に突き抜けていったのではないか。つまり、象徴界との対比で出現する穴としての現実界ではなく、象徴界が崩壊した廃墟のなかに、煙草のけむりと摂理の幻想の力を借りて、世界中に散種された現実界を見出すことになったのではないだろうか。このとき、世界は彼に読まれるのを待つ一冊の書物になる。いや、それどころか、この書物はクルーソーの内面も巻きこみ、夢や幻覚を頻繁に見させる。幻覚のなかで、彼の欲望はとてつもなく広がり、『瞑想録』ではついに宇宙にまで達する。教養のある友人と天体について話していたとき、「常にさまよいがちな私の想像力」が羽根を広げ、「打ち克ちがたい旅行癖」が刺激されて、クルーソーは「タタール地方の砂漠や無人の荒野を旅したときと同じくらいはっきりした意識を持ち、惑星を求めて無限の宇宙のあらゆる迷路や荒野を旅した」。次いで各惑星について、その形状や気候、生命の存在可能性などを彼は詳細に語っている。

クルーソーには内部も外部もなく、ただ世界を読み漁る欲望だけがある。この書物には、もちろん始まりも終わりもない。クルーソーの欲望はつねに世界中を向いている以上、特定の始まりなど意味を持たないし、仮に世界中を歩きつくしたとしても、彼の欲望に終わりはないだろう。なぜなら、彼自身が、夢や幻覚によって新たな土地を作り出しているのだから。世界を見尽くすことを欲望する彼自身が、同時に目的/終わりを遠ざけ続ける。彼は命の続くかぎりさまようことを運命付けられている。第二部で、彼は六十歳を越えてもまだ放浪しているのだ。そんな彼は、ゴルゴタの丘へ曳かれるキリストを嘲弄した罰で永遠に世界をさまようユダヤ人に似ているかも知れない。島の宗教改革によって敬虔な人間となり、立派な島の住民ともなった、かつての悪党ウィル・アトキンズに対して、自分に課せられた呪いを自覚しているかのようにクルーソーは言う。「この島のどの浜辺も、どの丘も、いや、それどころかあらゆる一本一本の木が、いい優しい父の恩に報いず、かえって仇で返した私の魂の苦悩の証人なのだ。ウィル・アトキンズ君、私の悔悛の心はとうてい君のそれには及ばないと思うのだ。」しかし、この羨望にはどこかうそ臭いところがある。世界をさまよう彼の表情は、歓喜に満ちてもいないが、さほど沈鬱でもない。無限の欲望に従う彼は、善悪のみならず苦楽の彼岸にもいるのだ。

永遠の放浪者である彼にとって、すべては一枚の平面に広がっている。時間的な順序や、社会的・宗教的な上下関係は、悪魔さえも肯定する思想のなかで解体される。『ロビンソン・クルーソー瞑想録』の序文で、彼の冒険記への批判に反論しながら、著者「ロビンソン・クルーソー」は暗に自らの評判をキリストのそれになぞらえている。

教師とは、より偉大な教師がそうだったごとく、自分の国では名誉を得ない。精神を揺さぶるような事実を構成するには、遥か彼方で、誰も知らない者の手によらねばならないのだ。祝福された世界の救い主の奇蹟さえも、それを行ったのが大工の息子であるという理由で、ひどくないがしろにされたのである。(……)たとえ頑迷な今の時代が、この作品でなされた正しい思索に対して耳を閉ざすとしても、(……)人々の心がより柔軟で、父親たちの偏見はもはや場所を失い、徳と宗教の規則が正当に推奨される(……)時代がいつか来て、子供たちが父親たちの判断に反対して立ち上がり、前の世代が軽蔑したのと同じ教えによって、後の世代が啓発されることだろう。

キリストと同じく、私もすぐには正当な評価を受けないが、後の世代によって本物の教師だと認められるだろう、そうクルーソーは主張するのだ。だがむしろ、彼はキリストの贋物、シミュラークルである。あちらには神と精霊とキリストの三位一体があり、こちらには聖書と煙草とクルーソーの三位一体がある。クルーソーの世界には、もともとキリストのような高位の人間は存在しない。というより、彼の視点からは、本物のキリストも平らに均されて贋物になるので、彼が自分はキリストだと主張するのはどこも間違ってはいないのだが、それは彼が自分はさまよえるユダヤ人だと言うのともはや等価値であり、その強引な等価関係によって、キリストもさまよえるユダヤ人も、偉大さや深刻さをそぎ落とされてしまうのである。

つまり彼は貨幣なのだ。ただしそれは実在の貨幣ではなく、理念的、普遍的な貨幣であり、国家も含むあらゆる集団の枠を逸脱し、万人から求められ、土地から土地、人から人へと移動して止むことがない。彼に対して、実にさまざまなものが等価であるとさせられては、結局どこにも落ち着かなかったという事実が、その最たる証拠である。近代的経済人、帝国主義者、近代小説の起源……。どの交換物も彼を引き留めることはできない。彼は自分の欲望のためなら君主の地位さえも抛った人間である。新しい土地へと移動し続けることは彼の宿命的な欲望であり、この欲望こそ彼自身の本質なのだ。

無人島を開発し、臣下を従えるに至ったクルーソーから、かけ離れた世界に私たちは到達してしまったようにも思える。島で道徳的主体を確立することで、彼は神に選ばれた者となり君主の資格を得た、と前に説明した。そこで道徳的主体と呼んだものは、要するに摂理を信じている主体のことである。ならば、いま見たとおり摂理は移動の欲望を後押ししているのだから、彼が島をひとつの国家にし、そこに君臨するのは矛盾しているのではないか。このような疑問は当然でてくるだろう。しかし、私たちは、クルーソーが島の社会における異質なもの同士を結びつける働きをしていたことを、忘れてはならない。はじめに彼は現地人のフライデーを従者にし、ついでスペイン人、イングランド人を家臣に加えた。異なる人種・宗教の人々が共存している社会、それがクルーソーの支配する島だった。彼が君主になったのは、支配欲からではなく、異なるもの同士を結びつけようとする欲望からではなかったか。彼が島を去ったのは、まさに布教の浸透によって社会が同質化しつつあるときだった。また、クルーソーとフライデーとのあいだには友愛の情が存在し、上下関係というより、横の連帯感の方が強いように感じられる。たしかに、クルーソーは自らを「専制君主」と呼んでいるが、それは彼が島を支配するための法を制定しなかったからである。たとえどのようなものであっても、法を作った時点で彼の力は制限され、「自分のすべての臣下の生命と財産を完全に思うままに」はできなくなったはずである。つまり、彼の島には象徴的な秩序は存在しない。その意味で、彼の地位は象徴秩序の上位にあるものではない。さらに、彼は最後まで彼の島に名前をつけず、島のアイデンティティを確立するのをあえて避けている。象徴秩序(法)を制定するのでもなく、人倫の体系(国家宗教)を確立するのでもなく、異質な者たちを結びつける存在、それがロビンソン王だった。彼は島に無政府主義的君主政治とでも呼ぶべき政体をつくるが、それは決して長続きしない。いずれ象徴秩序や人倫の体系が社会に求められ、彼は島を去る運命にあるのだ。これは道徳的政治主体を模索する政治批評家デフォーにとってはありがたくない帰結かもしれない。しかし同時に、それは『ロビンソン・クルーソー』の著者が驚くほど徹底した思考を行っていることの証左であり、作品の価値をなんら貶めるものではない。

クルーソーの陥っている罠、散種された欲望による永遠の彷徨は、『ロビンソン・クルーソー』の解釈史が陥ってきた罠でもある。デフォーが『ロビンソン・クルーソー』で表現したもの、それは、私たちの欲望そのものである。『ロビンソン・クルーソー』は、身近な感覚、ときには痛いほどの現実感を現代の読者にも与える。移動そのものを根拠としたこの小説に流れる時間には、決定的な始まりも終わりもなく、あるのは無限の再開、無数に散らばる現在ばかりである。ドゥルーズは若いころ「無人島」というテクストを書き、そこで「無人島からは創造そのものではなく再創造が、開始ではなく再開が生じる。無人島は起源であるが、それは第二の起源だ。そこから、すべてが再開する」と語った。この言葉はトゥルニエよりデフォーの『ロビンソン・クルーソー』にこそ当てはまっている。

『ロビンソン・クルーソー』に始まりも終わりもないのなら、この小説を「近代小説の起源」、すなわち近代小説史の始まりと呼ぶことは、悪い冗談としか思えない。そのような思いつきは、(とりわけ英米人以外には)つまらないどころか、『ロビンソン・クルーソー』理解への障害となるだけである。そもそも、これまで無数に書かれてきた小説のなかで、いくつかのものは後世までも読まれているという不思議な事態を説明するには、『ロビンソン・クルーソー』の持つような時間性を考えなければならないのではないか。詩や演劇と異なり、ジャーナリズム的、時事的なジャンルである小説には自律的な歴史・伝統はないし、かといって、経済学や政治学、歴史学や社会学(あるいはその亜流としての文学研究)の資料としてだけ後世における意味があるわけでもない。時を超えて小説が提供できるものがあるとすれば、それは現前性のシミュラークルである。始まりも終わりもない時間の感覚は、私たちに、それがいま現在生じているかのような錯覚を催させる。小説をむさぼり読むことほどノスタルジーから遠い読書経験はあるだろうか。仮に小説史というものが書かれうるとすれば、それは無限の再開の記録でなければならない。となると、小説史もまたひとつの小説であるほかはない。小説の上に立つ言説は不可能なのである。

『ロビンソン・クルーソー』のような小説は、時間的、空間的な境界を侵犯する。もちろん、小説は現実の政治と切り結ぶ場で、すなわち、国境や階級や歴史といった境界を作り出す現場で、しばしば書かれてきた。しかも国民国家形成とほとんど平行して、このジャンルは発展してきた[*6]。デフォーが『ロビンソン・クルーソー』を書くに至った過程はその好例である。しかし、私たちが見てきたとおり、統治の論理を補強するかに思われた小説は、つねに裏切りの要素を内に秘めており、それはいずれ顕在化しないわけにはいかない。このような小説の特性をデフォーがどこまで意識していたかは分からない。デフォーがなぜ『ロビンソン・クルーソー』を書いたのかという私たちの問いは、宙吊りのまま残されねばならない。しかし、ほかでもないデフォーのような大英帝国の尖兵が『ロビンソン・クルーソー』を書いてしまったこと、このグロテスクな事実にこそ、小説の政治的可能性がある。

*6 もちろん、これは英国文学だけに限った話ではない。「明治国家が「近代国家」として確立されるのは、やっと明治二十年代に入ってからである。「近代国家」は、中心化による同質化としてはじめて成立する。むろんこれは体制の側から形成された。重要なのは、それと同じ時期に、いわば反体制の側から「主体」あるいは「内面」が形成されたことであり、それらの相互浸透がはじまったことである」(柄谷行人『日本近代文学の起源』)。柄谷によれば、このような状況を背景として、日本の近代小説は形を取るに至った。
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