2003.06.22 田口卓臣 | ||
ディドロ・ダランベール、『百科全書』の対抗運動〈4〉諸理論のたたき台 |
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4.
一つの項目の中で複数の著者が異なる見解を示すこと。別々の項目が参照記号で接合され、互いに相容れない考えの存在が示唆されること。『百科全書』自体とその外部との間で舌戦が斬り結ばれること。こうした論争の手続きを経ることで、項目「ジュネーヴ」に対するルソーの反応が典型的にそうであったように、自らの理論や思索をたたき上げていく者たちが出てくる。より正確な言い方をするならば、18世紀哲学は『百科全書』の出版をかわきりに、ジャーナリスティックな言説の場において理論的な仕事を行うという知的実践の地平をはじめて開いたのである[*14]。また、『百科全書』に直接的に関わらずとも、『百科全書』の周囲に引き寄せられるような文脈を持った論争というものがある。そしていずれにせよ、『百科全書』に自分の項目を投稿することを通して、あるいは他人の項目を批判的に読解することを通して、様々な書き手が自分の思想の原型を発見したり、深めたり、再把握したりしたのだ。それは無論、『百科全書』を激しく批判したイエズス会、ジャンセニストたちについても当てはまる。 例えばディドロは項目「農業Agriculture」の中で、効率よい農作物の育成のためには土地をいかに耕作するべきか(輪作の具体的手法)を論じるにあたって、穀物の収穫・販売・商業・輸送・管理については「穀物Grain」という項目を参照せよ、と指示している。当の項目「穀物」は、今ひとつの項目「小作人Fermier」とともに、重農主義経済理論の創始者フランソワ・ケネーの手によるものである。より正確に言えば、ケネーは『百科全書』に投稿することをきっかけとして後の重農主義経済学のプロトタイプを獲得することになったのだ。実際、1767年にデュポン・ド・ヌムールが『重農主義』の第一巻に掲載したケネーの『農業王国の経済的統治の一般的準則』は、その大部分が『百科全書』第7巻の項目「穀物」において既に萌芽状態にあったものなのである。そればかりか、後の著作に見られる党派精神に捕らわれていないという点で、この項目のほうが優れているという見方さえもあるほどだ。 経済に関しては無論、重農主義的な内容以外の項目も多数寄せられた。そしてそれらの項目もまた、著者の理論を育む土壌となった。サン・ランベールの項目「奢侈Luxe」は、後年の彼の著作『奢侈論』を先取りしていた。また、重商主義者フォルボネの著作『商業概説』の大部分は、『百科全書』に彼の投稿したテクストの中で、既に展開されていた内容だった。ケネーの項目や、時として重農主義に接近するテュルゴーの項目(「財団Fondation」その他)などが、重商主義的な主張を持った項目とともに同じ書物の空間内部で同居するという事態がここに出現する[*15]。農業、マニュファクチャー、純生産物、奢侈、人口、課税などに関する様々な見解と、それらの基盤である多様な理論が、混在することになったのだ。さらに言えば、ドレールが項目「針Aiguille」の中で行ったマニュファクチャー的分業に関する研究は、後にスコットランドの経済学者アダム・スミスによって、『国富論』の冒頭部分の分業に関する章の中で、発展させられている。
さて、ルイ十四世お付きの医者でもあったケネーは、商業経済一般に対して低い評価を下した。彼は、農作物の流通を自由にすることによって、一国内部での生産・再生産のサイクルを身分制的秩序(地主、小作人)にかなった形で組織できることを示そうとした。それは農地で収穫される小麦などの穀物の蓄積分量を「純利益」とみなす思想に基づいている。彼によればこの「純利益」の再生産と、その再生産の恒常的循環をこそ促進させるべきなのだ。国王も1760年代後半にケネーらの主張を採択し、フランス政治経済学の主流は重商主義から重農主義へと移行する。
『百科全書』と直接関わりがなくても、ある種の連関性を持った論争や事件というものがあった。「自由」に関する論争、そして今風に言えば冤罪事件と呼ばれうるカラス事件、などがそれにあたる。
1761年のカラス事件は、18世紀を超えて現代にいたるまでヴォルテールの名を不滅のものにした事件として記憶されている。フランスのトゥールーズで、ジャン・カラスというプロテスタントの男が、カトリック信者の息子マルク・アントワーヌを殺害したかどで逮捕された。死刑宣告が下されたジャン・カラスは、公開死刑の場でも「私は殺していない」と無実を主張し続けながら首をはねられた。この事件の一連の裁判過程に不審を抱いたヴォルテールが、フランスの法制度、および偏見と不寛容の精神によってその制度と癒着した宗教的悪弊に対して、徹底的にメスを入れることになる。カラス事件にとどまらず、1762年にはシルヴァン事件、1765年のラ・バール事件、1766年のラリー事件、1770年のモンバイイ事件など、事実を認定するうえでの訴訟手続きの根本的欠陥、カトリック的ヘゲモニーに毒された法廷裁判のありよう、拷問による自白を有効な証言としてみなすことの不適当さ、などなどの司法上の問題が次々と公衆に明るみにされていく(その全てにヴォルテールが関わっている)。ヴォルテールはカラス事件について、汎ヨーロッパ的な批判を喚起するために、宮廷内の有力者たちに向けて私信を書きまくり、遺されたカラス家の当事者に代わって書いた請願書や趣意書をパンフレット形式で公表したり、トゥルーズの高等法院に、訴訟記録の公開を激しく要求したりする(その執筆活動の一部が『寛容論』という記念碑的作品としてまとめられる)。ヴォルテールの手紙攻勢に扇動された世論の圧力で、とうとうトゥールーズ高等法院も白を切ることができなくなる。ヴォルテールは、死刑廃止論者の急先鋒だったイタリアのベッカリーアまで引き合いに出し、フランスの法制度のアナクロニスムを徹底的に洗い出した。ベッカリーアの『犯罪と刑罰』は必ずしもカラス事件の孕む原理的問題(つまり証言の「真実らしさ」、証人の「権威」)などと重なるわけではなかったが、世論を加熱させるためには手段を選ばないのがヴォルテールのやりかたである。結局数年の紆余曲折を経て、トゥルーズ高等法院はカラスの無罪を認めざるをえなくなった[*17]。『百科全書』第8巻に収められたディドロの項目「不寛容Intolérance」は、ヴォルテールのこの運動に対するささやかなレスポンスに見える。
最後に自然科学や医学関連の項目についても若干触れておこう。ディドロとダランベールは諸学問、諸技芸の中で発見された最新の情報を能うる限り収集しようとした。
5.
『百科全書』は諸学問、諸技術、諸工芸の知識を統合しようとする壮大な試みであった。その事業は同時に知識の統合不可能性を明晰に告知していた。むしろ統合することによっては見えてこない知識間のつながりこそが、その中で開示された。読者はこの書物の中を、時には参照記号のネットワークを追跡することによって、時には自分自身の欲望の赴くままに、読み進めていく自由が与えられている。つまり、意外性に富んだ知識の連関を発見するのは、読者自身なのである。 無論読者ばかりがその特権を与えられているわけではない。何より様々な立場の、様々な意見を持った書き手たちが一堂に会し、そこで対話を展開した。対話によって意見が一致を見るというよりは、むしろ激しい論争に発展することもしばしばだったし、論争はさらに国家の権力濫用や教会の越権に対する闘争の形を取ることにさえなった。しかし曲がりなりにも刊行事業が終了したのは、多くの人間の協力があったこと、そして何より公衆の興味をかきたてるような試みをディドロやダランベールが行ったことなどが原因しているだろう。その試みとは、ジャーナリスティックな言説空間において理論的・学問的な議論を展開したことである。このように、当時の物書き達が国家や教会などの強大な権威に頼らずに自らの手で事業を興したという事実、そしてそれが公衆から支持されたという事実は重要である。そんな事業はそれ以前には存在しなかったからだ。 百科全書的哲学は、宗教戦争後のヨーロッパに蔓延した理論的独断主義を拒絶した。それは、世俗化された主権国家のもとで、実践的な寛容の精神を出発点として、旧来の身分秩序から諸個人を解放することを目指し、そしてそのことによって新しい社会的関係の創出を模索した。その意味で『百科全書』の開いた地平は、19世紀的なブルジョワ社会と国民国家の共存へとつながっているとも言える。だが18世紀の「哲学者たち」は、彼ら自身の直面した歴史的限定を超えようとするその企て・身振りにおいて、はるか18世紀を超え、現在を生きる私たちに新たな試みの「反復」をよびかけているのだ。
*14 ジャーナリスムと理論的な仕事の接合という事態には、当然、書物の商業の自由という視点が欠かせない。この文脈の一環として1765年、時の警視総監サルチーヌに宛てた出版業に関する論文がディドロの手から産み出されることになる。なお、反近代主義=古代共和制回帰論の立場から、学芸や言論の自由に対して批判的だったルソーが、『新エロイーズ』を初めとした大ベストセラー作家となってしまう自己矛盾ぶりは興味深い。なぜなら、そうした絶対的自己矛盾の極点として、後の近代的な告白体小説の先駆ともなる『告白』が誕生したからである。
*15 テュルゴーと重農主義の関係は微妙である。確かに彼は、政治家として敢えて重農主義の主張に乗っかることがある。しかし、第一に、重農主義者たちが正当化しようとする「専制君主政」を批判する点で、第二に、商業に肯定的な評価を与える点で、明らかに立場を異にしている。 *16 『訓令に関する所見』は、18世紀的な対話・論争の跡を驚嘆すべき形で遺している。これはエカテリーナ二世が、モンテスキューの『法の精神』における法社会学的考察の賭金(つまり専制批判、および諸国・諸地方の特殊的政治状況に関する分析)を改竄する形で、そしてまたベッカリーアの『犯罪と刑罰』を借用する形で執筆した『訓令』に対する批判的コメンタリーの体裁を執っている。無論モンテスキューやベッカリーアの思想を心得ているディドロは、『訓令』の背後に控えているこの二大思想家との対話を試みる。他方、この『訓令』に関してはル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエールの思想に感化されたル・トローヌが、『訓令の精神』という現在では手書き原稿しか残っていない長い著作をものしていた。そしてディドロはこの著作をも読んでいた。要するに『訓令に関する所見』は、ル・トローヌと、その背後にいるル・メルシエに対する批判的コメンタリーともなっているのだ。実のところ、この最後の点が明らかになったのはごく最近のことであり、それまでは長い間ディドロが誰のテクストを引用しているのか謎のままだった。しかし1980年代になって、現在のディドロ全集(エルマン社)の責任者でもあるジョルジュ・デュラック氏が、ル・トローヌの手書き原稿を発見し、ディドロの引用の不分明な部分を逐一その原稿の中から析出してみせるという実証作業を行い、その結果『訓令に関する所見』にまつわる複雑なインターテクスチュアリティーが明るみにされたのである。まとめれば『訓令に関する所見』は、第一義的にはエカテリーナの『訓令』、そしてそれに対するコメンタリーとしてのル・トローヌ『訓令の精神』の両者に向けたコメンタリーであり、より根源的にはモンテスキューの『法の精神』およびル・メルシエの『政治社会の自然的・根本的秩序』との対話の書なのである。 ケネーその他の18世紀フランス政治経済思想に関しては、木崎喜代治の次の書物と研究論文を参照。『フランス政治経済学の生成』未来社、1976年。および「ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエールにおける国家と租税」専修経済学論文集、第7巻第1号、1972年2月。 *17 ここに記した諸々の事件に関しては、法制史的な背景、当時の思想状況にまで踏み込んだ詳細な研究がある。石井三記『18世紀の法と正義』名古屋大学出版会、1999年。 |
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