2005.01.21 北川裕二

ぶらつくオートマティスム

シュルレアリスムと写真

2.

意識(理性)が裏切られるのは、それをそうたらしめる何かが働いているからだろうが、意識(理性)それ自体が、このことを無媒介的に認識することは、もはやできない。なぜならこのことを認識するには、「カメラ・アイ」、つまりエクリチュール・オートマティックが、「先取りされた事実」を焼き付けねばならなくなったからです。作品に即して言えば、このことは、時に異様なほど精緻で鮮烈な映像(記憶像)──それは芸術──を産む反面、一歩踏み外せば単にゴミになり果てる──たかだか一枚の写真に過ぎない──ものであるほかはないということを意味しています。問題は、エクリチュール・オートマティックによる「作品」が、しかし実験の特性上、本質的に制御不能であり、判断不可能な代物だということです。

したがって、それゆえに作品を枠づける「外部」が召喚される。そうでなければ、それは「作品」となる契機を失いかねません。「狂気」──偏執狂の常軌を逸した部分への執着──が、直ちに作品にならないのはこのためです。むしろ「狂気」が作品となるためには、激烈に絶叫しつつも、同時に、それを厳密にフレーミングしていなければならない。つまり芸術作品は、客体を認識する際の不確定性を孕んで開かれつつ、同時に閉じて(完結して)いなければならないということです(「メディウム」の問題はここに浮上します)。作者は、この根本的な分裂を生きなければならなくなりました。しかし、この際どい局面の臨界においてこそ、オートマティスムが作動するはずであり、デペイズマンによる「出会い」がもたらされるはずであり、シュルレアリストの「遊戯」または「発明」のあれこれの、その真価が問われもするはずなのです。

シュルレアリスムの、この局面の臨界は、ひじょうに混み入っており複雑です。というのも、「外部」を召喚する者が、実に奇妙な他者性を帯びたものの名として「登場」するからです。それこそが彼らによって「霊媒」とよばれたものです。「それぞれの谺のえがく意匠に心をうばわれたりはしない謙虚な記録装置」とは、まさに自己の身体に他者の人格が憑依することであり、いずこから到来する他者(=無意識)の声を収録し、言葉を書き取るオーディオ装置=メディウムのことにほかなりません。

厄介なのは、この場合の「外部」が、エクリチュール・オートマティックを実行する者それ自身に関わっているというところにあります。いうまでもなくこの者は、書き取った言葉それ自体に、もはや責任を負うことはできません。なぜなら、ペンを取ったのは彼ですが、彼はオートマティックな「霊媒」であり、書き取られたメッセージは、作者のものではないあずかり知らぬ誰かのものだからだ、ということになるからです。そもそも「どんな濾過作業に身をゆだねることなく、私たち自身を、作品のなかにあまたの谺(こだま)をとりいれる」などということを目的としたからには、事態が簡単に解決されるわけもありません。

ところが、ここには見過ごせない転倒が存在するのです。つまり、意識(理性)は自らの無意識を無媒介的に認識することはできない。しかし、他者の無意識であれば、フロイトの精神分析がそうであるように、ある程度までは認識可能です。<私>の無意識は「他者(の言語)」にしか宿らない。だとすれば、シュルレアリスムのオートマティスムで真に問題となっていたのは、次のことではないか。すなわち、「他者(の言語)」が、<私>の無意識を「書き取る」ことを通して、むしろ意識(理性)の外部性、つまりはエクリチュールの物質的「現実」──唯物論的な因果関係──を明らかにすることで、「根本的な分裂」を解消することだったのではないかと。どういうことでしょうか。

写真にたとえれば、このことはより明快になります。写真における「外部」とは、露光(感光)に失敗したもののことです。真っ白な、もしくは真っ黒なものは、もはや写真とは呼べません。写真とはまず、それらの間に存在するもののことです。興味深いのは、写真では、写真装置のメカニズムの函数的な関係──唯物論的な因果関係──が、その中に確率的に立ち現れるということです。つまり、写真における「外部」は、それ自身の機能として、「内部」が滲むように浮き出てくるのと同時に、必然的に立ち現れてくるのです。写真は常に、何パーセントかは白く、かつ黒い。光はあまねく降り注ぐ。しかし、写真においては影もまた、あまねく落ちていることを私たちに気づかせるのです。それは文字通り化学的な<濃度>の問題です。ゆえに、写真は既に「根本的な分裂」を解消していると言い得ます。

勿論、映像が印画紙に焼き付けられるのも、感光が化学的反応であるがゆえに、必然です。けれどもこの必然は、ベンヤミンの言うように、あたかも「一粒の偶然」のように焼き付けられる。なぜならこの必然は、そもそも常に事後的に知るか、知れないかのどちらかだったからです。したがって、そこに宿るだろう「未来のもの」を読む取る<私>の「視覚的無意識」の存在は、メディウムのこうした工程を経て知覚が変容されなければ、決して知らされることはないというわけです。

ブルトンは『狂気の愛』(1937)の中で、こうした現象を「客観的偶然」と名付け、明確に定義しています。すなわち「偶然とは、人間の無意識に道を開いて進む外的必然性の顕現形態であろう」というのが、それです。そして、この「客観的偶然」による出会いが、ブルトンにとってエクリチュール・オートマティックの実践においてのそれでもあるのだとすれば、彼にとっての言語──エクリチュールの物質的「現実」──とは、この「外的必然性」が「人間の無意識」を切り開いていった後に、置き去りにした痕跡のことであり、印画のことだったと言えるのではないか。つまりそれは、自然に対して常に既に遅延しているがゆえに、そこを通過していったであろう何物かを指し示す(知らせる)「信号(signal)」あるいは「暗号文」(『ナジャ』1928)となる、と同時に、まさしく「道(道筋)」それ自体でもあるようなもののことではなかったかということです。したがって、無媒介的には捉えられない「外部」としての無意識は、この印画の内の<影>として、はじめてその存在を知らせるということになるのです。

そうだとすれば、この場合の「偶然」とは、痕跡=印画としての言語が、自然から置き去りにされたがゆえに、他方で、必然性の重力の魔からあたかも自由となって宙吊りとなり、「浮遊する」(レヴィ=ストロース)ということ──指し示しの恣意性と交換の自律可能性──を含意していたとさえ、捉え直せそうです。しかし、これらの浮遊がオートマティスムとして意義あるものとされるのは、そうたらしめる「野生(sauvage)」(『シュルレアリスムと絵画』1928)の与件が、同時に<確率的に焼き付けられている>限りにおいてであって──(というのも、そうでなければ所詮は単なる記号の戯れ、アレンジメントのヴァリエーションに終わるわけですから)──、シュルレアリストの場合、このことは、連鎖する記号のあれこれが解きほぐされ、再び連合されるだろう夢見る「眠り」──つまり、暗室!──に入るということを意味します。『通底器』(1932)の、「外的世界と内的世界とのあいだに生じうべきコンスタントな交換を保証する」であろう「毛細繊維」とは、おそらくこうした「客観的偶然」の下での、ブルトンの言語観を表したものでもあるのに違いありません。

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