2005.01.21 北川裕二

ぶらつくオートマティスム

シュルレアリスムと写真

3.

ブルトンは『宣言』に先立つ『霊媒の登場』(1922)というエッセーで、エクリチュール・オートマティックでの「書き取り」の速度を意識的に変える「速度の転換」に触れています。これは、カメラにたとえれば、いうまでもなく「シャッター速度」に該当します。塚原史によれば、ブルトンはこの速度を5段階に分けて設定していたと言います。

(1)速度V(非常に速い)
(2)速度V’(Vの1/3程度、それでもひとがたとえば子供時代の思い出を語るときのふつうの速度の二倍)
(3)速度V’’(Vよりはるかに速い)
(4)速度V’’’(VとV’の中間)
(5)速度V’’’’(最初はVとV’’’の中間、最後はVとV’’の中間)
(『ダダ・シュルレアリスムの時代』2003)

あたかもカメラの「シャッター速度」に関する解説を読んでいるかのような錯覚に陥ります。ここで踏まえておきたいのは次のことです。撮影者が「シャッター速度」を速めて撮影すれば、輪郭は鮮明に写し出され、客体の位置を捉えることができますが、それぞれの動きは停止してしまいます。反対に遅くすれば、輪郭はブレて、客体の位置を捉えられることはできませんが、それぞれが確かに動いていたことを知ることができるということです。ここからわかるのは、写真とは、この「位置を捉えれば、動きは捉えられない」と、「動きを捉えれば、位置は捉えることができない」という認識論的な不確定性の下にあって、同時に、存在論的には「何パーセントかは白く、かつ黒い」ものであるということです。

一方、エクリチュール・オートマティックで、この「位置」と「動き」に該当するものは、語の論理的な配置と比喩的な振幅──「際だってイメージに富み、完全に正確な構文」と「省略に訴えねばならないほどの速さ」(『霊媒の登場』)──のことであり、「外部」とは、形象としての「文字」を含む、書き取られた文の伝達(読解)不可能性に該当する部分のことです。無意味の坩堝から意味が生成するのか、意味の中で無意味が散乱するのかを問うことは、それ自体興味深いことです。しかし今、ここでの「文」とは、さしあたってその内部に「外部」が確率的に立ち現れてくるもの以外ではありません。無論、言語を化学的に変質する──置き去りにされた痕跡=印画としての──物質として認識しようとすることは、シュルレアリスト(ブルトン)が、身をもって体得すべき技術として、アルチュール・ランボーの「言葉の錬金術」を継承するということです。シュルレアリスムが、小説より詩を重視していたのは、このためだったのではないでしょうか。

事実、エクリチュール・オートマティックの実験は、「さまざまな幻覚をともないはじめ、日常生活に支障と危険がおよぶようになったために中断せざるを得なかった」と伝えられています。つまりこのことは、言語が、文字通り化学的な物質、すなわち<薬物>として身体機能を変質させ、生活の脈絡を組み換えてしまう地点にまで身を曝す危険について語っているのです。これこそポエジーの現実的脅威でなくてなんでしょう(「人間の無意識に道を開いて進む」とは、こうした危険と裏腹であることを肝に銘じておくべきです)。言語を<薬物>として捉えるシュルレアリストのこの視点は、アルトー、ツァラなどはもちろん、バタイユ、ベンヤミンなどに共通したものだったのではないか。彼らのファシズム批判は、おそらくこうした言語の薬物性に関わる体験・分析・批判──薬物としての言語の使用法という技術的な問題──との関連を通じて捉え直す必要があるようにおもわれます(確かに「写真」とは、現像液やら定着液やらの薬物反応の別名でもありました)。

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