2005.11.29 岡崎乾二郎

現代における劇場の可能性
──インタビュー〈3〉

3.

劇場の第四項

── 従来の二項対立的な関係以外にも第三項としての〈キャンプ〉というのが60年代を含めて、劇場を考える際に重要なポイントとなるのはわかりました。組織されずにただそこにあるというのがキャンプ型の観客ならば、具体的にいまの劇場を取り巻く現状を考えると、都市の中のあらゆる場にいて、あらゆるものに無関心の人たち、彼らのほとんどはキャンプしていることになるのではないでしょうか。それをどうやっていまの演劇の関係に持ち込むかというのが戦略として必要になると思うのですが。

【岡崎】 いや、現実の人たちはもっと情緒的なものに依存しているでしょう。キャンプでいう無関心ほど徹底したものではない。あるいは、ここで第四項というものが考えられるかもしれない。たとえば携帯電話なんかはキャンプの対概念の第四項に関わってくるかもしれない。第四項というのはたぶん電波系(笑)。携帯はその場所の中においては、一種の疎外を引き起こします。たとえば、電車の中で携帯を使うと他の人に迷惑だといわれる。しかし、論理的に考えたら、話すこと自体はそれほど迷惑ではない。ほかの人はみんな話している(笑)のに、なぜ携帯電話で話すのは駄目なのか。ペースメーカーに影響があるとか色々いわれますが、本当は話すこと自体が迷惑なのではない。確かに演劇や映画を見ているときに携帯電話を使っている人を見たら迷惑でしょう。ただ、電車や喫茶店の中とは状況が明らかに違うはずです。それでも迷惑だといわれるのは、逆説的に電車の中と喫茶店の中が劇場と同じように一つの場として組織されているからだということになる。みんなが同じ場を共有しているのに、別の場を持ち込むから不快になる。その場の統一性を崩すな、という規制が働く。携帯とは一方で場所に対してキャンプとして現れてはいるけれど、携帯を使っている人がキャンプしているかといえばそうではなく、本人は携帯によって何かと繋がって、一つの場所を組織しようとしている。だから携帯電話は組織としてみると、中心性を持っていてプロセニアム型なんですね。携帯電話にはこういう矛盾が含まれている。そうすると現状というのは、むしろ携帯電話的な劇場性が全面化していて、旧来の美術館も劇場も学校の教室もひとつの場を組織する力を失墜しているという状況なのかもしれない。授業しているとよくわかる。葬式や結婚式さえ、携帯に破壊されているからね(笑)。

── ではいまからの劇場の可能性、つまり、場と観客の関係の可能性を考えるとしたらやはり第三項としてのキャンプにあるということですね。

【岡崎】 とりあえず再考の余地はあるということでしょう。60年代の演劇や芸術を、場を取り戻せというそれだけで考える人が多い。本当は場を切断する技術こそが整備されるべきだった。熱狂型は村祭りと変わりはないから。しかし第四項の携帯にも、携帯の使い方をキャンプ的に使うということが含まれるから可能性は多いにある。たとえば携帯にはカメラがついているでしょう。誰もが瞬間的にその場で起こったアクシデント(陰謀に巻き込まれそうになっても)を、その場の外へ電送できるわけですね。

── いまの大阪の小劇場の現状に関しても同じことが言えると思います。小劇場の中心として活動していた劇場が閉鎖されたとき、劇場を取り戻せという。そして劇場は色々とできました。もちろんいま劇場を取り巻く状況は過渡期ともいえるので、どのような変化を起していくのかは未知数ですが、本当に考えなくてはいけないのは、場が形成される方法についてであったはずです。そもそも熱狂などなかったのに、劇場を取り戻すと熱狂が帰ってくるかのように多くの人が錯覚している。そこで可能性を見出せる手段として、いま話されたキャンプを実践としてどのように作ることができるのか、それが重要になると思うのですが。

【岡崎】 たとえば、優れた芸能者がどこかの災害地にいったとして、それだけでその空間が変わることがある。これは演劇の力、もっといえばフィクションの力です。美術でも芸術でも同じです。演劇の生成というのは、単純にいえば既存の場を解体すること+新たな場を再構築することがセットになって行わなければいけない。単に熱狂と熱狂でないことがあるのではない。皆のエネルギーを束ねればいいというものではない。ともかくまず切断があり、そして再構築がある。後者だけを見ていてはいけない。携帯、インターネット、ケーブルテレビと膨大なチャンネル数を持つメディアがあり、演劇という場を使わなくても人々の欲望は無数の線ではるかに強度に連続されている。演劇空間ははっきりいって携帯電話に負けている。演劇を見ている最中に携帯で音を出さずにテレビを見ている人がいる。もしくは劇場でメールを見ていても気にしなかったらいいだけのことです。しかし禁止するのは劇場の場の力よりも携帯の方が強く、劇場を破壊するからです。
 シチュアシオニスト・インターナショナルのドゥボールが批判した『スペクタクルの社会』は、全てがスペクタクルになっているということですが、主要なスペクタクルの装置は変わっていく。携帯電話がその一つです。けれど、重要なのは、既存のスペクタルを構成する様々なメディア間の配置が一元的に制御されず、相互に対立し抗争状態にあるということですね。テレビ局とインターネットの抗争もそのひとつ。テレビと新聞の抗争もそうです。だから、たとえば携帯電話を善用すれば、戦場であろうと、大嘗祭のような国家的なイベントだろうと、映画館だろうと、その場の統制力を破壊することができる。国旗掲揚のときでも立っていながら携帯を見ているとか。サッカーの選手が審判の写真を撮るとか。これは戦えるでしょう(笑)。接続だけでも切断だけでもなく、切断+別ラインでの接続の2方向を同時に行うことに可能性がでてくる。携帯を使う演劇なんかもう誰かがやっているんでしょうけれどね。

── 確かに携帯は何かに寄生することに関しては最適なものだと思います。それこそ北朝鮮の体制を破綻させるのは、携帯電話をこっそり電池をつけておくるのが早い(笑)。それで戦地に演劇をもっていたことをいうと、ソンタグがサラエヴォで『ゴドーを待ちながら』を上演したことはどうでしょう。それは場を解体して組織できたという貴重な事例なのではないでしょうか。

【岡崎】 ソンタグは意外とセンチメンタルにサラエヴォで看護婦か何かをやりたかったらしい。でも現地の人が演劇を望んだんですね。なぜ戦争の中で演劇なのかとソンタグは思ったらしいですけど。まあ現地の人は ゴトーなんかじゃなくて、もっと元気の出る、すべてを笑いとばすようなものが欲しかったみたいだけどね(笑)。だから、ゴトーが効果的だったかどうかはわからないけれど、ともかく戦渦の中だからこそ人間の尊厳として、文化が必要なのだとソンタグは言った。尊厳としての文化というのは、言い換えれば、状況に巻き込まれない自由、ある状況にいながら別の空間を保持できるということでしょう。サラエヴォみたいな現実的な状況が切迫している場所でこそ、空間や状況とそれに対する人間の態度、フレーム全体を変える力が必要とされるということでしょう。

── ただ消極的ですが問題なのは今の演劇に、フレーム自体を変える力があるのでしょうか。

【岡崎】 携帯電話ですら変えられると考えたら変えられるでしょう。たとえば芝居を志しているんだったら、どこかの学会のシンポジウムとかをジャックするのは簡単なわけですよ。俳優志望の学生が4,5人のりこんでパネリストより面白い質問や話をすればいい。資本主義的な競合の原理で、人が集まっている場所の隣で、さらにおもしろいものをやってお客をさらう。寄生するように場に入り込んでその場の空間を変えるというのは、河原乞食以来の芸人の伝統でしょう。


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