2003.09.21 岡崎乾二郎

確率の技術 技術の格律〈4〉

7.

したがって反省的判断力(総合判断)は、人工物と自然物の区分を置き換え可能なものにし、事実しばしば入れ替えてしまうものだともいえるでしょう。
それを規定するところの概念、目的がいまだ知られなくとも、自然は人工物と同じように(それ以上に)、規定的な存在として、すなわち『合目的的』存在だと扱われなければならず、反対に、人間が道具に託し、特化していたところの、機能の規定性──y=f(x)におけるxとyの結びつき──はたえず偶有的なもの特殊なものに転落させられる。たとえば『自動車は移動する』ではなく、『自動車は監禁する』という、偶発的にも見えた出来事が必然として前面化してくるという具合にです。(反対に自動車が移動の道具として有利なのは、きわめて特殊な事態でしかありえないということにもなりうる)。
しかし、この転換によって当の道具が廃棄されるということは滅多に起こりえない。いまや何の確定的機能(目的)を保持していなくても、なお、その道具たとえば自動車はその存在意義を持ちつづけさせられる。いやむしろ、そうであるがゆえにわれわれは本来その道具に付帯させてもいなかった特殊な事態をその道具が持つ新たな機能(たとえば監禁道具としての自動車)として引きだすこともできたのでした。つまり道具の存在それ自体もまた自然物同様に、いまだ機能が確定していなくとも(規定的概念なしに)合目的的存在──『目的なき合目的性』として扱うということがこの転換を可能にしていたということです。
そもそもカントは、この『目的なき合目的性』という特異なステイタスを、自然にこそ与えた。その理由は、反省的判断力の仕組みを考えれば、すでに明らかですが、しかしご存じのように、カントはこの『目的なき合目的性』という特異な性格を、芸術作品にも付与せざるをえなかったのです。
だが用心すべきは、この芸術を芸術とする条件です。つまり、これは今見てきたような規定性を解かれた道具の存在、より卑近にいえば、何の役に立つかわからないが、必ず何かに役に立つだろうとして保存されている物というのとほとんど同じ様態だからです。
たとえば『野生の思考』のなかでレヴィ・ストロースが、ブリコラージュで用いられる材料の特異な状態として挙げる、資材性(潜在的有用性)という概念は、このカントによる芸術の基本的様相の定義、『目的なき合目的性』そのままだった。いいかえれば、それはしばしば勘違いされるような単なる物の状態ではない。何の役にも立たないが、必ずいつか何かの役に立つと保存されている物──つまり、それが存在すること自体が合目的的なものとして担保されつづける──というのは、もう誰でも気づくように、これは一種のドグマ(権威)を与えられたモノの状態そのものだということです。
それは物を一つの人格を備えた呪物として扱うというのとほとんど同じことを意味している(ドライアイス工場をその機能を離れて、美しいと感嘆する浪漫主義的な感性もここに発生する)。ゆえにその存在を消去することも容易にはできない。生命を奪うのとほとんど同じように感じられてしまうということです。
だが生産物全般において、この物の状態は決して例外的なものとはいえません。いかなる道具であれ、そのおおよそは確定的な機能を持ちえず、むしろ究極的には、それが存在することだけを目的に生産されている。カントがたぶん見過ごし、荻生徂徠が過剰に意識した(そして肯定することになった)人間の文化というものの陥穽がここにある。つまり、人間の作りだす道具はおしなべて機能的であること以前に儀礼的存在──生活の規範としてあるということです。機能は消去しえてもそれによって産出(触発)された心的な機能は決して拭いさることはできない。いわば消去しえない人格──徂徠のいう先王の影がそこに宿っている。(時代遅れになり機能を解かれた技術、たとえば電報や、船による世界旅行が決してなくならないのは、葬式や墓地がなくなることがないのと同じだということです)。ここで、はっきりしているのは、これらは決して自然ではなく、ただ心的に、それがもはや消去されえない本性(NATURE)として感じられているだけだという事実です。そしてそれを支えているのは理論的な信ではなく、むしろ集団的な信であって、端的に既存の世俗的秩序が(疑われることなく)受容されつづけているということを意味している。ちょうどそこの帰属するメンバー(人間)が、文字通り何の役に立つことがなくとも(手段としてのみならず目的として)その存在が敬われなければならないという『仁』の概念と同様に、呪物とは人格を与えられた特権的な事物(文化財)だということです。

8.

カントは数学の公理を、先験的な総合判断(反省的判断)であると考えました。この一種、語義矛盾にも感じられる用語を、あえて簡略化させれば、A→Bという2項の連結の規定性をブラックボックスとして囲い込む、いわゆるオブジェクト志向にもたとえられないこともない。確かに、それは文字通り機能をドグマ──物として扱う態度にも近く、呪物との境はほとんど紙一重のようにみえます。しかしこの一重は重要です。 
その違いは、徂徠のいう先王はすでに実在した(その生産物も残存している)が、カントのいう宇宙人はいまだ実在せず、その実在性は権利としてだけ確保される(その物的証拠も同じく自由意志に与えられた権利としてだけ獲得される)という点に明快に示されています。さらにわかりやすくいえば、宇宙人の存在を理論的に認めることは、共同体どころか天地がひっくりかえる(平行線が交わり、時間が逆転する)可能性さえ認めることともむしろ等しいということです。
これが集団的な信と理論的な信との違いです。その可能性を認めることはカントにとって倫理的かつ技術的な唯一本質的ともいえる問いかけだった。

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