2003.12.16 岡崎乾二郎 | ||
to be continued ── ビリー・クルーヴァーとE.A.T.〈3〉 |
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6.
「混乱を創り出せ。それが助けになる」(『ビリーのグッド・アドヴァイス』)
ワイリー・サイファーは『文学とテクノロジー』で、一九世紀以降の芸術と科学およびテクノロジーの関係について、以下のような分析を行っている。
一九六八年に書かれたサイファーの記述は、そのまま同時代のE.A.T.の本質を説明しているといっていいだろう。言い換えれば、E.A.T.の活動の本質も揺れ動く偶有的な出来事の発生をそのまま創発的なシステムとして補足する、その方法の探究だった。 「今日の科学者は普遍的法則に気を払うよりも事物が全面的に偶有性の中にある、あリ方を研究することに没頭している。新しい科学は科学者が何を行なったかという行為の集計──中世の教会を建築した無名の職人のように、個性を抹消したチームワークによる活動として捉えられるほかない──として説明されるのである」(サイファー、同上) 「エンジニアとは彼ら自身が芸術作品の素材なのだ」というビリー・クルーヴァーの言葉に示されているように、E.A.T.の活動でも、もっとも創造的な位置を与えられていたのは、物体としての作品というよりは、おそらく人と人の具体的な連携を含んだ作業プロセスそのものの創出であったはずである。「アウトサイド・アート」と名づけられた一連のプロジェクト──通信衛星を使ったインドの農村での双方向的教育プログラム(一九六九)やファクシミリを使った「ユートピアとヴィジョン」(一九七一)等々──でのエンジニアの関心はエンジニアとアーティストそして一般参加者が形成する行動の連鎖そのものにある。ここで作品の素材は個々の参加者の身体と行為すべてであり、そのシステムはそれ自身を要素として含む全体である。偶発的な連鎖が創造的な過程を生み出す。さらにその過程自体をデザインすること[*4]。 7.
E.A.T.の活動は、当然のように、政治的なアクティヴィティと近接する場面も多かった。実際たとえばオイヴィント・ファールシュトレーム(今回の展覧会で上演された最も貴重な映像の一つはビリーと同じスウェーデン出身の、この天才アーティストによる伝説的なパフォーマンス《キスはワインより甘し》だった)やハンス・ハーケという、作品の政治性で知られた多くのアーティストが深くE.A.T.に関わってきている。しかしビリー自身は表向き、ほとんど政治的な表明をしていない。E.A.T.の活動がその本質において、オルタナティヴな社会システムそのものの創出に他ならなかったとしても、彼にとっては、それは政治の問題(政治に対して、ビリーは一言「くだらない」と言う)ではなく、科学が直面していた認識論上の問題、そしてエンジニアたちが日々突き当たる方法的な問題から自動的に引き出されたプロジェクト以外の何ものでもなかった。でなければエンジニアそして科学者であるビリーが真剣に取り組む価値はない。いいかえれば政治は外にあるのではなく、科学やエンジニアリングの中に(そしてどこにでも)内在しているのである。 「必然的なものと同じように偶有的なもの、偶然的なものが持つ現実性を認めることは、先端的なテクノロジーそしてエンジニアリングにも影響を及ぼしてきた。エンジニアは偶然性を開発し、またあらかじめ考えられた管理統制から、ものの配置や編成を解き放すことを学ばなければいけないと言われている。新しいエンジニアリングにおいて、もはや『概念は必ずしも発見に先行せず、事実、しばしば発見を前もって排除するもの』になっている。もしテクノロジーが既知の目的への出来うる限り効率的に管理された道具であることをやめ、偶然的なものを偶然的なものへ適応させ、それ自体、新たな発見を行なうための乗り物へと変身すれば、おのずと職人的な精神とそして芸術が愛するような偶然へと開かれていくだろう」(サイファー、同上) 「テクノロジーを人間に着地させるもの、それが芸術だ」とビリーは断言する。ここで言われている人間が、もちろん量子力学を通して初めて確認されるような、極めて不可思議な振る舞いをする人間の群であることは間違いない。直線的な論理では決して捕捉しえない不確定さをつなぎとめることができるのは、もはや(相変わらず)人間という形象─集合概念だけなのである。 「恐れるならば、何も始まらぬ」。 「終わったことは忘れられる。終わってないことは思い出される。何かが終わるとき、それはもう存在していない」(『ビリーのグッド・アドヴァイス』)
(本文中のビリー・クルーヴァーの言葉は筆者との会話のほか、以下のインタビューなどに基づいている。
*3 Syper, Wylie. Litterature and technology; thealien vision, New Yorkm Random House, 1968.
*4 ビリー・クルーヴァーの、人間関係のいわば量子論的な運動性に関する関心は、徹底的に資料を精査して一九二〇年代のパリの文化を浮かび上がらせた『キキのパリ』(ジュリー・マーティンと共編、邦訳『キキの裸の回想』北代美和子訳、白水社、二〇〇〇)、一枚の写真の詳細な分析からそれが撮られた時と場所、人間関係まで特定していく『ピカソと過ごしたある日の午後』(北代美和子訳、白水社、一九九九)という歴史家としての仕事にも一貫していると言えるかもしれない。 |
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