2003.09.10 岡崎乾二郎 | ||
確率の技術 技術の格律〈3〉 |
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5.
いうまでもなくレヴィ・ストロースがここで適用している科学的思考と呪術的思考の区別は、カントによる規定的判断力(分析判断)と反省的判断力(総合判断)の区別に対応しています。分析判断とは、主語概念に結びつけられた述語概念がすでに主語概念に含まれていたような判断──たとえば『自動車は移動する』──であり、総合判断とは主語概念に、主語概念に含まれていないような述語概念が結びつけられた判断──たとえば『山は移動する』──でした。
6.
しかし、用心しなければならないのは、カントが普遍が決して確定的に定まっているといってるわけではないということです。たとえば物自体という観念は、ヘーゲルが考えたような、いまだ認識されていないような対象──いまだ見出されないだけで、いつかは必ず見出されるだろう対象では決してない。 それだから経験の対象は、決してそれ自体与えられているのではなく経験においてのみ与えられているのであって、経験をほかにしてはまったく実在しないのである。月に住民がいるかも知れないということは、かって人間が一人として彼等を知覚したことがないにしても、確かに承認せられねばならない、しかしこのことは、我々が経験の可能的進行において彼等を見つけ得るかもしれないということを意味するにすぎない。経験的進行に従って知覚と関連している一切のものは、現実的に存在するからである。従って月の住民は、私の現実的意識と経験的に連関を保っていれば現実的に存在すると言ってよい。しかし彼等は、それだからといってそれ自体、即ち経験のかかる進行をほかにして現実的に存在するのではない。(カント『純粋理性批判』篠田英雄訳) いうまでもなく、ここでカントがいう月の住民は、徂徠が見出した鬼神とほとんど同様の存在です。かって誰も彼等を知覚しなくても、それは断固として存在する。なぜならばそれなしに我々の知覚は進行しえないからである。いいかえればそれは、やがて到達されるだろう対象にではなく、いまだ(いかなる終着点にも到達しないゆえに)進行中の知覚の中にしか存在しないというべきです。おわかりのようにここで知覚はきわめてパフォーマティブなものとして、それ自体が倫理的に統整されなければならない行為として捉えられている。そして徂徠の鬼神同様、月の住民はわれわれの知覚そして行為を統整するためにこそ必要とされ、ここで要請されていることがわかります。 実践的判断の意見には信という語が適用するから、これにならって理論的判断における信を理論的信と名づけてもよい。私たちに見える遊星のうち少なくともどれか一つに住民がいるということを、もし何らかの経験によって確かめることができるものなら、私はこの命題の真であることに対して全財産を賭けたいとさえ思っている。つまり、私がいいたいのは、地球以外の世界にも居住者がいるということは、たんなる憶見ではなくて強固な信であるということである。(『純粋理性批判』岩波文庫、下) ここで賭けられているのは、むしろ自由意志そのものの存在根拠です。そして、この地球外の住民X=物自体は普遍的な真実として一つに確定されて在るわけではない。むしろ、それはわれわれが知覚する、あらゆる特殊な事物の中、偶発的事象から様々な形でいくつも産みだされてくる。つまり、いかなる特殊な事象の生起からも知覚は必ずそこに必然を見出さないわけにはいかないということです。いや、さらに厳密にいえば、こうして偶発的な事象を必然的な因果性へと転化させていくことこそが、知覚の進行というものであり、すなわち因果性とは客観的事象の側にあるのではなく、偶然を必然へと次々に転化していく知覚の進行の側にあった。しかしこれは単なる主観的な原則ではありません。あくまでも現象、事物から知覚が受けた触発によって促されるものだからです。そして、それゆえにこの原理は、すでに確立されたかに見えた普遍的概念の規定性を批判し崩壊させる原動力にもなりうる。 |
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