2003.07.13 北川裕二

「限界」の技術へ向けて

セキュリティ部族社会を脱するための

2.

鶴見は「限界芸術」のみならず、「限界政治」「限界学問」といったカテゴリーで捉えることのできるさまざまな活動を生活のなかに見いだし、この概念を適用し拡張していく。「著者自身による解説」のなかで鶴見は次のように言う。「他にも、たとえば、くらしとも見え技術とも見える部分もあるだろうし、そこのところをレヴィ・ストロオスは『ブリコラージュ』(手仕事)の領域と呼んだのだろうが、私としては、限界政治としてのアナーキズムと声なき声、限界学問としてのサークル活動、限界芸術としてのらくがき、雑談、アダナ、かるたとりなどが、主な関心となった」。この発言にわたしたしちは注目したい。なぜならこのことは、鶴見が、もっぱら「限界芸術」「限界学問」「限界政治」を中心に執筆活動ないし運動を繰り広げてきたのであり、「くらしとも見え技術とも見える部分」、つまり「限界技術」については積極的には関わってはこなかったということを言明しているからだ。それゆえわたしたちは、やり残されたこのmargin=欄外にこそ、むしろ「限界芸術」の可能性をみたい。というのも、鶴見が取り上げた芸術、政治、学問という領域は、今やテクノロジーの「進化」との関係を抜きにしては語ることができず、それどころか翻弄され、あたかもテクノロジー崇拝の中毒症状を引き起こしているように見受けられるからだ。「技術革新」に貢献することで延命を図る学問(大学)、その成果の成り行きによって権力を恣意的に行使せざるを得ない政治、スピン・アウトした技術のいち早い利用を新たな表現とはき違える芸術。つまり、テクノロジーの「進化」は、鶴見がこれを書いた1960年から大きく様変わりし、破滅的なほど人間を退化させてしまっている。その「進化」は、全体像を見極めることが益々困難なほど巨大で不透明な、ということは──いかなる者もそれを一望できず、したがって制することもできないという意味で──「透明の巨人」(ブルトン)と化しているのだ。テクノロジーはもはや「人間拡張の原理」(マクルーハン)なのではなく、「人間縮小の原理」であるといっても、あながち言い過ぎではない。

それにしても、テクノロジーが人間・地球にとって、またテクノロジー自身にとって、「限界」として立ち現れる地点とはどこか。例えば、巨大な生産力をもつ機械がもたらす事故は、人間ひとりがふるうことのできる力を遥かに越えたものとなる。制御不能となったテクノロジーは、目的から切断され、そのものとは別の巨大な恐怖をもたらす何ものかへと変貌し、惨劇をひきおこしてしまう。このようなアクシデントを、事前に予測し防御するために開発される自動化したセキュリティ・システムとは、この新たに産み出される何ものかから拡がる恐怖の波を祓うためにこそ機能する。高級住宅の玄関先に貼り付けられた警備会社のシールとは、現代の新種の魔除けなのだ。このことは、現在のテクノロジーが「技術の技術」として、象徴的な段階に達しているということを示唆している。それは、わたしたちが何ものかを認識し、象徴に高めるのではなく、むしろ象徴の機能によって存在が規定され、保護されているがゆえに、何ものかを見る必要がないということだ。今や見ているのは戦場のカメラであり、店内の、あるいは玄関先の防犯カメラである。しかし、実はカメラでさえ見てはいない。というよりも、カメラは見てはいないことを映し出す。つまり、何事も起こらない殺伐とした映像とは、身の回りのどこにも危険がないかのように、<治安>が遍く行き渡っているということを知らせる<わたしたち>の「共同の表象」(バタイユ)である。惨劇から伝播する呪いを祓う魔除けの儀式とは、現代ではこのようなものに移行しているのだ。重要なのは、テクノロジーが、もっぱらテクノロジー自身の「進歩」のために、常にそうした<わたしたち>の「共同の表象」を必要とし、それを<わたしたち>があたかも自ら望んでそうしているかのような錯視を促すということにある。

このシステムはまた、高性能のテクノロジーに、子供向けとしかおもえないキャラクターの氾濫するイメージ群を合わせることよって、わたしたちの想像力や分析力ないし総合力を破壊する。一方の防犯カメラの殺伐とした映像は安全を、他方の幼稚なイメージ群は安心をそれぞれ表象しながら、このセキュリティ・システムを補完しているというわけだ。つまり、セキュリティ・システムは、人々をテクノロジーの中においてしか生活が営めないよう囲い込み、いわばセキュリティ部族社会とでも呼ぶべき社会──そこでは誰もが保護を必要とするか弱い子どものままか、新たな「未開人」──を形成するのだ。しかし、事態はさらに深刻のようでもある。というのも、防犯カメラの映像や幼稚なイメージ群さえ不要のものとするセキュリティ原理主義が台頭しつつあるからだ。あらゆるセキュリティ・システムを携帯電話の端末の操作よって、集中的に管理しようとする動きがそれだ。他者との会話、メールはもちろん、マンションの玄関、自動車のドア、金庫の扉、クレジットの決済、空調の調節や音楽の配信、あるいは各種労働にいたるまで、思いつくありとあらゆるものが、今後携帯電話に集中するはずだ。というよりも、既に集中しているのだ。こうした社会においては、生とは、携帯電話の操作の別名である。これは多様なセキュリティ・システムに頼らざるを得なくなった、セキュリティ部族社会の窮状を端的に示している。しかも、この部族社会の成員が肩を寄り添わせる根拠となる恐怖は、テクノロジーそれ自体がもたらすlimitとしての「限界」であるアクシデントから伝播するということは既に指摘したとおりだ。巧妙でもあり、ばかばかしくもあるこうしたからくりの内部──まさにそこには内部だけしかない──においては、鶴見のいうmarginalな文化は、無用のものとして排除されることになる。なぜならテクノロジーは、原理的に無数の営みの中で常に最も優れた営み──営みを否定する営み──であるほかないからだ。しかるに、こうした無菌の衛生状態が続くことは、身体や生活ないし社会における抗体を確実に弱め、益々テクノロジーへの依存を余儀なくさせることになる。だとすれば、このシステムに起こるアクシデントが部族社会に致命的な打撃を与えた場合、待ち受けているのは、<外>への想像力を欠いた無媒介的な暴力であるほかはない。

翻って言えば、このシステムは、そうした恐怖に怯える人間に対してではなく、むしろ生産力の枢軸たるテクノロジー自らを守るために開発されているともいえる。国家機関による治安とは、まさにこのことである。軍・警察による技術的暴力は、外に向けられると同時に常に内にも向けられているということを忘れてはならない。社会が混乱状態に陥ったとき、軍・警察が治安のためと称して執る手段は、わたしたちの身の安全を保障するのではなく、むしろその逆である場合が多い。軍・警察は事態を力づく、ないし、あの手この手で封じ込み、あるいはキャンペーンなどで煽ることさえして、テクノロジー──そして、それを稼動させると同時に、むしろそれ以上に当のものからせき立てられる資本──を叛乱する<群衆>から護衛するのだ。

テクノロジーは今や、世界や人々や、国家機関や資本制大企業のためですらなく、自らのためだけに生産力を更新していく。テクノロジーは自らを生産し、自らを護持する。テクノロジーは、現在よりもさらなる生産力を自らに課し、その技術開発によって「技術の技術」を産出し、これを管理し続ける宿命にある。しかし、ということは、テクノロジーは、常に新たなlimitとしての「限界」に遭遇するということでもある。なぜなら、常に新開発されたテクノロジーが古いテクノロジーの限界を示し、駆逐し、それにとって替わるからである。テクノロジーのlimitは、その使用者においてではなく、テクノロジーそれ自身によって示され、その本質上益々拡大反復されつづける悪循環の運動であるほかはない。このことからわかるのは、テクノロジーが、原理的に<limitless=限界づけられない>ものであるということだ。国家機関や資本制大企業がいかなる権力を駆使したとしても、テクノロジーを占有することなどできはしない。現在の合州国を見ればわかるように、「技術革新」こそが、反対にそれらを限界付け、規定しているのだから。この鉄壁なるけち臭さの貫徹したシステムに、「人間」の関与する余地など、もはやひとつも残されてはいないかのようだ。

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