2005.03.01 北川裕二

革命を俟つ櫛の方へ <3>

<創造-鑑賞過程>のマルセル・デュシャン

視覚的無関心
1.

『シュルレアリスム簡約辞典』(アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール編 1938)ではレディ・メイドが次のように定義されている。

「芸術家の単なる選択によって芸術品の権威を与えられた日用品」。

この定義を下した者がアンドレ・ブルトンか、ポール・エリュアールか、あるいはデュシャン自身か判然とはしていない。しかしそれはどうでもよい。重要なのは、レディ・メイドの「単なる選択」が、ひとつの事物を他の事物から区別する行為──指し示し──それだけで成立するということの指摘である。ここで踏まえておきたいのは、レディ・メイドを単なるオブジェとしてのみ考えてはならないということだ。それはひとつの行為でもあるからだ。しかし、このことはいかなる事物であろうがレディ・メイドになるということを許容しているわけではない。デュシャンはその危険性について次のように言っている。

「私がどうしてもはっきりさせておきたい点があるが、それはこれら<レディ・メイド>の選択が何かしらの美的楽しみには決して左右されなかったということだ。この選択は、視覚的無関心という反応に、それと同時に良い趣味にせよ悪い趣味にせよ趣味の完全な欠如……実際は完璧な無感覚状態での反応に基づいていた。
 (中略)
 こうした表現形式を無差別に繰り返すことの危険を、私は早くから理解した。そこで、<レディ・メイド>創作の数を毎年少数に限定することに決めた。このころ私が気がついたのは、芸術家以上に鑑賞者にとって芸術とは習慣性の麻薬であるということだ。私はこの種の汚染から自分の<レディ・メイド>を守りたかった」

芸術家による日用品の「単なる選択」が芸術品の「権威」を与える。しかし、ここで要求されている芸術家の行為とは、趣味を磨き洗練させた上でくだされる鑑定のようなものではない。レディ・メイドは、視覚的な関心を取り除き、「趣味の完全な欠如」による「無感覚状態での反応」に基づいた「単なる選択」という行為であったと言われているからだ。つまりそれは、制作なき判断のことなのである。「大ガラス」の章で指摘した制作と判断の乖離の一方がここに現れているということである。

原理上レディ・メイドは、行為としての「選択」それだけで成立している。だが皮肉にもこのことは、事物としてのそれがまぎれもない日用品(既製品)であることによって、むしろ保証されるのだ。というのも、純粋な「選択」が抽出されるためには、芸術の伝統的な支持体、または様式や形式では不適当だからである。いかなるかたちであれ、そこには芸術家の「意図」が紛れ込んでしまう。それに対して、あらかじめ完成された日用品(既製品)の実物には、芸術家の「意図」が紛れ込む余地はない。それは芸術家の「選択」(決定)のみでレディ・メイドとなる。それゆえこの「選択」は、「意図せず表現されたもの」を完璧に実現する可能性を含意していると言えるだろう。

このことに対応するように、鑑賞者はレディ・メイドを「意図せず見たもの」としての芸術として享受する。というのも、鑑賞者がレディ・メイドに「意図して見るもの」は完成された既製品であるほかにはなく、そこに「見ないもの」こそが芸術の様式や形式であるからだ。様式や形式があらかじめ除かれたレディ・メイドは、原理上「意図」された芸術として見ることができないものである。レディ・メイドでは、「意図せず表現されたもの」と「意図せず見たもの」は、寸分の狂いなく貼り合わされているかのようだ。それは「芸術係数」それ自体を空虚化するものですらありうる。それらの関係はまた、鏡に映った像のごときである。商品の選択としてのレディ・メイドと芸術の認否としてのレディ・メイド。だがそれらの一方は常に反転している。しかしそれらのどちらが反転したかを特定することは困難である。反転の基軸となるものこそ、レディ・メイドでは問われているからである。

それに対して、「表現されなかったが、計画していたもの」と「見ることはできなかったが、見たかったもの」は、芸術家、鑑賞者から切断され、遠く隔てられている。というのも、「表現されなかったが、計画していたもの」は、レディ・メイドが既製品である以上、芸術家がその「計画」に関与することは事実上不可能に近く、「見ることはできなかったが、見たかったもの」、つまり見ることの欲望も、同様に既製品(商品)が物象化された事物であるということから、既にあらかじめ先取りされている可能性が高い。ここでの鑑賞者は、むしろ商品の内部へと疎外された眼差しから逆に見られているという立場へと転倒しているようにも思える。

こうしてみると、「芸術係数」そのものが、レディ・メイドという奇怪な作品には妥当しない「算術」のことだと看做されかねない。「表現されたものを見る」ということそのものが、おそらくレディ・メイドとはいささかの関係もないからである。そもそもレディ・メイドは、もともと既製品の実物以外の何ものでもなかったからだろうし、既製品はレディ・メイドになることで既製品であることを止めたわけでもなかったからである。

しかし既に指摘したように、レディ・メイドは「芸術係数」の図式を空虚化することでその臨界を示すと言う意味において、取り上げられなければならないものなのである。翻って言えば、「芸術係数」にそれを代入することで、レディ・メイドの臨界が認識されうるということである。この臨界は芸術にも社会に対しても重大な意味を持つと私は考える。さしあたって「芸術係数」に代入されたレディ・メイドの重要性を以下の観点で踏まえておく。すなわち、レディ・メイドが代入された「芸術係数」の「算術的関係」の解を0に例えることができるとすれば、おそらくそれは単なる既製品(日用品)か、真正の芸術であるかのどちらかである。しかし、もし解が割り切れなければ、それはいったい何になるのか。レディ・メイドの核心はそこに存在している。ここでもまた、見過ごせない別の「蝶番の原理」が働いているはずである。

2.

こうしたレディ・メイドの原理からすれば、例外となるものもいくつか存在する[*1]。例えばモナ・リザに髭を描き加えた『L・H・O・O・Q』(1919)のような、いわゆる「修正されたレディ・メイド」の場合がそれである。この作品では鑑賞者の「見ているもの」が三重化されている。モナ・リザと髭を生やしたモナ・リザと髭を剃ったモナ・リザというように。しかしここで「表現されたもの」は、通常そう思われているように複製のモナ・リザに髭を描き加えることで、モナ・リザあるいは芸術の権威を冒涜しているのではない。事態は逆である。モナ・リザの<複製の実物>に髭を描き加えることで、<モナ・リザの複製>を再度オリジナルな芸術作品へ引き戻そうとするのだ。そのことが「スキャンダル」なのである。

この作品では、三重化されるモナ・リザによって得られる効果の強い力が、鑑賞者の「意図せず見たもの」から「意図せず表現されたもの」を引き離す。純粋なレディ・メイドとは別の方向へ向かうのだ。そのことで「意図せず表現されたもの」は力を増す。この力の目安となるものは、モナ・リザと髭を生やしたモナ・リザの落差である。しかしそれらが落差として確認できるのは、そこに<基準>が存在するからだ。その基準とは何か。それこそが三重化されるモナ・リザにおいて、同時に同様にふるまわれる<微笑み>にほかならない。重層化-複数化するモナ・リザの中で、この<微笑み>だけがそれに妥当しないものである。というのも、鑑賞者が確認する<微笑み>は、『L・H・O・O・Q』のものであろうと、ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』のものであろうと同質だからである。

この「修正されたレディ・メイド」は、純粋なレディ・メイドからすれば異端であるにせよ、以後レディ・メイドの重要な位置を占めていくことになるだろう。したがって、今や問いは次のように転回されなければならない。すなわち、レディ・メイドはいったい何処へ向かうつもりなのかと。そしてこの問いこそが、ローズ・セラヴィの登場を促すのである。だがそれについて論じるあたっては、レディ・メイドに対する考察を今少し深めておく必要があるだろう(この小論ではローズ・セラヴィについて言及することは割愛する)。

*1 レディ・メイドを見回してみると、確かにそれらが主に、いかなる趣味をも感じさせることのない無味乾燥な既製品(商品)であるのがわかる。「選択」は、ミッキー・マウスの貯金箱でもよかったのである。しかしそう考えてみると、反対にデュシャンの言う「視覚的無関心」、「趣味の完全な欠如」、「完璧な無感覚状態での反応」が何んであるかが見えてくる。

デュシャンがレディ・メイドを使用してスキャンダルを目論むときは、決まってある社会的なコンヴェンションに照準を合わせている。例えば、レディ・メイドの代表作と看做されている男性用便器を使用した『泉』がそうである。しかし、われわれの立場──つまりデュシャンと私の立場──からすれば、『泉』とはむしろレディ・メイドの例外である。単なるスキャンダラスな側面からのみそれを理解してしまうことは、レディ・メイドの核心を捉え損ねかねない。

本論での論点を明確にするために、強いて<代表作>をひとつ上げるとすれば、それは何か。無論『泉』や『L・H・O・O・Q』ではないが、『自転車の車輪』ですらない。レディ・メイドの原理に基づけば、それは1916年2月17日にニューヨークで購入された犬用の鉄製の『櫛』である。この何の変哲もない櫛について、後年デュシャンはインタヴューに応えて言っている。「これをレディ・メイドとして選んでから48年になりますが、その間この小さな鉄の櫛は真のレディ・メイドの特徴を保ちつづけてきました。つまり、美しくもなく、醜くもなく、とくに美的なことなど何もない……この48年というもの、盗まれるということさえなかったのです」。

3.

趣味とは、社会的な重圧による苦痛から一時的に人間を解放し和らげる麻薬であるかのようだ。その陶酔は、趣味を構成する商品へ注がれるフェティッシュな眼差しそのものからもたらされる。このことは、商品社会の矛盾そのものであるようにおもえる。なぜなら、趣味は、商品から疎外された人々の不満を解消するために、それを構成する商品そのものが人々にフェティシズムを植え付けるからである。一度でもその魅力にとり憑かれた者は、くりかえしそれを求める。消費が生産とともに社会の重要なファクターとなりつつあった時代に、フェティシズムが生活様式を覆い尽くそうとするまさにそのとき、レディ・メイドは、夥しい複製嗜好品──キッチュ──の胎内で息づき始める。

レディ・メイドの「選択」が行われるのは、このようなフェティシズムが社会全体を覆い尽さんとする最後のその瞬間-特異点であるように思われる。最後の瞬間-特異点とは、フェティシズムが芸術を呑み込むその瞬間のことだ。というのも、芸術が数値化されない価値(質)を有するがゆえに、価格を持つ商品にはなり得ない領野だと看做されてもきたからである。貨幣による商品交換が成り立つためには、事物は特殊であり有限でなければならない。同様に所詮は特殊で有限な事物にすぎない芸術作品ではあるが、普遍性-無限性という問題を抱かえてきたがゆえに、一時期の価値へ画定されることには馴染まないものがあった。

レディ・メイドはこの領野に、有限なものにすぎない既製品を、他の誰でもない芸術家自身が持ち込む。一瞥するだけでは、レディ・メイドは芸術をキッチュに貶めるという悪しき貢献を企てたかのようだ。しかしまさにその瞬間、つまり芸術家が既製品をレディ・メイドとして「選択」するそのとき、商品のフェティシズムが芸術を取り込むことの不可能性を露呈するのである。

レディ・メイドによる既製品の芸術への導入は、コラージュ作品などに比して徹底しているために、社会がそう望む消費可能な芸術(のイメージ)とは齟齬をきたす。レディ・メイドはどのように見ようが既製品の実物にすぎないからだ。しかしこの行為は、商品交換の中での、消費対象としての特殊で有限なものと、消費不可能な普遍的で無限なものとの間で起こる矛盾を極端に突くがゆえに、芸術の担保として投影される未来の価値に走るであろう亀裂を、<今・ここ>において先取りしてしまう。つまり、芸術と社会の関係をほぼ完璧に「切断」するかのようである。だが、これはレディ・メイドが真正の芸術であるということではない。芸術(美術館)という制度が何らかの社会的なコンヴェンションを常に必要としている以上、それを決定的に切断するレディ・メイドとは、原理的にはもはや芸術とは言えないものなのだ。それは芸術の<終わり>だろうか。

別の見方をすれば、レディ・メイドの「選択」の瞬間は、芸術の領野で劇的に行われるのではない。ほかでもない生産と消費の交換される欲望の交差路、すなわち「ショーウィンドー」に陳列された無数の商品群のひとつに向けて、百貨店の中で唐突に下されるのだ。「視覚的無関心」としての眼差しをただ向けるだけというこの行為は、しかし商品からすれば思いもよらなかったことだ。商品のフェティシズムが芸術をキッチュに様変わりさせるかのようにみえる消費社会の中枢で、「美的楽しみには決して左右され」ない、「視覚的無関心という反応に、それと同時に……趣味の完全な欠如……完璧な無感覚状態での反応に基づいて」、商品が所有されるからである。

商品に向けられたこの「視覚的無関心」としての不毛なる眼差し、つまりは抽出されたこの「選択」こそ、商品世界への一撃となり得る一瞬である。なぜならこの行為は、商品世界が仕組むフェティシズム(部分欲望)の連鎖──「習慣性の麻薬」──を断ち切ることになるからである。レディ・メイドとして商品が選択されることに意義があるとすれば、おそらく商品世界での、この一瞬の局面においてだけだ。この瞬間は、商品世界を構成する商品が、その無用性を暴露され、機能停止する一瞬であり、同時に別の次元へ位相変換される一瞬でもある。それは商品の<終わり>だろうか。だとしても、この無関心の眼差しの一撃とフェティッシュな陶酔との微細な、だが決定的な差異をいったいどのように見分けるというのか。

4.

「自転車の車輪」を台所用の椅子に逆さに取り付けた事物を、もっぱら<楽しみ>のために制作した──それは未だレディ・メイドと命名されていなかった──と言われている1913年にデュシャンは、既に「商品」という事物の存在についてさまざまな思索に耽っていたようだ。メモにはその形跡が認められる。「大ガラス」のもう一方のメモ『不定法で(ホワイト・ボックス)』には以下のように記されている。

「『芸術』でないような作品をつくることができようか。
ショーウィンドーの問い、ゆえに
ショーウィンドーの尋問を受けること、ゆえに
ショーウィンドーの要請、ゆえに
ショーウィンドー、つまり外部世界の存在の証し、ゆえに
ショーウィンドーの尋問を受けるとき、自分自身の<有罪判決の宣告>もする。実際、選択は往き戻る。
ショーウィンドーの要求から、ショーウィンドーに対する不可避的返答から、結果として選択の停止が出てくる。ショーウィンドーの一つまたはいくつかのガラス越しに交接することを隠そうと、背理法を使って躍起になることのないように。所有が完遂されるやいなや、ガラス[鏡?]を横切ることに、後悔することに苦痛が生じる」。

上のメモの「選択の停止」という箇所の「選択」とレディ・メイドの「選択」を混同してはならない。これまでの文脈からすれば、上で言われている「選択」とは、むしろ「趣味の完全な欠如」における「趣味」そのことであると考えた方がよい。それからすればレディ・メイドの「選択」とは、このメモにおいては「停止」のことだということになる。このように捉え返すことで、押し付けがましく繰り返されるショーウィンドーの「問い」への「不可避的返答」として、趣味によって商品を「選択」するのではなく、むしろそれを「停止」しようとするデュシャンの「意図」が見えてくる。つまり、レディ・メイドがこのときはじめて「『芸術』でないような作品をつくることができようか」という問いに応えるものとして立ち現れてくる。

このことは、ショーウィンドーの「ガラス越しに交接することを隠そうと、背理法を使って躍起になることのないように。」という注意書きが添えられていることからも了解できる。ある商品を選択するという「判断」を否定するということ、つまり「趣味」を否定する「停止」という行為が<真>であるとすれば、そこから導き出される商品(既製品)がそれだけでレディ・メイドになるという奇怪な結論──「『芸術』でないような作品」──とは、「趣味」もしくはキッチュの「完全な欠如」による「選択」のみに基づいた、<原判断>であると言えるからである。それゆえに、レディ・メイドは商品(既製品)である必要があったのであり、同時に「選択-停止」としての「所有が完遂され」なければならなかったのである。この事物と選択が乖離しつつ、しかし同時に一つのレディ・メイドとしてあることが、美術館に展示されたレディ・メイドから受ける既製品(商品)の奇妙なよそよそしさの原因ともなっている。

美術館におけるレディ・メイドの奇妙なこのよそよそしさは、未だ所有されてはいないが、しかしそうなり得るかもしれぬ「可能なもの」としての「ガラス越し」の商品の、あのどっち付かずのよそよそしさと同質のものである。事物としてのそれは、商品であろうとレディ・メイドであろうといささかの変化もないからである。指摘すべきは、レディ・メイドとされた既製品(商品)は、展示されたことで再び鑑賞者のもとへと「選択は往き戻る」──鏡の効果?──そのことである。だがデュシャンによれば、ショーウィンドー越しの商品を眺めるのとは異なり、レディ・メイドを「横切ること」で鑑賞者には「苦痛が生じる」のだという。そのような苦痛が鑑賞者に引き起こるのは、この「ガラス」の存在──事物と選択の乖離──が、レディ・メイドにおいても解消されてはいないからである。というよりも、美術館でのレディ・メイドでは、そのことが前景化されているのだ。

勘の鋭い鑑賞者であれば、ここでひとつの疑問が湧く。その疑問とは次のようなものだ。単なる商品が、美術館において「ガラス越し」にあることで芸術と看做されるということは、それが一見ラディカルに見えようとも、実は芸術における社会的なコンヴェンションをやはり前提にしているからではないかと。この指摘は一面で正しく、根本でレディ・メイドの機能を捉え損なっている。レディ・メイドは、確かにそうしたコンヴェンションと関わりを持っている。しかし、レディ・メイドで問題とされているのは、単なる既製品(商品)がそのようなコンヴェンションを拠り所に芸術になるなどということではなく、反対に単なる既製品(商品)が美術館に持ち込まれたがゆえに、むしろコンヴェンションの機能が浮き彫りにされるということなのだ。つまりレディ・メイドとは、商品(特殊で有限なもの)と芸術(普遍的で無限なもの)を巡る社会的なコンヴェンションという代数に代入された「係数」のことにほかならないというわけである。しかし、レディ・メイドという「係数」が代入された場合、その解──芸術として認めるべきか、そうでないか──は、あたかも循環しない無限小数のように決して割り切れることはない。しかし割り切れないということは、その数式のどこかに不透明な隔たりが存在しているということである。既に指摘したようにレディ・メイドはこの「切断」を暴露する。それゆえに、認否の臨界が取沙汰されるのである。レディ・メイドの機能とはこうしたものであり、それこそがデュシャンの言う「『芸術』でないような作品」の意味するところのものである。

したがって、美術館でレディ・メイドを横切ることが、鑑賞者にとってなぜ「苦痛」となるのかは、今や明らかであろう。たとえ鑑賞者が意識せずともその行為は、一方で「ショーウィンドー」が──割れる、割れないの間隙で宙吊りになる──亀裂という「可能なもの」をも含意することになるからである。つまり、もし鑑賞者がレディ・メイドに無感覚な眼差しを向けつつ退屈なものだと判断したとすれば、それはデュシャンがショーウィンドーの向こうの商品(商品世界)に向けたあの戦略的な眼差しと、まったく同質のものとなるからである。あたかも「大ガラス」のガラス越しの鑑賞者と交わしたあの眼差しのように、レディ・メイドにおいては「選択は往き戻る」のだから。「その準備が整っているか?」、鑑賞者に向けられたレディ・メイドの、あるいはデュシャンの「問い」とはそのようなものだ。趣味の停止、それを知ることこそが、「自分自身の<有罪判決の宣告>」なのである。

1913年に書かれた別のメモに、デュシャンは次のように記していた。「(不可能なものの反対のものとしてではなく、ありそうなことに対する相対的なものとしてでもなく、ほんとうらしいものに従属するものとしてでもない) <可能なもの>は、美学的なもの美的なものすべてを焼き尽くす」。だが、そのことにあまり「躍起になることのないように」。これがレディ・メイドの教訓であった。「選択」を濫用すれば「習慣性の麻薬」へと堕するからであり、ゆえに「苦痛」は麻痺してしまうだろうから。レディ・メイドは、「ガラス越し」の「可能なもの」として宙吊りとなって、周到に<準備>されていなければならないものである。

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