2005.02.14 北川裕二

革命を俟つ櫛の方へ

<創造-鑑賞過程>のマルセル・デュシャン

芸術係数
1.

マルセル・デュシャンが現代美術に及ぼした影響は広く知られている。アンドレ・ブルトンの『花嫁の燈台』(1934)からいとうせいこう氏の『55ノート』(ウェブ上で現在も進行中)に至るまで、文学者や批評家たちもまた、彼の芸術について多くを語ってきた。デュシャンについてはもはや付け足すべきことは、何もない。確かにそのように見える。しかしもしその通りだとしても、国立国際美術館を皮切りに始まった巡回展『マルセル・デュシャンと20世紀美術』展(横浜美術館)のように、現代美術が今や出来の悪いエンターテイメントに成り果て、それすらも飽きられようとしているまさにそのとき、今更ながらそうした動向にデュシャンの作品を迎合させていったい何になるというのか。逆に言えば、デュシャンをわれわれの下に奪回するためにも、それへの批判も含めて、彼の作品をどのような視角で捉え、核心を抽出するのかといった課題は、研究者や批評家以上に作者たろうとするものの責務ですらあるようにおもえる。言うまでもなく、デュシャンの全作品を一貫した観点の下で詳細に論じるのは、長大なプロジェクトにならざるを得ない。したがってこの小論では、デュシャンの<代表的作品>と看做されている「大ガラス」とレディ・メイドに照準を合わせ、その核心に近づくための観点を指摘するに留める。

私がこの小論で中心に据える作品分析のための概念用語は主に、1957年ヒューストンで行われたアメリカ芸術連盟の会議に出席したデュシャンが口頭で報告したテクスト、『創造過程』の中で言及した「芸術係数」である。デュシャンによれば「芸術係数」とは、「芸術家が決して意識しない差異」として「創造過程」に関与することとなる「表現されなかったが、計画していたもの」と「意図せず表現されたもの」との「算術的関係」のことだ。このような問題設定が、本稿を特殊なものにせざるを得ない事はもちろん承知している。しかし、この図式は半世紀以上に及んだ彼の芸術観を端的に示していると私には思える。加えて、デュシャンに関する言説は、時に取り留めのない衒学的な饒舌を反復するという悪しき習慣に陥っているように感じられる。これを一旦切断してみてはどうか。それにはさしあたって、デュシャンの言葉をその作品に当て嵌めてみるのがよいように思われる。

ところで、デュシャンのこのテクストでは、芸術家の「創造過程」に対応する鑑賞者のそれを「変質過程」としている。デュシャンによれば、鑑賞者の「変質過程」とは、「鑑賞者固有の仕方で創造過程に参与する」ことなのだが、一方芸術家自身の「芸術係数」は、そうした「鑑賞者の審判にいかなる影響も与えない」。しかし、デュシャン自身はこのテクストでそこまで踏み込んではいないのだが、それは明らかに<鑑賞過程>という対概念に展開できる。つまり「鑑賞過程」とは、「見ることはできなかったが、見たかったもの」と「意図せず見たもの」との「算術的関係」であるというように。したがって、本論で応用される「芸術係数」とは、これら四項に展開された「算術的関係」を意味するだろう。このような図式に展開するのは、デュシャンがこのテクスト(またはインタヴューなど)で、芸術は最終的に鑑賞者(後世)によって完成されると、再三表明しているためだ。

それゆえ展開された「芸術係数」の図式に基づけば、「作品を見る」ということは、作品中の「意図せず表現されたもの」と鑑賞者の「意図せず見たもの」が接する局面に注目し、その関係を捉えるということになる。だからと言って、「見ることはできなかったが、見たかったもの」が、鑑賞過程に関係せず影響を及ばさないなどということはない。事態はその逆でさえある。「見たい」という欲望は、作品を見る以前も以後も、作品を貫いて止むことのないものだと考えられるからである。こうした欲望が、「作品を見ている」という<今・ここ>といかなる関係にあるのかを探ることは、決して無益なことではない。

一方、「表現されなかったが、計画していたもの」は、「表現されたもの」全体の中の、「意図せず表現されたもの」以外と関連がある。つまり芸術家が「表現しようと思って計画し、実現可能となった部分」との関連である。それゆえ、「表現されなかったが、計画していたもの」と、「意図せず表現されたもの」は一見何の関わりも持たないということにもなる。けれどもデュシャンは、この「切断」に対して、「生の状態の芸術の個人的表現」における「連鎖の環の一つが欠けている」といった関係(無関係)として捉え返している。したがって、「芸術係数」とは、この欠けた環の解を求める「算術」のことだとも言えよう。

こうしてみると、デュシャンの関心がいかに特殊なものであったかが見えてくる。デュシャンが<創造-鑑賞過程>の中の、ある特異な局面とその機能に関心を寄せていたことが窺えるからである(「係数」とよばれる所以である)。その機能とは、当初計画していたものからすれば、作品が芸術家に対して、「決して意識しない差異」を生む何かとして立ち現れてくるということだ。翻って言えば、このことは、鑑賞者が作品を自己のものとしていく過程でもあるだろう。しかしデュシャンの関心は、むしろ<創造-鑑賞過程>全体の分裂を──彼特有の数学への関心から──「算術的関係」として把握しようということにあった。だが、『創造過程』でのデュシャン自身は、では「芸術係数」とはいったいどのような数式なのかという疑問には具体的には応えていないため、作品分析を通じて帰納的に導き出されなければならないということでもある。彼が芸術家であった以上、この関心は主に実際の制作で試行されたように思われる、たとえそれが、「表現されなかったが、計画していたもの」として終わったのだとしても。

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