2003.08.11 岡崎乾二郎

確率の技術 技術の格律〈1〉

初出:『10+1』no.23, 2001年, INAX出版
1.

しかし技術と芸術ははたして明確に峻別されうるのでしょうか。むしろ技術がその実効的側面を強調すればするほど、その実効性を要請したところの起点は決して合理性に解消しきれるものではないことを露呈させてしまうのではないか。また芸術と呼ばれているものの特質が、その存在をいかなる目的に回収されることもできず、ゆえに、それ自体を目的として扱うほかないという点にあったのだとすれば、技術に託された実効性が最終的な局面で晒けだしてしまうのも同様の事態なのではないでしょうか。たとえば家を作る技術というものはあるとしても、家それ自体が持つ実効性は、『家を建てる』『家に住む』というように『家』それ自身を主語として含む文でしか定位されないのではないか。『住むための機械』が家なのではなく『家に住むための機械』が家である。つまり家こそが住むという観念を生みだし、繋ぎ止めている唯一のものであって(家なしに住むという観念はありえない)、単純にいいいかえれば家は家を作るために建てられるという、それ自身以外に何の目的もなく自ら合目的性を主張する。しかし、ゆえにわれわれはそれがほかにもありうると疑うこともできる。少なくとも、この局面で技術が呪術と呼ばれてきたものと、重なって見えてくることは確かです。

2.

『手に持ったリンゴは手を離すと落下する』。
この現象は何度でも再帰する──これを認めることはそこに法則性があると認めていることになりますが、とはいえこの法則性を認めることと引力という観念を認めることは決して同じではありません。万有引力という観念など知らなくても、誰であれ(動物であれ)、『物体は落下する』──そこに法則性があることは理解できるということです。よって犬ですら岩が落ちてきそうな山道を避けて歩く。たとえば実効的な論理とはこういうものでした。物体が落下する原因を万有引力という観念に帰そうと宿命と解そうと、その実効性において大した差異はない。
いや差異がないどころか、むしろ理性が、その業として究極的な原因を果てしなく問い詰めていくよりも、それを問うことなく、その事実を「そういうものだ」とそのまま受容したほうがはるかに効率はよいし、実際人はそうやって暮らしている。なぜ昼と夜があり、潮の満ち引きがあるのかなどということの理由をいちいち知っている必要はない、ただそれが必ず再帰し反復する現象だということさえ知っていれば事は足りる。いうまでもなくこれは知的理解の断念を意味しているわけではありません。そうではなく所詮不透明であるほかない現象と現象の間の因果性に対する対処の違いがそこに現われている。
たとえば
『人間は死ぬ 草は死ぬ ゆえに人間は草である』
という誤謬論理を受け入れてしまうような人間であっても、
『すべての人間は死ぬ ゆえに自分も死ぬ』
という自明の理を受容することは容易ではありません。端的に言って、われわれが死後の世界への想像を断ちきれない理由は、ここに起因しています。たとえば孔子は、その弟子の子路が、死後の世界ヘの問いを口にしたとき、次のように答えたという。

「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」(『論語 』先進論)。

子安宣邦氏の導きに従えば、朱子学の伝統において、この孔子の返答は次のように解釈されてきた(註)。死は生を知りえてのちに知るものである。生を未だよく知らないのだから、死を知ることができるわけがない。すなわち認識には順序があり、死後の世界は不可知であると孔子が斥けたと。あるいは伊藤仁斎はさらに徹底して孔子が鬼神や死後の世界という知り難き対象への問いかけを禁じて、『仁者は務めて力を人道の宜しき所に用いて、智者は其の知り難き所を知ることを求めず』、すなわち呪術的習俗に傾く民衆に対し、知りうべくもない鬼神に惑わされることなく、専ら人道につとめ、「生存の道」に尽すべきだと教えたことにこそ、孔子の賢しさがあらわれていると解釈した。ここには確かに神秘主義を廃しひたすら実践的な──世俗世界にとどまり人倫の道を説く孔子像があるように見える。しかし荻生徂徠はその孔子像に反発し徹底的にそれを批判したのです。その徂徠によって孔子の答えは次のように解釈される。

『けだし死なる者は言ふ可からざる者なり。夫れ人の知は、至れる有り、至らざる有り。孔子未だ死せず、子路未だ死せず。』

他人の死を知ることはできるが、自分の死を経験することはできない、経験したことがないことを説明することはできない。すなわち自分が死ぬことは確実だと知っているとしても、その確かさを示し、確かめることはできない。これを先に提起した、われわれの文脈に置き換えれば、「すべての人は死ぬ」ことを知っているとしても、その死と自分自身の死は、因果性として決して経験的に把握され結びつけられることはできないということです。
ここには二つに分裂した知、経験として『至れる知』と『至れない知』があります。すなわち、一方で自分が物質的対象として確実に死ぬことを知っている。しかし、もう一方で、他者の死を知るようにはそれは体験することはできない(知りえない)。もし体験できると仮定すれば、当然死後の世界を前提しなければならなくなるでしょう。しかしそれは断じて経験しえない。
むろん他者の死のみならず、そもそも他者の経験(たとえば彼の痛み)を経験することが、われわれにはできなかったはずですから、その他人の経験する死ばかりか、自分の死さえも経験できないという事実は、死の経験などというものはもともとありえないことを示していることになる。にもかかわらず、われわれはその経験として不可知であるはずの死の不可避性、確実性を知っている。(しかも否定しがたい物理的事象として知っている──死とは物的確証そのものであり、そこに留まりつづける何かです。)ゆえに、この具体的な経験を伴うことなく、この存在を認めるという知の働き自体は人の経験が棲みつく時間や空間内に制限されることのない、つまりは(その権利として)不死でなければならない。
徂徠が注目したのはこの事実です。われわれは、この死のように、具体的には経験することも確かめることもできないものが確かに存在することを知っている。むしろ我々の見たり聴いたりする生きた経験は、根底において、そうした確かめえない(視れども見えざる、聴けども聞こえざる──『中庸』)対象への知によって支えられていると。
いかなる感性的なイメージも欠如し、知覚の対象たりえない死、この欠如を補うためにとりあえず先王が与えた名称が鬼神だったと徂徠は考える。ゆえにその徂徠の鬼神観に示唆されたという、のちの平田篤胤が、この欠如したイメージを稚拙な図解によって補填しようとしたのはまったく、この認識の構造を理解しない、笑止千万なものだということになります。カント風にいえば、それはもともと感性界に位置づけられるはずのものではないのだから。
徂徠の認識が透徹していたのは、この意味において、死の存在を認めることは、他者の存在を認めるということと論理的に通底すると見抜いていたことです。実は『論語』のすでに引用した箇所には

子路、鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ人に事うる能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。

という文が先行し、

曰く、敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。

はそれに続いていた。人に奉仕することすら満足にできないのに、まして鬼神に奉仕することはできるはずがないというのが流布した解釈ですが、つまりは人ーー他者とは、鬼神あるいは鬼以上に予測不能で把捉しがたい不可知な存在である。逆さまにいえば人に奉仕することは鬼神に奉仕するよりも難しいという含意すらここに読みとれないこともない。

「理」は、事物にはみな自然に存在する。自分のこころで推測し、きっとこうならなければならぬとか、どうしてもそうなり得ないことがわかることがある、これを理という。およそ人間が善をしたいと思うのも、理からいってそうするのがよいとわかってするのであり、悪をしたいと思うのも、理からいってそうするのがよいとわかってするのだ。だから理には一定の準則がない。なぜかといえば、理はどこにもあるものだが、人間の見解はそれぞれ天性によって異なる。たとえば同じ飴でも、伯夷(殷末の賢者)はそれを見て「老人を養える」と言い、盗跖(孔子と同時代にいたといわれる大盗)はそれを見て「敷居に流しこめばうまく戸がはずれる」と言った。これはほかでもない、人間はそれぞれ自分の見えるものを見、見えないものを見ないから、相違ができるのである。(荻生徂徠『弁名』)

理とは、端的に事象間の因果性を生成させるところのものです。しかし重要なのは、ここで徂徠はこの理が複数あるといい、しかもそれらが互いに不一致で離反する傾向にあるといっていることです。これだけでも朱子学批判としては充分ですが、その理由を徂徠はカント同様、理とは客観的世界に属すものではなく個々の事物が備えている傾向性にあり、つきつめれば客観的に生起するように見える出来事の因果性はそれを観察する側の主観の内にだけ存在し、よってその関心の差異によって、それぞれ異なる現象が生起するとみていたことにあります。

「人に道の正しさに返るようにさせるつもりだったのである。人間が生まれた初めは平静なのは、天から受けた性である。物に感じて動くのは、天性から生じた欲求である。物がこちらへ来て知覚がそれを知り、その後に好悪が現われる。好悪が心中に節度をなくし、知覚が外から誘惑して本心に立ち返れなくなると、天理が消滅する。そもそも物が人に感覚を与えることは窮まりがなく、人間の好悪には節度がないから、物がこちらへ来れば人間はその物に感化されることになる。人間が物に感化されるとは、天理を消滅させて人の欲求を窮めるものである。」礼記、楽記

徂徠によって引用された礼記のこの一節は充分に、カントの理性批判を想起させます。知覚によって捉えられる世界が所詮は快不快に支配された主観的なものに留まるということに対する明晰な自覚がここにはある。客観的な世界に属すはずの事物と事物、事柄と事柄を結びつけるのは、それにたぶんに触発され感化された感性の働きであり、であるかぎりは世界は仮象の世界から外には出られないだろう。天理を失うということは、こうして世界が統整を失ない、そのときどき生起するばらばらな感覚の継起とでもいえそうなものに解体していってしまうということです。
しかし、カントは、にもかかわらず、現象界はこんな底なしの錯乱に決して陥るだけではない、一つに統整され束ねられうると考え、それを保証する基点として物自体──すなわち超越論的対象Xを措いたわけでした。であるならば、徂徠が孔子の教えのなかに見出した鬼神とはこの物自体とほとんど同型のものであったようにすら感じられる。こうして互いに不可知な経験則を有するだろう異なる他者が、にもかかわらず協調し、一つの社会秩序を形成しうるとすれば、こうした不可知不可測な他者が、にもかかわらず否定できない存在(鬼神)として確実に在ると相互に認識されていることによってである。『それゆえ、先王が礼楽を制定したのは、(…・中略…・)民衆が好き嫌いを安定させ』──礼楽はこうした認識から生みだされたところの規範であり具体的な作法であって、いいかえれば、その根拠、実在性は経験世界には決して属さず、実感として決して確かめられないものであるゆえに、経験的な世界を律することができるという特徴をもっていた。徂徠が先王によってそれが策定されたことを強調するのはそういう理由でした。むしろそれは否定も消去もできない、むしろ物的事実としてある。カントが道徳に与えた位置づけ──物自体のようにある命令──ときわめて近い位置にあります。
つまり徂徠が反発したのは伊藤仁斎の提起した孔子の教えの実践性そのものではなく、むしろその仁斎の唱える実践性が、人倫として統整されうる論理的可能性を消去してしまっている点にありました。すでに明瞭なように把捉しがたく不可測なものは、正確にいえば他者の経験ではなく、経験を組み立てるところの主体の心の働き──理そのものでした。ゆえに、人がその本性に従っていれば自ずから道に達するだろうという、仁斎が期待したような予定調和的な世界は決して訪れない。もし統御しようとする主体自身が、統御されるべき、その錯乱した世界の内側に属していたとするなら、それは制御しうるはずもないからです。

心には形がないので、制御することはできない。そこで先王の「道」は、「礼によって心を制御する」(『書経』仲 之 )こととした。礼を除外して心を治める方法を説くのは、すべて個人の頭から出たでたらめである。なぜかといえば、治めるものも心であり、治められるものも心となるからである。つまり自分の心で自分の心を治めるわけで、狂人が自分で自分の狂疾を治療するようなものであり、とても治められるはずがない。(荻生徂徠『弁道』)

仁斎が見落としてしまったのは、制御しようとする主体それ自身を、その主体自らが制御することは論理的に不可能であるというパラドックスです。ブラックボックスにされているのは、むしろこの主体自らの意識の働きだった。その意味において不可知な存在とは、感性的対象を感情(実感)を伴って経験しているところの心の働きそれ自体ということにもなる。最終的にはそれこそが他者であり、鬼神という存在が必然的に要請されざるをえない論拠にもなっていたということです。

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