2005.02.20 北川裕二

革命を俟つ櫛の方へ <2>

<創造-鑑賞過程>のマルセル・デュシャン

ガラス製の遅延
1.

『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(通称「大ガラス」1912〜23)は、制作に10年ほどの長い年月を費やしたにもかかわらず、永い期間アトリエに放置されたあげく、最終的には仕上げることを放棄してしまった未完成の作品である。現在私たちが目にすることのできるオリジナル・バージョンでは、運搬中に破砕してしまったガラスの破片を集め、元通りに繋ぎ合わせて修復したもの、つまりガラス全体に走る蜘蛛の巣のように張り巡らされた無数の罅が醜く残った異様なものである。

ところが、1934年に出版された「大ガラス」の制作メモ、いわゆる「グリーン・ボックス」を読むと、作品の未完成が制作当初(ないし制作過程)から目論まれていたことがわかる。デュシャンは「グリーン・ボックス」のメモの一枚に次のように記していた。

「タブロー[画枠に入った作品]あるいはパンチュール[絵画一般]という代わりに「遅延」という語を使うこと。そうなれば、ガラス上のタブローはガラス製の遅延になる。──しかし、ガラス製の遅延はガラス上のタブローを意味しない。──
 それはただ単に、問題のものがタブローであるとはもはや考えないですむ手段なのである──タブロ−をできるだけ全体にわたって遅延に変えること、遅延という語が取りうる多種多様な意味においてではなく、それら意味の未決定な集合において。「<遅延>」──ガラス製の遅延、つまり散文[による]詩あるいは銀製のたんつぼというように。」

上のメモを文字通りに受け取れば、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』とは、絵画ではなく「ガラス製の遅延」ということになる。それは「単に、問題のものがタブローであるとはもはや考えないですむ手段」のことであるという。この手段は絵画を「できるだけ全体にわたって遅延に変えること」で、作品を「意味の未決定な集合」に置き換えてしまう。したがって、それが「遅延」である以上は、「グリーン・ボックス」を繰り返し精読しても、その「意味(意図)」は正確には掴めない。しかもそのこと自体が、「グリーン・ボックス」にあらかじめ記されているのだ。デュシャンが「大ガラス」理解のために「グリーン・ボックス」を出版し、常にそれを参照することを望んでいたという事実は、それゆえ一般的な作品解釈とは別次元に属することであったと思われる。

しかし瞠目すべきは、所詮は取るに足りずと唾棄されかねないものを、職人的な技術と数学的な厳密ささえ湛えて極めて計画的に組織化し、10年もの歳月を費やしたという事実の方ではないか。いかなるものであれ、周到に計画されたものは、通常何らかの「意味(意図)」を持つと捉えがちだ。しかし「大ガラス」と「グリーン・ボックス」ではそうではない。前述したように、用意周到な「遅延」のために、「意味(意図)」の伝達が先送りにされるからだ。ということは、私たちが具体的に「見たもの」から「大ガラス」の「計画していたもの」へと遡及すること自体が困難であるということでもある。「そらしとはひとつの操作である」、そう別のメモには記されている。

2.

「大ガラス」は、上部の花嫁の空間と下部の独身者の空間が、画面を真っ二つに分割しているため、鑑賞者に分裂した印象を与える。分裂しているのはそれらの配置のみではない。花嫁の空間では剥き出しの内臓器官のごとき形象が、雲のように間延びした不定形の形態とともに、バランスを欠いたままぶらさがり、独身者の空間では透視図法によって目的不明の機械のごときものが緊密に、だが貧相に再現されている。そのことで上部は平面的な効果を得ており、下部は奥行きのある空間ともなっている。二つの空間の異なる性質が、作品の分裂をさらに際立たせる。作品の統合性はそのことで放棄されているように見える。そこにはある種の<意図された>無頓着さとでもいったものが感じられる。たとえば「大ガラス」は、左右不均衡でありながら、それでいて調和的なコントラポストのようなアシンメトリーの構成から得られる優雅なバランスの戯れ、などといったことには無関係のように見える。

しかし「大ガラス」で分裂した様相を最大限にもたらしているのは、なんと言っても画面全体の支持体である巨大な透明ガラスだろう。作品内に実際の現実が背景として取り込まれてしまうからだ。だが、作品の中で現実が背景となったのか、あたかも現実の中へと作品が砕け散ったのかを判断するのは困難である。支持体に透明ガラスが使用されたことは、それを決定不能なものにする。「ガラス製の遅延」である所以だ。そのどちらを重要視するかは、鑑賞者に委ねられているのであって、あらかじめ作品が決定しているのではない。この作品の最初の所有者キャサリン・ドライヤーのリヴィング・ルームに設置された記録写真を見れば、このことは即座に理解されるだろう。

「大ガラス」においては、作品を見ることで此処にはない別の何かを期待しもするだろう鑑賞者の眼差しは、描かれた対象を見ると同時に、透かして見える背景の現実に出会うことで、<今・此処>へと引き戻されてしまう。鑑賞者のいる空間と背景の空間が限りなく同質に近傍したものだからだ。性質の異なる二つの空間──言わば「意図して表現されたもの」としての花嫁の空間と独身者の空間──によって、眼差しは既に二重化されている。したがってガラス越しの背景は、花嫁の空間や独身者の空間とは位相的に異なる空間であるゆえに、眼差しをさらに分裂させる。このガラス越しの背景に注がれる分裂した眼差しとは、各鑑賞者が画枠内で認識した事物や気配と作品自体の空間(図像)との間にある差異を認識する視覚である。そしてこの視覚によって捉えられた差異こそが「意図せず見たもの」である。

位相の異なる空間によって獲得されたこの第三の眼差しは、他方でガラスを通して「見ているもの」を貫き、いずれ<今・此処>の現実へとやって来る。それは「見たいもの」との出会い損いを意味するが、この出会い損いは、眼差しを言わば対象なき眼差しにすることで、最終的に<今・此処>の眼差しそれ自体に回帰してくる。つまりこの眼差しは、その欲望──「見ることはできなかったが、見たかったもの」──に抵触するだろう。このように「大ガラス」は、鑑賞者の眼差しをさらに二つの内的空間としても分裂生成させるのである。というのは、ガラス越しに認識されることで、背景の空間は鑑賞者のいる空間には決してなり得ず、限りなく近傍した空間であるほかないからだ(この微細な空間への関心は、やがてデュシャンにアンフラ-マンスという奇妙な概念を育む動機を与えるだろう)。対象なき眼差しと「見ることはできなかったが、見たかったもの」の差異は、この空間の微細な差異と対称している。だが皮肉なことに、鑑賞者がこのことに気づくのは、ガラス越しの自己の分身、すなわち同じ鑑賞者がこちらに寄せる眼差しと視線を交わしたときにほかならない。

単にガラスを透かして見るだけではこうした現象は引き起こされない。そこには「見たいもの」が存在しないからである。翻って言えば、「大ガラス」に注がれる眼差しは、花嫁と独身者たちの無言劇に向けられることで、その意味──「計画していたもの」──を汲み取ろうとするが、鑑賞者がそこで見ようとしているものとは、まさにこの欲望──「見たかったもの」──のことだったのである。鑑賞者に立ち現れるふたつの差異。それが鑑賞者にとっての「芸術係数」である。

察しがつくように、「大ガラス」を見る眼とは循環しようとする眼差しである。しかし、鑑賞のプロセスのある一点において引き起こされる差異が、この眼差しを分裂させもした。つまりそれは、「ガラス越し」の空間を作品内部の図像に関係づけようとするその瞬間に引き起こされる。問題は、この運動の結果として立ち現れた<対象なき眼差し>が、鑑賞者の「芸術係数」の一方の項「意図せず見たもの」の内部から分裂生成したものであるにもかかわらず、その働きは むしろその<起源>へと遡行し、そのことで一方の係数「見ることはできなかったが、見たかったもの」に抵触しようとする、このことである。つまり「大ガラス」と<近傍した空間>を彷徨う視線が、背景の同じ鑑賞者の眼差しに出会い、吸い込まれ、むしろそれを媒介にして<花嫁と独身者たちの無言劇>へと回帰しようとする、その瞬間には何が起こっているのかということである。見ることの欲望──「見ることはできなかったが、見たかったもの」──と、「意図せず見たもの」の中心になりながら、しかし空虚に充たされた<対象なき眼差し>との「決して意識」できない「差異」を結びつける「算術的関係」とはどのよ うなものか。これを理解するには、おそらく「大ガラス」を別の角度から見てみる必要があるように思われる。

3.

つまり、一方の芸術家の「芸術係数」がこの作品でどのように捉えられるのかという疑問は残されたままである。このことを理解するにあたっては「大ガラス」以前の作品が参照されなければならない。というのも、この作品の主要な図像はほとんど過去の作品をトレースし再現したものでもあるからだ。

「大ガラス」のそれを捉えるにあたって、注目すべき作品は『花嫁』でも『九つの雄の鋳型』でも、あるいは『チョコレート磨砕器』ですらない。それは何か。言うまでもなく、『三つの停止原基』である。この作品にこそ、「芸術係数」の原型が端的に示されている。『三つの停止原基』とは、1メートルの長さの紐を、同じく1メートルの高さで水平に張り、そこから落下させて、床にできた紐の曲線を固定し、これを基に定規にしたものである。

「表現されなかったが、計画していたもの」と「意図せず表現されたもの」との「算術的関係」は、この1メートルの高さで水平に張られた紐と、床で曲線となったそれとの関係に例えることができる。つまり、紐の「落下」の中に存在するものの関係である。「計画していたもの」の「意図」は水平に張られた紐の中に秘められている。だが床の曲線はそれを「表現しない」。この奇妙に歪んだ曲線はしかし、それを「意図せず表現されたもの」だというよりはむしろ、「落下」そのものの関心へとわれわれを導くものである。つまり「落下」のプロセスのいかなる地点で、その紐は「計画(意図)」を超えるものとなったのかという疑問である。手を離れた瞬間か。それとも手を離れた後、次第にそれは縮減し、代わって「意図しないもの」が徐々に立ち現れたのか。その過程で決定的な変化を遂げる地点とはどこか。

おそらくここにこそ「大ガラス」の問題も存在している。つまり私が言いたいのは、『三つの停止原基』が、紐を床へ「落下」させたものであったのと同じように、この作品を構造それ自体が空間に「落下」したものとして考えられないかというものである。四次元空間ないし各次元間での事物の移行を問題視したデュシャンのことを想起すれば、この指摘が的外れだとは言えない。「大ガラス」をこうした観点から見ることで「芸術係数」の機能を確認することができるのではないか。

ガラスの亀裂も、鑑賞者の眼差しも、画枠の中へ取り込まれるガラス越しの事物も、あるいは現実の空間へと砕け散る花嫁や独身者も、すべては「落下」の中を潜る。無論、ここでの「落下」とは自然の法則に関わる事柄でもあろうし、偶然と必然を巡る確率的な問題であるといえばそれまでかもしれない。だがいずれにせよ、それらは通常の意味では「表現されない」。作品全体に走る亀裂を含めてそうである。このように言うのは、芸術家の「芸術係数」が「鑑賞者の審判にいかなる影響も与えない」とされていたからであり、しかもそれは「芸術家が決して意識しない差異」のことでもあったからである。

矛盾を含む逆説的な言い方になるが、「大ガラス」の核心に触れるにあたって重要なのはおそらく、鑑賞者による「決定(判断)」が目前にまで逼迫しているが、しかし未だそのときが到来することなく現前しているという様態において確定的な、だがそれゆえに微細なある特異点──「可能なもの」──をこそ見なければならないということだろう。一般的な絵画鑑賞においてはもちろんそうではない。それらは芸術家によって決定(完成)されたものを単に追確認するにすぎないとされている。「大ガラス」ではこの関係が転倒しているというよりは、奇妙に横滑りしているのである。

繰り返そう。「落下」のプロセスのいかなる地点で、それは「計画(意図)」を超えるものとなったのか。「表現」の確定性はどこに宿ったのか。それが存在しなければ「大ガラス」は、暗黒の孔隙の内奥へと墜ち込んだまま回帰することは決してないということになってしまう。要するにそれは<此の世>から消え去る。結論を言えば、それは<計り知れない>。つまり「表現されたもの」の確定性は、「落下」のプロセスに穿たれた<あの世>に帰属するものなのである。しかし確定性が証明できないということ、このことがむしろ「大ガラス」の現前なのではないか。すなわち<あの世>に引き渡された確定性の<影>、射影として──「与えられた」──<今・此処>における──「可能なもの」としての──現前、それこそが『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』なのではあるまいか。言い換えれば、「大ガラス」とは、もはや<此の世のものとは思えない>。実際、花嫁は肉塊であり、独身者たちは骨と輪郭(影)だけではないか。

したがって、この作品における「意図せず表現されたもの」とは、あの世/此の世の変換可能性のシステム──「蝶番の原理」──に帰属しつつ、そこを移行するものの美学-力学的な変質過程においての、確定のその瞬間-<何処か>のことであり、「表現されなかったが、計画していたもの」とは、この変換(変質)を「可能なもの」としたその動機によってむしろ消し尽くされた、つまりは「落下」したまま帰ってこない事物-<何か>のことであるということになる。逆に言えば「大ガラス」を限界づけ事物たらしめたもの、<今・此処>に立ち現せたものとは、これら「係数」の臨界的な機能なのである。デュシャンは言っている。「場合によったら蝶番のタブローをつくること。(折れるメートル単位、本……)移動状態での、つまり(1)平面での、(2)空間での蝶番の原理を利用すること」。しかしながら、蝶番の機能は何によって保証されているか。

 

「大ガラス」のオリジナル・バージョンは、後年運搬の途中でガラスが罅割れたこともあり、フィラデルフィア美術館から移動することの不可能な作品となった。しかもガラスを通して背景に見えるものは、なんと美術館の庭の吹き上げる噴水である(そこに固定することを指示したのはデュシャン自身である。彼の他の作品との、あまりにあざとい参照関係さえ仕組まれることになったということだろう)。しかしガラスに走った亀裂──偶然の介入──が、この作品に不幸中の最大の幸福をもたらしたということは、もはや付言するまでもない。偶然の形象化は事物としてのそれを犠牲にすることで、作品全体の構造化を「遅延」させる。したがって繰り返しになるが、「ガラス製の遅延」とは、空間への「落下」において必然的に生成する<あの世>の確定性が、<此の世>の不確定性の手前で──「可能なもの」として──停止している射影化のことにほかならない。このことをデュシャンは、「芸術家が関知していない奇妙な意図、既製の意図」と呼び「私はそれを愛する」と言ったのである。

4.

ところで「ガラス製の遅延」とは、「問題のものがタブローであるとはもはや考えないですむ手段」のことでもあった。原理的にいってそれは未だ何物でもないということだろう。この作品がそのように執り計らわれたのは、<終わり>という観念から芸術を自由にするためであったからだと考えられる。つまり作品の完成を決定する判断を保留することで、<終わり>を宙吊りにするということだ。この手続きによって、作品の完成は鑑賞者に委ねられることになった。既にみたように「大ガラス」は、設置される場所、鑑賞者の位置が異なることに対応して複数化される。それは閉じられることを拒み、つまりは「開かれた作品」として無限の読解が続けられる、見ても見尽くせぬ<永遠の現在>を生成するものであるかのように極めて周到に確定されていた。(あたかもモダニズムの手本であるかのようだ。たとえこの開かれが「リテラルな透明性」に過ぎないと判断されるとしても)。

言うまでもなく、こうした作品では、作品に対して「これは芸術である」と決定する判断の審級が問題となる。これまでの論旨からすれば、「大ガラス」の<終わり>は存在しないとみるのが妥当である。それゆえ「これは芸術である」という判断も保留される。だからと言って、この作品の<終わり>がどこにも存在しないというわけではない。勿論それはガラス上には存在していない。では、どこにあるのか。誤解を恐れずに言えば、「大ガラス」の<終わり>は、鑑賞者に委ねられる以前に、未だ芸術家の生の下で、宙吊りにされたままだったのである。つまり<終わり>は「計画していたもの」の内部に潜んでいる。

このように書くのは、「大ガラス」が1934年に出版された「グリーン・ボックス」を介して一部の者には知られていたが、1926年のソシエテ・アノニムによって主催された「近代芸術国際展」を除いては、1943年のニューヨーク近代美術館での「進歩する芸術」展で公開されるまで、多くの鑑賞者には──シュルレアリストたちにさえ──ほとんど知られていなかったからである。ここでの芸術家は、さもこの判断に憑かれ、そのことでむしろ制作が引き延ばされ、スランプをきたしているかのような芸術家である。デュシャンのチェスへの没頭はそれを裏付けるかのようだ。むしろ「ゲームをいかに終わるべきか」。デュシャンはこの問いに終生取り憑かれていたようにも思える。しかしそれは、芸術家が<終わる>ということではない。作品の<終わり>を遅延させる芸術家がそこにいるだけである。しかしこの「遅延」は、他方でもうひとつの根源的な問いを産み出す。すなわちその問いとは、絵画はいったい何処へいったのか、というものでなければならない。

こうしたアポリアに取り憑かれた芸術家は、もはや一般にそう思われているような表現者だとは呼べない。というのも、この芸術家は、制作はするが完成を決定する判断を遅らせ、決定の判断は下すが制作はしない、二重の、分裂した、矛盾する芸術家となるからである(これについては後述する)。つまり制作と判断が芸術家の下で、異なるカテゴリーに属するものとして分離される。この制作と判断の乖離こそ、デュシャンの芸術を理解しようとする場合、無視することのできない重要な乖離なのである。「ガラス製の遅延」は、デュシャンにこのような乖離を促す直接的な動因となったものである。

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