2003.09.10 岡崎乾二郎

確率の技術 技術の格律〈3〉

5.

いうまでもなくレヴィ・ストロースがここで適用している科学的思考と呪術的思考の区別は、カントによる規定的判断力(分析判断)と反省的判断力(総合判断)の区別に対応しています。分析判断とは、主語概念に結びつけられた述語概念がすでに主語概念に含まれていたような判断──たとえば『自動車は移動する』──であり、総合判断とは主語概念に、主語概念に含まれていないような述語概念が結びつけられた判断──たとえば『山は移動する』──でした。
分析判断が規定的だとされるのはそこでA という項目とBという項目が結びつけられたとき、その結びつき自体がそもそもAという概念に規定されていたとみなすからです。この判断はわれわれが何かの道具を機能的に判断するのと同型であり、レヴィ・ストロースはここでそれを科学的思考と呼んでいる。
しかし、すでに見てきたように(徂徠も指摘していたように)現実的な経験世界において、いかなる精緻な技術を用いようと厳密な意味で規定的な判断が成立する場面というのはありえない。今風にいえば現実世界の因果性は決して線形に形成されてはおらず、つねに非線形であることを免れえない。それを排除することは不可能であるということです。渋滞のときのように、自動車に乗っていることでかえって身動きがとれなくなるということが起こる。ではなぜ渋滞は起こるのか。これはむしろ自動車の外部要因によるものではなく、自動車の存在規定それじたい(道路の上しか走れない)からくる矛盾です。つまりは現実(経験世界)において、確定的な主語概念(公理)の定立は不可能である。あらゆる規定的、合目的に見える技術も、たちまちナンセンスで非合理な存在に転化する可能性をもっているということです。
対してたとえば『風が吹けば桶屋が儲かる』というのは典型的な総合判断であり、本来確定的ではありえない因果性を示しています。通常の科学的な思考はこれこそナンセンスなものだとして相手にしないでしょう。あるいは道を歩いていた人の顔にたまたま空を飛ぶカラスの糞が直撃し、その人は失明したとする。しかし、これを単なる偶然として片づけず、『人間の干渉しうる領域として扱う』のが、呪術的思考だというわけです。この指摘は重要です。つまり荻生徂徠の洞察通り、人間の技術はその本質において倫理的規範ーー行動の規範と結びつかざるをえない。すなわちいかなる偶発的に見える出来事であれ(それが理解不能であっても)、必然として扱わなければならない。
たとえば交通事故は、保険屋がいかに「所詮、確率の問題ですよ」と弁じようと、必ず、出会った本人に、何がしかの責任(要因)があったと考えなければならない。逆にそう考えることによって、はじめて、未来に起こりうるだろう同様の事故も、回避できない偶然ではなく、必らず回避しうる、操作可能なものへと転化しうる。これはカラスの糞でも桶屋の儲けでも同じことです。いかなる偶然(地震や隕石の落下)であれ、必然と受け入れることによってこそ、未来で起こりうる同様な事象の操作可能性──すなわち自由──が権利として(それが希望としてでも)獲得されうるということです。災いは必ず克服されうる。こうやって宿命は自由意志の手に戻される。
したがって前出の『法則の普遍性を特殊な事象に結びつけることこそが人間の干渉しうる技術のありかた』はカントの反省的判断(総合判断)に従って次のように、より正確に言いかえることができます。

 特殊な事象を普遍的な事象として扱わなければならない。

 そしてこれこそは

 汝の行為の格律が、汝の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるかのように行為せよ

というカント倫理学(『実践理性批判』)の根本法則とも見事に対応していたところの根本原理でした。

6.

しかし、用心しなければならないのは、カントが普遍が決して確定的に定まっているといってるわけではないということです。たとえば物自体という観念は、ヘーゲルが考えたような、いまだ認識されていないような対象──いまだ見出されないだけで、いつかは必ず見出されるだろう対象では決してない。

それだから経験の対象は、決してそれ自体与えられているのではなく経験においてのみ与えられているのであって、経験をほかにしてはまったく実在しないのである。月に住民がいるかも知れないということは、かって人間が一人として彼等を知覚したことがないにしても、確かに承認せられねばならない、しかしこのことは、我々が経験の可能的進行において彼等を見つけ得るかもしれないということを意味するにすぎない。経験的進行に従って知覚と関連している一切のものは、現実的に存在するからである。従って月の住民は、私の現実的意識と経験的に連関を保っていれば現実的に存在すると言ってよい。しかし彼等は、それだからといってそれ自体、即ち経験のかかる進行をほかにして現実的に存在するのではない。(カント『純粋理性批判』篠田英雄訳)

いうまでもなく、ここでカントがいう月の住民は、徂徠が見出した鬼神とほとんど同様の存在です。かって誰も彼等を知覚しなくても、それは断固として存在する。なぜならばそれなしに我々の知覚は進行しえないからである。いいかえればそれは、やがて到達されるだろう対象にではなく、いまだ(いかなる終着点にも到達しないゆえに)進行中の知覚の中にしか存在しないというべきです。おわかりのようにここで知覚はきわめてパフォーマティブなものとして、それ自体が倫理的に統整されなければならない行為として捉えられている。そして徂徠の鬼神同様、月の住民はわれわれの知覚そして行為を統整するためにこそ必要とされ、ここで要請されていることがわかります。

実践的判断の意見には信という語が適用するから、これにならって理論的判断における信を理論的信と名づけてもよい。私たちに見える遊星のうち少なくともどれか一つに住民がいるということを、もし何らかの経験によって確かめることができるものなら、私はこの命題の真であることに対して全財産を賭けたいとさえ思っている。つまり、私がいいたいのは、地球以外の世界にも居住者がいるということは、たんなる憶見ではなくて強固な信であるということである。(『純粋理性批判』岩波文庫、下)

ここで賭けられているのは、むしろ自由意志そのものの存在根拠です。そして、この地球外の住民X=物自体は普遍的な真実として一つに確定されて在るわけではない。むしろ、それはわれわれが知覚する、あらゆる特殊な事物の中、偶発的事象から様々な形でいくつも産みだされてくる。つまり、いかなる特殊な事象の生起からも知覚は必ずそこに必然を見出さないわけにはいかないということです。いや、さらに厳密にいえば、こうして偶発的な事象を必然的な因果性へと転化させていくことこそが、知覚の進行というものであり、すなわち因果性とは客観的事象の側にあるのではなく、偶然を必然へと次々に転化していく知覚の進行の側にあった。しかしこれは単なる主観的な原則ではありません。あくまでも現象、事物から知覚が受けた触発によって促されるものだからです。そして、それゆえにこの原理は、すでに確立されたかに見えた普遍的概念の規定性を批判し崩壊させる原動力にもなりうる。

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