2005.11.29 岡崎乾二郎

現代における劇場の可能性
──インタビュー〈4〉

4.

現在の大阪・仮設劇場

── 確かに演劇のみの一点を使って全面展開して戦うという戦法はもはや無理でしょう。それはどの芸術ジャンルにおいても、それのみで正面から突破することは難しい。そうなるとやはりマスに寄生しながらやるしかないのではないしょうか。

【岡崎】 そう、行政が駄目な所は市の真ん中に空虚なハコものとして文化センターなんかを作って、ますます空洞化を押し進めてしまう。ところが芸能の力はどんな周縁、僻地ですら、センターにしてしまうところにあるわけです。だからその芸能が持つ場所を転移する力を、逆説的に固定してしまうような建物はいらないわけ。お笑いでも、狂言でも、大体戦地でやっていたわけね。平和活動。演劇には戦争を抑止する力すら多少は在るかもしれない。まあせっかく新国立とか立派なハコがあるから、あえて言えば、そこで行う芝居よりも、そこに行く観客の中にいる変な奴ひとりの方が演劇的可能性を持つということですね。(笑)

── そうすると仮設劇場にしても何かに寄生するように至るところに建てることはできる。

【岡崎】 その意味でいえば、この仮設劇場のプランもキャンプそのものになる可能性はあるでしょう。海水浴場にもっていって巨大な着替え室にするとか。更衣室というかシャワールームにする(笑)とか、むしろ劇場として使わない。人の集まる場所に意図的にこの装置自体をその場に即した役に偽装して入り込ませる。

── シャワールームとして海水浴場に寄生しつつ観客を奪う(笑)。

【岡崎】 空間を仕切る単純な仕組みだから、もっと小さい装置でもできるかもしれないし、円形である必要もない。つまるところカーテンでしょう。カーテンで空間を仕切る。それが劇場だというならば劇場かもしれない。ブルガリア出身のクリストの梱包作品は演劇的発想─異化からきていますが、この案も似ている。警察が街角でけんかをしている人を仕切るとかね。それで入場料をとる(笑)。それだけで演劇になるとはいえませんが、何かを対象として切り取る、切り離す、プリミティブな形ですが場を仕切る装置の基本は押さえていますね。

── ただ、これが倉庫の中で、周りに誰もいない場で作られるタイプであるとはいえないでしょう。それだったらその他の劇場と大差ない。

【岡崎】 まあ、それだったら、今風の建築ではやりの透明なシャワーカーテンみたいな緞帳一つをデザインしたってことで、あえてコンぺをしたことの意味が疑われますね。
  建築の話に戻ると、いままで述べてきたように、演劇の力というのは、既存の空間が離反し新たな場を作り出すことにある。たとえば、シャーマンが何らかの動作をする、イエスが話を始める、それだけで、人々はいっせいに身を引き、そこに新たな空間が生まれるわけです。そこに演劇、もしくは芸能の力はある。その意味で演劇に対して建築は後から発生してくる。建築はたかだか芸能で開かれた場所を固定するだけです。あるいは屋根をかけるだけ。それでも建築が劇場を作るのだとすれば、建築それ自体が芸能者として場を開く力を持たなければならない。「なにごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさになみだこぼるる」と西行が書いた伊勢神宮でも、ピラミッドでもパルテノンでも。要するに人間がいなくても建築が、既存の場とは離反した演劇的場を作るということでしょう。
  けれど岩戸に隠れたアマテラスをアメノウズメの踊り連れ出したことは、建築的な場所にこもって何もしなくても権力を保持できる神に対して、演劇の力の方が最後には勝つということを示してるんだけどね。最終的にはやはり建築ではない。劇場建築が必要というのは、芸能の力が弱っているから、そういう仕掛けに頼ろうとしていることになる。ハコが必要なのも、カバーのような皮膜が必要なのも演劇の力が弱いから保護するためでしょう。
  そういう意味で小劇場を活性化させるための仕掛けとして何が有効か、その答えは既に出ている。キャンプつまりテントです(笑)。行政が演劇用の大きなテントをたくさん買って無料で貸し出せばいい。行政が援助するのはそれでいいんじゃないですか。一千万あったらテントがいくつも、最低でも立派なテントが5つは買えるでしょう。行政が場所を持たない公共劇場とかいって貸し出して、高速道路の下でも、駅前の空き地でも神社でも街のいたる所でテントを張って芝居をやったらいい。相当な評判をとりますよ、大阪はやはりすごいと。シャワーカーテンじゃすぐ廃れるね。

── その発想はまさに灯台下暮らしですね。今日は本当にありがとうございました。

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