2003.11.11 岡崎乾二郎

to be continued ── ビリー・クルーヴァーとE.A.T.〈1〉

初出:InterCommunication No.46(Autumn 2003)
1.

カリスマがカリスマであるのは、彼の目指す目標が何であるのか、誰もはっきり知らないにもかかわらず、当のカリスマがそれを一分の曖昧さもなく、はっきり確実に把握していると、その周囲の人間みなが理解しているゆえにである。カリスマはつねに合理的、論理的にしか行動しないし、発言しない。それがそう見えないのは彼が従う規範が見えないだけである。
ゆえに問題は、彼をカリスマと認知しえない人間たちに囲まれたときに、発生する。彼らは自分の思考を拘束しているものが何であるかを自覚せずに、その無意識的な枠組をカリスマにぶつけようとする。カリスマは答える。「ちがう、ちがう、ちがう、ちがう」。しかし質問した人間はいったい何が否定されたのかがわからない。なぜなら、彼は自分が発した質問に含まれた意味をそもそも知らないのだから。
科学者の世界にカリスマと呼ばれるほかない人間が存在してしまうのは、ある意味で不幸なことである。個人の人格に帰せられる科学というものがありうるはずがない。しかし合理的であることを誇る科学と呼ばれるものそれ自体が、その合理の根幹である最終目標を世俗的な枠によって決定されていたのだったとすれば、どうだろうか。当然、なお合理的であろうとすれば、科学者あるいはエンジニアはその合理を決定する基準の可変性を自覚しなければならないことになるが、一方で、例えば合目的的であることを本質とするテクノロジーが、その目的を可変的だと措定することは、ほとんど、その合目的性の放棄のように受け取られかねない。言い換えれば、ここでなお、科学そしてエンジニアが合理的(かつ合目的的)であろうとするのなら、それを律するはずの根本原理、最終目的を(従来のそれに依存することなく)、そのつど自己決定しなければならないということになる。科学者にとって、このように理論枠が可変的であるという意識は、そのまま、如何に一つの理論枠を選択するかという問題に置き換えられる。

「エンジニアや科学者は、テクノロジーは一つの方向しか進めないのではないこと、その方向は絶えず変えられるし、あらゆる方向に向かっていけることを知っていなければならないのです」(ビリー・クルーヴァー、「E.A.T.──芸術と科学の実験」展カタログ)

ここで方向を変えるのは誰であるのか。あるいはその方向を決定するのは誰であるのか。その職業的本性においてエンジニアが、それを自己決定することはありえない。エンジニアは与えられた目標に正確に狙いを合わせ、与えられた諸条件をもっとも効率的、合理的に組織し、問題を解決することこそを仕事の本質とする(自分の都合で目的を変換することなどは許されない)のだから。そこに個性に基づいた決定の入る余地はない。

2.

E.A.T.を率いてきたビリー・クルーヴァーが科学者として正真正銘のカリスマであるのは確かだとしても(マンハッタンのギャラリーに彼の姿が現われれば、周囲の空気は一瞬で変わる。あるいは映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のマッド・サイエンティスト、ドクのモデルはビリー・クルーヴァーだとされる──カリスマ性においてはビリー・クルーヴァーの方がはるかに上だが。ビリーは言う「こんなふうに有名になるなんて思いもよらなかったよ」)、にもかかわらず、彼ほど芸術家の立場を敬い、その必要性を重んじる人間はいない。なぜなら、芸術だけが、その存在理由を自己決定する力を持っていると、彼が考えているからだ。彼は若いアーティストにこう教え諭す。

「芸術家は決して、面白さだけで絵を描いたり、文章を書いたりしない」(『ビリーのグッド・アドヴァイス』[*1]

ノーベル賞を狙えるほどの優秀な科学者(そしてエンジニア)としてスウェーデンからアメリカに渡ったビリー・クルーヴァーは、のちにE.A.T.の活動へとつながる芸術家との協同作業をはじめた理由を質問されて、「いいかい、その当時のアメリカではね、エンジニアというものはね退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈だったんだよ」、と退屈を六回も繰り返し答える。
一九二七年にモナコに生まれ、スウェーデン王立工科大学で電子工学を専攻し、また、その学生時代にスウェーデン映画協会連盟を設立(二千名の会員を集めた)、自身の研究を自分自身で『電磁場の中の電子の動き』という精度の高い科学映画にまとめていたビリーにとって、最新の科学はもはや電子の動きそのもの、あるいは映画が生み出す時間そのもののように非線形的で不確定的に揺れ動くものであるはずだった。にもかかわらず、現状において、科学が一方向的に統御されてしまっていたのだとすれば、それは公的な計画つまりは政治と呼ばれる世俗的な都合が支配する管理統制の結果以外の何ものでもなかった。けれどコペンハーゲン解釈(量子力学の)を政治家や官僚が理解し取り入れるなどということは、土台ありえない話だった。
一九五四年、二十六才のときにアメリカに移住。アメリカ映画そして文化を愛していたビリーは、当初ラジオ局あるいはベル研究所への就職を考えていたというが、時まさにピークだったマッカーシズムに巻き込まれることを忌避し、バークレーでPh.D.の取得に専念する(二年七ヶ月の短期間でPh.D.を取得)。アメリカの文化状況はビリーを絶望させるに充分だった。特にエンジニア、科学者の置かれている位置は退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈。ただただ政治的な利用価値、実用性の支配だけがあった。
こうして一九六〇年に、ティンゲリー(一九五三年、渡米前に立ち寄ったパリで出会っていた)によるMoMA(ニューヨーク近代美術館)中庭での大掛かりな展示作品制作を手伝って欲しいという相談がおとずれたとき、すでにビリーにとって、のちにE.A.T.の活動へと継続していく芸術家との協同作業に飛び込む体勢はほとんど整っていた。
《ニューヨークへのオマージュ》というタイトルで知られているこの伝説的な作品は二十七分間のお披露目パフォーマンスの後、プログラムされた通り崩壊し炎上した。ティンゲリーはジャンクの機械を組み立て、不思議な運動を構築するのには驚くべき能力を発揮したが、この作品を崩壊させる仕掛けを考え出すにはほとんど無力であった。ビリーが受け持ったのはジャンクを集める際の同乗運転手としての役とともに、この崩壊するプロセスの設計を受け持った。アーティストであるティンゲリーが構築を行ない、崩壊をプログラムしたのがエンジニアであるビリーだったというのは、極めて示唆的である。スイッチを入れた二十七分の間に、ビリーの設定したいくつかの装置は作動せず、作品に近づき修理しようとしたビリーを、ティンゲリーは「触るな」と止めたという。
ビリーの回想によれば、ビリーはここで出来事というものの本質を学ぶ。すなわちエンジニアは通常の仕事では完全性(つまりは目的に確実に到達すること)が求められるが、芸術作品では上演が優先される。つまり必ず時間というリミットがあり、たとえば締切が来れば、不完全であれ上演しなければならない。空間、時間に展示するというリミットがある限り、必ず不完全性つまり予期しがたき事態は発生する。この予期しがたき出来事の不確定性をいかに受け入れるか。結局のところエンジニアや科学者に試されるのは、その不確定性を許容し納めることのできる認識のフレーム、技術的な度量である。ビリーにとってアーティストとはそのリミット、つまり「芸術作品がどこから始まり、どこで終わるのか」、その枠を決定する者のことをいう。

*1 Billy's Good Advice 二〇〇一年に自費出版されたビリー・クルーヴァーの箴言を集めた小冊子。ビリーのユーモアと哲学のエッセンスが詰まっている。「可能なかぎりの本やテープ、最大の情報がある環境の中で暮らせ」などという言葉に混じって、中には「恋に落ちるな」などという言葉もある。この言葉について質問すると、「エンジニア自身は大丈夫だけれども、必ず問題となるのは彼の奥さんや恋人なんだ、彼女たちは自分たちのことを芸術家だと思っているからね」といういささか問題含みの発言が帰ってきた。
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