2003.06.22 田口卓臣

ディドロ・ダランベール、『百科全書』の対抗運動〈3〉

対話、論争、闘争の空間

3.

 『百科全書』には様々な趣味を持った執筆者が集った。当然のことながら見解の相違、摩擦、軋轢が生じることになる。それが『百科全書』の限界とみなすこともできる。しかし、ディドロやダランベールが端からこの事態を予期していたことは銘記したい。というのも、彼らは、諸個人の見解の相違を例えば参照記号のネットワークを組織することによって強調し、奨励さえしたのだから。

 無論、必ずしも参照記号によって指示されている項目同士の間だけで意見対立が生まれたわけではない。例えば、ディドロの項目「政治的権威Autorité politique」、ブーシェ・ダルジの項目「自然権Droit naturel」、ジャン・ジャック・ルソーの項目「政治経済学Économie politique」など、執筆者自身が予期せぬ題目のもとに扱う同じ主題(政治社会の基礎に関する問題)というものがあった。そしてそれらの項目で示される見解は必ずしも一致していない。またひとつの項目を共同執筆する場合、矛盾しあった見解が連続して提起されているということもあった。例えば前出のブーシェ・ダルジの項目に不満を覚えたディドロは、同名の項目をもうひとつ、自分の手で書き上げてしまった。項目「死体Cadavre」では、トゥサン、ダランベール、ディドロたちが、順々に相容れない観点から解剖について論じている。項目「確実性Certitude」においては、プラド神父の展開した確率論(本文)を、ディドロが後書きを付す形で手厳しく批判している。彼は、別の独立した項目「賭けるJouer」の中で、賭けのゲームにおける確率の問題について綿密な考察を展開してもいる。以上のような意味で『百科全書』は対話的な書物である。無理矢理見解の相違を統合するのではなく、もっとも真実らしい意見が優位になるまでは徹底して様々な異なる考えを対峙させることを、ほとんど方法論的に選択しているのだ。そして特筆すべきは、こうした科学的真理の追究を怠らない一方で、前節でも触れたように、相互に矛盾しあった複数の言論が共存するという事態を積極的に認める「寛容」の精神が、編纂者・寄稿者たちの間に定着していたことなのである。

 さて前段では『百科全書』内部での「対話」について指摘した。だが『百科全書』が真にスキャンダラスなのは、その内部でなされた問題提起が、その外部をも巻き込んだ論争へと発展する点にある。フランスばかりかヨーロッパの諸国に凄まじい衝撃をもたらしたダランベールの項目「ジュネーヴGenève」は、その最高の一例だろう。『百科全書』第7巻に掲載されたこの項目の内容は、第一にジュネーヴの新教の牧師たちを理神論的な傾向を持つソッツィーニ的信条のゆえに称賛したこと、そして第二にジュネーヴにおける劇場設置の必要性を主張したことのために、物議をかもすことになった。

 まず第一の点に関しては、何よりもジュネーヴの牧師たち自身が発言の撤回を求める運動を引き起こした。モローが『続・カクアック人の歴史のための覚え書き』の中で、サン=シール修道院長が『カクアック人のための公共要理と良心問題の決定』の中で、それぞれダランベールや『百科全書』のことを激烈に論難した。こうした反応に閉口したダランベールは、編集者の任を降りると騒ぎ始める。他方、ディドロは必ずしもダランベールの見解に賛成していたわけではなかったが、世間の強い風当たりに対して終始丁寧な回答を示していた。

 また第二の点、つまりジュネーヴに劇場を設置せよというダランベールの提案については、「ジュネーヴ共和国の市民」を自称するルソーが『演劇に関するダランベール氏への手紙』を公表し、全面的な演劇否定の考え方に基づいて舌鋒鋭い批判を浴びせることになる(ルソー自身劇作品を書いているにも関わらず)。彼は、「ポリス=共同体」の中核に劇場という「表象=代表」の装置を配備する考え方を、断固として拒絶した。それは、いったい共同体を「代表」できる者など存在するのかという原理的な問いに支えられていた。

 ルソーはさらに、ダランベールに宛てたはずのその手紙の中で、無二の盟友であったディドロに対して永久的な絶縁を宣告する。その結果『百科全書』を支える主な知識人たちの間で、未曾有の決裂劇が出来することになる。後に『告白』の中で、ディドロを裏切り者と呼び、そしてヴォルテールを恐るべきスパイ工作の黒幕とみなして激しく非難するルソーだったが、ディドロはこの才能と知性溢れる盟友=宿敵の作品群に対して、生涯、最大の敬意を払い続けるだろう。例えば、同じ頃『私生児』や『一家の父』などの劇作品の公演を通じて新たな演劇ジャンル(市民劇)を創始していたディドロは、長い間劇作から退くことになるのであり、また、その長い沈黙の果てに執筆した対話篇『俳優に関する逆説』や劇作『この男は善人か悪人か?』は、ある意味で演劇全否定論者ルソーに対する彼なりのレスポンスにも見えるのである。

 さて、項目「ジュネーヴ」をきっかけとして巻き起こった『百科全書』の決裂劇に横合いから拍車をかけようとしていた者がいた。自分の書きたい項目を担当させてもらえぬことに不満を増長させていたヴォルテールである。彼は、論敵たちに対して終始穏やかに応対するディドロの態度を潔しとせず、『百科全書』の事業を放棄せよと絶叫し始める。彼は、アメとムチを巧みに使い分けながら、ほとんど感動的ですらある陰謀策士ぶりによって『百科全書』殲滅運動を展開する。彼がディドロに宛てた私信の中で『百科全書』の玉石混淆ぶりに触れた箇所を見てみよう。「あなたは、もっと上手に手伝ってもらってもよかったはずです。形而上学の二十の項目やとりわけ「魂」の項目が、あなたのナイーヴな心情と公正な精神を不快におとしいれるにちがいないやり口で、取り扱われています。私はひそかに信じて疑いませんが、「女性」「うぬぼれ男」などの項目や、原理も定義も教訓も含まない、いやというほど沢山の無駄な美辞麗句、幼稚極まりない文句、決まり切った文句などを、まさかあなたがこれ以上お許しになるはずはありません。」ヴォルテールはこうした皮肉をディドロへ投げつける一方で、別の人間を利用して裏で糸を引きながらディドロや『百科全書』を貶めようと画策する[*10]。彼は、ディドロやルソーを下劣なしかたで嘲笑悪罵する劇作品『哲学者たち』の著者パリソを、ひそかに支持していたのだ。パリソの作品は興行的に大成功をおさめ、ディドロ、ダランベール、ルソー、そして『百科全書』などに対する批判があちこちへと飛び火する。

 論争は、音楽関連の項目からも引き起こされた。それは、和音とメロディーのどちらが音楽にとってより重要かというテーマのものである。作曲家・音楽理論家のジャン・フィリップ・ラモーが、和音とそれを好んで使用する自作を含むフランス音楽を擁護したのに対して、自らオペラを作曲したり新しい楽譜の記譜法を発明したりしたルソーは、メロディーとそれを巧みに構成するイタリア音楽の側に立って反論した。この音楽をめぐる論争の文脈は、後にディドロの対話体小説『ラモーの甥』の中で改めて取り上げられる。そこでは登場人物「ラモーの甥」の口を借りる形で、作曲家ラモーへの批判が浴びせられることになる。ただし、そのラモーの甥の言説・身振りは、極めて自己疎外的な表現方法を採ったものであるため、単純に誰か特定の者に対する「批判」とみなすわけにはいかない要素が混入しているのだけれども。

 論争はさらに、単なる論争形態にとどまらず、より実存を賭けた闘争へと発展する。その闘争とは、必ずしもイデオロギー的な側面と結びついたわけではない。例えば、『百科全書』の協力者には聖職者もいたし、またプロテスタントやフリーメーソンが裏方的な働きをすることにもなったのだ。専ら名誉参加のモンテスキューやヴォルテールもやはりフリーメーソンだった。とりわけダランベールが編者の任から脱落した『百科全書』後期の編纂活動において、ディドロも顔負けのテクスト産出力を誇ったジョクール騎士はプロテスタントだった[*11]。こうした人物構成の面からも、異なる信仰に対して百科全書的哲学の示した寛容の精神が見て取れる。しかしディドロたちは、イエズス会、ジャンセニストに対しては、ある種の微妙な留保をつけながらも宣戦布告をしていた[*12]。そしてこの論争は同時に国家権力に対する対抗運動の様相をも呈することになる。具体的に見てみよう。

 イエズス会士ベルチエ神父が、主宰誌『トレヴー評論』の中で、『百科全書』の刊行を支持する当初の見解を覆して激しい批判を開始した。そこでディドロは彼自身の手による項目「技芸」や「美Beau」について、ベルチエ神父と公開論争を行うことを選択する。ここには、当時の知的ヘゲモニーをめぐるイエズス会と「哲学者たち」の争奪戦という意味合いがあった。というのも、イエズス会は18世紀初頭のフランスにおいて巨大な知的影響力を持ったインテリ集団だったからだ。この状況は、『百科全書』の協力者の中にも(マルモンテルなど)、文筆家としてデビューするにあたってイエズス会の中で知的素養を積んだ者がいた事実を見ても分かるだろう。イエズス会に入ることは、当時としては知的キャリアを積み上げていくいわばお決まりのコースだったのである。それゆえディドロの御膳立てした公開論争は、否応もなく公衆の註目を集めるところとなった。

 一方、宗教とは関係のない文脈で、抜群の教養を持った批評家フレロンが、彼の編集する雑誌『文芸年鑑』において『百科全書』を告発する。フレロンによれば、『百科全書』の図版や項目はアカデミーの図版の盗作・剽窃だと言うのだ。同様の批判は『メルキュール・ド・フランス』誌からもなされる。この種の批判に対して、ディドロの盟友フリードリッヒ・メルシオール・グリムは、その主宰誌『文芸通信』において反論の文章を掲載する[*13]。こうして幾つもの定期刊行物の中で論争が飛び火し、当然、『百科全書』の反権力主義的論調に対する当局の干渉が激化してくる。既に『盲人書簡』というスキャンダラスな(唯物論的な)作品を刊行したために一度投獄されていたディドロは、その後も常に官憲の目を恐れながら事業を押し進めなければならなくなる。

 こうした素地の上に二つのスキャンダルが引き起こされる。第一に、『百科全書』の協力者のひとりであるプラド神父の提出した神学の博士論文が、感覚論と自然宗教の称賛を主題としているとみなされた。パリ大司教クリストフ・ド・ボーモンは教書を配布し、プラド神父に迫害・追放の憂き目を見させることになる。しかも、ディドロがこの博士論文の中に反キリスト教的な主題を盛り込むよう協力したという噂が流れ、事態は一気に緊迫の度合いを増す。追い打ちをかけるようにイエズス会のジョフロワ神父の手による誹謗パンフレットがばらまかれ、その中でプラド神父の博士論文はダランベールの思想を発展させたものだという告発がなされる。プラド神父はとうとう亡命を余儀なくされるのだが、その後友人イヴォンと共に『プラド神父の弁明書』を公刊する。これに反応する形でディドロは、プラド神父や『百科全書』の「序論」(つまりダランベール)を擁護するために『プラド神父の弁明書の続編』を書いた。ひとつの批判が全く別の文脈からの批判を招き、それが次々と周囲に波及して、いつの間にか途轍もない複雑な闘争へと増殖してしまう、これは格好の一例である。

 第二のスキャンダルもやはりディドロの周辺で起こった。エルヴェシウスの著した『精神論』が公衆の間で物議をかもし、その中で語られている思想が百科全書派の理論の反映であると噂されるようになる。そしてプラド事件の時と同様に、『精神論』の中にはディドロの文章が挿入されているとほのめかされたのだ。これを受けてパリ高等法院は『精神論』と『百科全書』の発売を禁止した。さらにローマ教皇クレメンス十三世がこれらの著作の発売禁止を命令する。ついで高等法院は『精神論』を焼却し、高等法院に委任された審査委員会は『百科全書』の焼却を断行する。この間に、既に触れた項目「ジュネーヴ」をめぐる大論戦も巻き起こっていたのだ。

 『百科全書』の周囲では、このように幾つもの論争や闘争が複雑に絡み合うしかたで形成された。そしてそれらの全てが極度に高いテンションを持っていた。『百科全書』は論争という形を通して、つまり非暴力的に言説のみに頼るしかたで、権力を濫用する絶対王権や越権行為を繰り返す教会に対して対抗運動を組織したのである。

*10 ヴォルテールは後にプロイセンのフリードリッヒ国王のもとで、国家主導形式の辞典編纂プロジェクトを提案する。これは無論、国家への対抗を辞さなかった『百科全書』的ありようとは鋭く対立している。ともあれこの試みは成功しなかった。だが懲りないヴォルテールは、他人が呼びかけに応じないならひとりで実践してみせようとばかりに後年、『哲学辞典』なる膨大な著作を執筆し、その中で陰に陽に『百科全書』とディドロに対するイヤミを挿入する(例えばディドロとプラド神父の共同執筆項目「確実性」に対して、など)。

*11 ダランベールが「序論」や項目「考証学的博識Érudition」において考証学を哲学や文学の下に置いたのに対して、ジョクール騎士は「文芸Lettres」「文学Littérature」などの項目においてこの見解に反対した。

*12 当時、イエズス会はローマ・カトリックの手先であり、ジャンセニストは高等法院Parlementを牛耳っているという政治的背景があった。そして彼らに対するディドロの身振りには「微妙な」ところがあった。彼は、神学の権威主義者たるソルボンヌ(イエズス会)に対してはジャンセニストを擁護する側に立ち、ジャンセニスト(高等法院)に対しては王権を擁護する側に立っていた。しかし一方で彼は、モンテスキューに倣い、王権の増長を検閲する機構としての高等法院の存在を認めていたので、1771年に大法官モープーが国王の名のもとに行った高等法院の解体に対しては、専制君主政の極みとして鋭く批判した。

*13 『文芸通信』の読者は十数名と少なかった。しかしそれらは全てヨーロッパ各国の政治の中枢に位置する王侯貴族だった。ロシア皇帝であるエカテリーナ二世も読者の一人である。
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