2003.09.05 岡崎乾二郎

確率の技術 技術の格律〈2〉

3.

こうして鬼神そして礼楽は、徂徠にとって単なる道徳をこえて、はるかに実効的な技術に関わる位置づけを与えられることになります。それは生起する事象の因果性すべてに関わり、それを把捉し、さらに制御しようとするときに必ず立ち現れるはずの問題だった。よってそれは技術といわれるもの総てを貫く核心にあって、すでに述べたような人倫的な規範も、その言葉の正確な意味で、技術総体の問題構制こそを支え、それを律するところのものでなければなりませんでした。

自然も活物、人も活物ですから、自然と人との出会いや、人と人との出会いの時には、無限の変動が起こり、前もってそれをはかり知るというようなことはできるわけがありません。愚かな人は、偶然に一つか二つ見込みどおりに仕事が運びますと、自分の知力でなし得たことと思いますが、実はそうではありません。みな天地鬼神の助力でできたことです。そのような人間の知力の及ばないところに至ると、君子というものは、天命を知っていたずらに心を動かさず、自分のしなければならぬ道をよく知って努めるので、自然に天地鬼神の助力を得ることができるのに、愚かな人は自分の知力でもってはわからないので、心にいろいろと疑いを起こし、懸命にはげむこともなく、努力することがありませんので、そのことも結局うまくいかなくなります。
例えば船頭が舟に乗る時に、船上での操作にはそれぞれの方法があって、ずいぶん知力を尽くして努力するのであるけれども、大海原に乗り出し、大風波に翻弄されると、知力も尽き果てて、ただ仏神の力を頼るほかはなくなります。だからといって仏神の力ばかりを頼りにして、櫓や舵も握らず、船底にひれふしてばかりいても、活路を見出すことはできません。仏神の力を頼みとしたうえに、なお自分のやらねばならぬ仕事を懸命にやってのけて、はじめて十死一生ともいうべき難儀をのりこえて活路を見出すのです。
あるいはまた戦場に出た場合、どんなに名将といわれた人でも、上手な碁打ちが手筋を見るように、局面のすべてが明白に見えていて戦争をするのでは決してありません。碁を打つには碁盤というものがあり、目を十文字に切って三百六十一目に限った、いわば死物であります。これを打つ石も死物であります。しかも対局の時は静かに考えるので、上手な人は相手の手を明らかに見ぬくこともできますが、戦争というものは、碁のように限られた碁盤の上でするのとはちがって、活物の人間を大勢手足のように動かし、しかもたいへん忙しい仕事です。ですから、昔から兵法には雲気・風角、占筮・厭勝(まじない)の道といって、雲の様子や風の角度をみたり、占やまじないをやってみたりするのですが、これはみな愚かな民衆の心を一つにまとめて、その力を全力を傾注させる方法として昔も今も変らず用いられているものです。(荻生徂徠『答問書』)

ここで問われているのは技術の確実性、信頼性はどう確保されうるのかという問題です。確かに技術という技術は一般に出来事の連鎖、その因果性を確実に再帰可能なものとして安定させようとする。難易度の高い技術とは自然状態ではほとんど確率的にしか起こりえない現象を確実に引き起こそうとする。いいかえれば技術がそれを可能にするのはそれが把捉しようとする因果の系列に余分な可能性が混入することがないように、その操作系を閉鎖することによってであった。しかし現実は実験室のように閉鎖されているわけでもなく──『碁のように限られた碁盤の上でするのとはちがって』計算外の要素がそこに入り込むのは決して避けられない。ゆえに安全を誇る新幹線の上にもコンクリートが落下しうるし、逆さまに、1928年のある冬の日、フレミングの鼻汁がたまたまブドウ球菌の培養皿に落下しなかったらアオカビも発生せず、よってペニシリンの発見もなかった。こうして予想外の要素の混入がなければ新しい技術の発見もありえないわけです。

徂徠はここで技術という技術は破綻することが宿命づけられているといっているのでしょうか。いや、その反対に徂徠は、このように決して一義的に絞り込めず予測もしえない事象の生起、因果の偶発性を、にもかかわらず決して偶発的なものではないとみなす──信じる──こと、そうした『理論的信』こそが技術者の行動を正常に制御し技術の向上を促す原理になりえると述べているのです。不可測で制御しがたい偶発性(そう受容してしまう知覚の錯乱性)を、にもかかわらず必然として繋ぎ止めるために要請される存在それが鬼神です。つまりここでもわれわれは、それ(その因果性)を経験的には知覚しえないが、しかし、それが確かに在ることを知っているという、パラドキシカルな認識に出会うことになる。

4.
自然哲学の体系として考えるとき、それ(witchcraft 妖術)には一つの因果理論が含まれている。すなわち、不運は妖術が自然力と共同してひきおこすものである。ある男がアフリカ水牛の角でひっかけられるとか、穀物倉の支柱が白蟻にむしばまれて倉が頭の上に崩れ落ちてくるとか、脳脊髄膜炎にかかるとかすれば、アゼンデ族は、水牛や穀物倉や病気が原因であって、それが妖術と結びついてその男を殺したのだと言うであろう。水牛や穀物倉や病気はそれ自体で存在するものだから、妖術はそれの存在については責任がない。しかしながら、それらの原因が、ある特定の個人に対して破壊的な関係に置かれたという特定の状況については妖術に責任がある。いずれにしても穀物倉は崩れ落ちたであろう。しかし、ある特定の人間がそのかげで休んでいるというある特定の瞬間にそれが起こったのは、妖術のせいである。これらすべての原因の中で、妖術だけは人間が干渉して変更させることができる。それは妖術がある一人の人間に発するところのものだからである。水牛や穀物倉に対しては干渉の余地がない。それらも原因と考えられてはいるけれども、社会的関係という面においては無意味である。(Evans-Pritchard クロード・レヴィ・ストロース『野生の思考』より、再引用 大橋保夫訳 )

水牛の角で突き通されば人は死ぬ。穀物倉が頭の上に崩れ落ちてくれば人は死ぬ。脳脊髄膜炎にかかれば人は死ぬ。これらの原因と結果の結びつきは、ほとんど物理的法則のように必然であり、変更の余地がない。しかしこれが何故ある特定の男の死に結びついたかということについてはそれらの知識は何も教えてくれない。ここで述べられているのは、これらの法則の普遍性を特殊な事象に結びつけることこそが人間の干渉しうる技術のありかたであり、それはまず呪術的な想像力によってこそ準備されるのだということです。この引用に続いてレヴィ・ストロースは次のように書いています。

しかしながら、さらに一歩を進めて、次のように考えることはできないだろうか?すなわち、呪術的思考や儀礼が厳密で緻密なのは、科学的現象の存在様式としての因果性の真実を無意識に把握していることのあらわれであり、したがって、因果性を認識しそれを意識するより前に、包括的にそれに感づき、かつそれを演技しているのではないだろうか?そうなれば、呪術の儀礼や信仰はそのまま、やがて生まれ来たるべき科学に対する信頼の表現ということになるであろう (『野生の思考』 同前)

補足すれば、呪術的な思考とは、いかなる非合理で偶然的な現象であれ、確かな原因をもった正常な因果性として、合理的なものとして扱うということです。つまりは、いかなる非合理に見える現象であれ、その背後にはしかるべき必然性、『理』を備えているものとみなす。世界を支配する合理性に対して全面的な信頼を寄せているのはむしろ呪術的思考だった(!)。

この観点からすれば、呪術と科学の第一の相違点はつぎのようなものになろう。すなわち、呪術が包括的かつ全面的な因果性を公準とするのに対し、科学の方は、まず色々なレベルを区別した上で、そのうちの若干に限ってのみ因果性のなにがしかの形式が成り立つことを認めるが、ほかに同じ形式が通用しないレベルもあるとするのである。(『野生の思考』 同前)

つまり呪術的な思考が起こりえるあらゆる事象の生起に合理性があるとみなすのに対して、科学はその合理性の水準としてそれが確定的に扱いえる因果系列だけを選別する。当然その外部に、他にもありうるだろう、さまざまな事象の生起の系列を排除し、それを放置することになる。『ほかに同じ形式が通用しないレベル』──非合理なモノが『あるとするの』のは、むしろ科学的思考の選別と排除のメカニズムによっていた。

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