3.
「 E.A.T.── Experiments in Art and Technology という名称は、税金対策のために組織を非営利団体として登録するときに、弁護士が役所に通りやすいよう適当につけた名前で、それ以外に深い意味はない」。ビリーはそう語る。「特にExperimentsという言葉はメンバーの誰もが気にいっていなかった」。実験的、という言葉はエンジニアにとってもアーティストにとっても決して褒め言葉ではない。作品が未完成であることを弁解する方便にすら聞こえる(まさに弁護士は、常識的には到底理解されえない制作物を社会的に公認させる方便としてこの名をつけたのである)。「アーティストは決して実験をしない。作品はつねに確定されたものとして、そこにある」。ティンゲリーが決定したように、あるいはジョン・ケージ、デュシャンがいつも厳格にそうしてきたように。
まして「E.A.T.の実験は何を残したと思いますか」[*2]という質問は二重にナンセンスである。ビリー・クルーヴァーを知っている人間ならば、あるいはE.A.T.の活動を知っている者ならば、彼がなんと答えるかはすぐさま予想できる、彼はきっぱりこう答えるはずだ。「NOTHING」。
そもそもE.A.T.の活動で、何が起こるかわからない、という理由で作品が作られたことは一度もなかった(多ジャンルの表現を並列、遭遇させれば何かが起こるだろう、という甘えた幻想に支えられたコラボレーションと呼ばれるものほどE.A.T.の活動と遠いものはない)。
たとえばジョン・ケージの行った作曲の核心は、予期できない出来事の「予期しがたさ」をそのまま保持したまま、それをコントロールすること、つまりは偶然を必然として固定することなしに、その不確定さを不確定なまま確定することという難題だった。ビリー・クルーヴァーがジョン・ケージ、ラウシェンバーグ、ティンゲリーとの協同作業で受け持ったのは、まさにこの不確定性を技術としてコントロールすること、偶然のプログラミングの確立だった。たとえば中谷芙二子の霧の彫刻でもっとも驚くべき点は、美術史的にイメージとして確定できないものの代名詞ですらあった雲、霧といった気象の不確定な変化を、詳細にコントロールする方法を開発してしまった点にあった(空気中の温度の微妙な分布をセンチメートル単位の高低差の精密さで調整するなど、湿度、空気の流れなど、あらゆる微細なパラメータがプログラミングされる)。
4.
「E.A.T.の実験が何を残したか?」という質問への答えが「NOTHING」でしかありえないもう一つの理由は、いうまでもなくE.A.T.の活動が過去形ではなく、現在も継続中であることにある。
今回来日したビリーは日本で会った若い芸術家たちに「困ったことがあればすぐ電話しなさい」とE.A.T.事務所の名刺をにこにこしながら渡していたが、そうした直接的なエピソードを介さずとも、継続中であることの意味はE.A.T.の活動の特性を理解すれば容易に了解できる。そもそもE.A.T.はシュルレアリズムやダダのように時間と場所、担い手である主体が特定される、つまりは特定の芸術的なイデオロギー、傾向に基づいた芸術運動ではまったくなかった。
一九六六年に発足したE.A.T.は同じ志向を共有する芸術家たちの集まりではなく、まずは異なる組織(大学や企業、研究所)に属す科学者やエンジニアが、それぞれ組織を離れた個人というステータスで形成されたネットワークであることに最大の特徴があった。あとは全米のみならず世界中の技術的問題を抱えたアーティスト(いかなる傾向、メディアに関わる芸術家であれ、問わない)が、このE.A.T.のネットワークにアクセスし、技術的な相談を投げかけさえすれば、その解決策を持つ、もっとも適切、優秀なエンジニアがネットワークの中から探し出され応答してくれるという次第である。
E.A.T.は、問いと答え、アーティストとエンジニアを一体一に結びつける仕組みであって、極端にいえば電話一本、事務所の一つもあれば、それ以外の何ものもハードは必要ないというのがビリーのコンセプトだった。
「カメラを越える複雑な機材はよほど必要でない限り、買ってはいけない」(『ビリーのグッド・アドヴァイス』)
E.A.T.が持続できたのは、いかなる設備投資も大掛かりな研究所の設置も行わなかったことにある。ビリーはいう「設備を整備することは、こういう組織にとっては自己破壊的な要因にしかならない」。
問題を解くのはソフトであってハードではない。しかし才能を持つエンジニアとアーティストを結びつける機会の開発についてはあらゆる方法を試している。そもそも問題はアーティストではなく、エンジニアの参加者をいかに増やすかにあった。電子工学年次学会には毎回専用ブースをだし、エンジニアの勧誘を行なった。
個人を勧誘したのちに(才能ある個人のネットワークを作ったあとに)、企業、組織の協力を求めるという道筋がE.A.T.の方法だった。なぜならばエンジニアの能力、寿命は組織のそれよりも長い。日本のここ十年の状況が教えてくれるように、組織はすぐ崩壊するのだ。
ビリー自身,ベル研究所の主要スタッフであったが、ベル研究所が全面的な援助をするのは、一九六〇年のティンゲリーの作品が大きな話題になった後である(だが、すでにティンゲリーの作品はビリーに勧誘されたベル研究所の沢山のスタッフが、ビリーとともにヴォランティアで手伝っていたのである)。
最盛時には二千人以上の会員が集まったエンジニアたちにE.A.T.が与えたのは文字通りアフター・ファイヴの仕事、out of work──ルーティン化した研究、組織内論理からは到底得られない別の回路の可能性である。エンジニアたちはクルーヴァーによって役にも立たず、お金にも結びつかない仕事にリクルートされたことになるが、組織の外に拡がるネットワークへの参加は、結局のところ、組織を超えてサヴァイヴァルしていく自律したエンジニアとしての能力を獲得させることになった。
5.
アーティストがE.A.T.に電話をかけてくる。必ずビリーが質問するのは以下の質問である。ビリーは彼らがどんな作品を作ってきたか、どういう傾向の作家かなどということにはいっさい関心を持たない。
(1) 作りたい作品はどれくらいの大きさか?
(2) どれくらいの観客に見せようとしているのか?
(3) 展示は屋外か屋内か?
この質問に答えられないアーティストは、アーティストとはみなされない。ただ夢を見ているだけだ。反対にこれらの基本的な質問に答えられるなら、そのアーティストは、そのアイデアを現実的なものとして考えている証拠である。すでに述べたようにE.A.T.がアーティストに期待している役割は、テクノロジーに新たな輪郭を与えることだった。誰も思い浮かばなかったような、魅力的な課題─枠組みをテクノロジーに与えてくれる存在。ルーティン化されたエンジニアの感覚には、現実離れし馬鹿げた夢想にしか思えないアイデアさえも、現実的な大きさとスケールを持ったものとしてリアルに感じることのできる力、アーティストに求められるのはその能力であり、むしろエンジニア以上に現実的でありつづけることである。
問題がこうして的確に把握されていれば、たった五分で答えはでる。「不可能なものは何もない」。テクノロジーというのは原理的にいって、問題が的確に与えられれば必ず答えを出すものなのだ。繰り返せばテクノロジーの欠点は自ら問題を創出し、自分の形態を決定できないことにある。ゆえにアーティストの存在が要請される。
*2 ICCでのシンポジウム「E.A.T.が残したもの」(二〇〇三年四月一三日)で発せられた質問。
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