2005.01.21 北川裕二

ぶらつくオートマティスム

シュルレアリスムと写真

四谷にあるギャラリー『OBJECTIVE CORRELATIVE』で、『Spiritual Exercise』(2004/9/14〜10/2)という展覧会が催された。この展覧会の最終日(10/2)、前世紀前半の写真について討論するシンポジウム「Visual Artの三十年代」に、私はパネラーのひとりとして招かれた[*1]。既に3ヶ月あまりの月日が経ってしまったとはいえ、このシンポジウムでの発言内容を受けて、シュルレアリスムと写真の関係について簡略的にまとめてみたいとおもうようになった。4回に分けてそれについて述べてみたい。
1.

写真に写し出された映像は、カメラによって撮影され、現像過程を経た後、私たちのもとに送り届けられます。したがって、写真における事実性とは、常に事後的にしか知ることのできない「先取りされた事実」として認識されるほかはないというものです。このように、あたかも事実が捻れてしまったかのような認識がもたらされるのは、端的に言えば、かつて肉眼で見たはずのものと印画紙に焼き付けられたものとには、どこかに奇妙な差異があり、記憶にないものが写し出されていたからでもありました。さしあたってそれは、肉眼による認識力の限界を露呈してしまったというように言えるとおもいます。主体によって捉えられた客体の事実性は、ときに存在の疑わしい曖昧なものとしても、また反対に、主体を揺さぶる驚異的なものとしても立ち現れてくる。このように捉え返してみると、写真が次第にシュルレアリスムの「思想」に接近してきます。

アンドレ・ブルトンは『シュルレアリスム宣言』(1924)の中で、「心の純粋なオートマティスム(自動現象)」に基づくシュルレアリスムについて辞典風に定義した後の箇所で、こう述べます。オートマティスムを実践する主体は、「どんな濾過作業に身をゆだねることなく、私たち自身を、作品のなかにあまたの谺(こだま)をとりいれる無音の集音器に、しかも、それぞれの谺のえがく意匠に心をうばわれたりはしない謙虚な記録装置」であると。これが、シュルレアリスム的自動記述(エクリチュール・オートマティック)を実践する主体のあり方です。ロザリンド・クラウスは、1920年には既に、ブルトンはオートマティスムに関してそうした認識をもっていたとし、同じ年のエルンストのフォトモンタージュ『ファタガガ(Fatagaga)』を紹介する彼のテクストの一部を引きます。「自動記述は十九世紀末に現れたのだが、それは思考の真の写真なのである」。

こうした認識が芽生えるためには、写真に代表される「複製技術」によって媒介され、送り届けられる映像が、知覚を変容させることを通じてであると言って、考察の対象にしたのが、ヴァルター・ベンヤミンでした。周知のように、『写真小史』(1931)の有名な箇所でベンヤミンは、このような現象、すなわち写真(装置)を媒介にしてようやく知られることになった映像を「視覚的無意識」とよびます。

こういう写真を見るひとは、その写真のなかに、現実がその映像の性格をいわば焼き付けるのに利用した一粒の偶然を、凝縮した時空を、探しもとめられずにはいない気がしてくる。その目立たない場、もはやとうに過ぎ去ったあの分秒のすがたのなかに、未来のものが、こんにちもなお雄弁に宿っていて、われわれは回顧することによってそれを発見することができるのだから。じじつ、カメラに語りかける自然は、眼に語りかける自然とは違う。──(略)──こういう視覚的無意識は、写真を通じてようやく知られるのだ──ちょうど、情動的無意識が、精神分析をつうじて知られるように。

しかし、「その目立たない場、もはやとうに過ぎ去ったあの分秒のすがたのなかに、未来のものが、こんにちもなお雄弁に宿っていて、われわれは回顧することによってそれを発見することができる」とはいったいどういうことでしょうか。見覚えもなく記憶にもない「未来のもの」が、しかし、確かに写真の「過ぎ去ったあの分秒のすがたのなかに」刻印されているという事実の確認。それは、BであるかもしれぬAという客体の不確定性を認識するということです。

1920年〜30年代にかけて、こうした客体の不確定性をいかに確保するのかが、重大な問題として立ち現れてきます。事実性の獲得はそれにかかっている。というのも、あからさまに真実である──それはAである──とだけ知らされるような類のもの、例えば報道写真のごとき「真実の映像」というものが、時に事実を歪め、知らせず、隠蔽さえするいかにも疑わしいものであるということが、この時代に自明となってきたからです。事実は、それ自体複雑な仕組みを考察する果てに獲得する何物かである、ということを余儀なくされたのです。言い換えれば、媒介された映像の氾濫の中にあって、さりとて、もはや肉眼を素朴には信用することもできないという下での事実性とはいかなるものかということです。

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