2003.07.13 北川裕二

「限界」の技術へ向けて

セキュリティ部族社会を脱するための

3.

ジョルジュ・バタイユは、雑誌『ドキュマン』に掲載された論文『足の親指』のなかで次のように言う。

人間における気紛れと恐怖心、必然と錯乱の関係は、手の指が器用な動きと確固とした性格を意味し、足の指が遅鈍と低級な愚劣さを意味するようなものである。動物の諸種属とその無数の個体を通してみられる諸器官の変動、胃と喉頭と脳漿の蠕動は、上げ潮と引き潮のことを想起させる。そういった想像は、いまなお体内の血潮の動悸にかすかに感得される錯乱を厭わしく思うせいで、渋々なされるのである。人間は威厳をもっておのが波頭に沈黙を命じる海神ネプトゥーヌスに自分が似ていると想像することを好むのだ。ところが内臓の騒々しい波動はほとんど絶え間なく膨れ、動揺し、威厳などたちどころに吹き飛ばしてしまう。(中略)たとえば自国の偉大さを示すある記念碑に彼の眼がそそがれるとき、彼の心の高揚は足の指の激痛によって制止される。それというのも、最も高貴な動物でありながら、彼の足には魚の目ができているからだ。つまり彼には足があり、そしてその足は彼から独立して恥ずべき生活を送っているのである。

身体とは「秩序の特権的イメージ」(クリフォード)であり、セキュリティ・システムが拠り所とする「共同の表象」である。だとすれば、手の指に代表される人間の「器用な動きと確固とした性格」が、魚の目の「騒々しい波動」によって錯乱する事態とは、本人の意図しなかった出来事からもたらされる苦痛が、身体の統一性を揺さぶり、解体するプロセスであるということだ。テクノロジーにひたすら奉仕することを余儀なくされた身体が、各器官に分解され、特権的イメージに対する異質な物質性を露呈するこうしたプロセスにこそ、わたしたちはlimitとしてのテクノロジーの悪循環から逸脱する契機をみるべきだ。これはちょうど、鶴見が「限界芸術」で取り上げたあの鼻歌を連想させる。確かに鼻歌と魚の目は、身体に相反する反応を起こすかもしれない。しかし、感情がどちらに揺れるかはここでは重要ではない。重要なのは、身体や生活の「縁」で、それらを変えうる働きが常に生まれているという事実にある。つまり、極めて微細な無数の「限界」的なものたちが、複雑なシステムのなかで、無視することのできない役割を担っているということだ。わたしたちの目に留まることの少ない交換ないし循環過程が、しかし実際には生活を豊かにしているのだ。鼻歌は何事かを為そうとする人間に気分の調子を与え、魚の目はいきすぎた感情的高揚を制止し反省を迫るという違いがあるにしても。時に魚の目のようなものは、わたしたちにとって、いみじくもバタイユが取り上げたように何らかの意味を帯び、重要な認識をもたらすものだ。もし地球を複数のシステムが絡みあい交換することによって活性化するものであるとする考え方が許されるなら、実はわたしたちこそ、魚の目のごときものになり果ててしまっているのではないかという認識を。[*1]

こうした観点に基づけば、問題は、いわばmarginとしての「限界」の微細なものたちの迂回の機能とその<繁殖>についてだということになる。例えば、農作物を育てるにあたって、わたしたちはその作物の養分となる肥料を与えるが、あたかもそれは、作物に肥料を与えるかのように受けとめられている。作物を育てるためには、作物の養分となる肥料を与えるべきではない。なぜなら、作物の養分となる無機栄養分は、土壌中に繁殖している多くの微生物がエサとして食べる土壌有機物の分解過程を経なければ、その多くを得られないからだ。無論、テクノロジーの「進化」は化成肥料を発明し、微生物の分解過程を経ずに無機栄養分を与えることを可能にした。だがこのことによって、土壌が荒廃することも今や確かである。詳しくは書かないが、化成肥料のみあてがった土壌は、作物に有効な微生物が繁殖せず、逆に有害な病原菌が繁殖する可能性が著しく増してしまう。これを防ぐために土壌消毒を行うわけだが、土壌消毒とは、微生物の繁殖する環境を奪うことである。つまり、ここでもまた、テクノロジーのlimitから派生するセキュリティ・システムが悪循環に陥っている光景を垣間みることができる。こうしたプロセス──物質循環の短絡──を経た土壌とは、文字どおり殺伐とした砂漠というほかないものだ。養分は作物にではなく、不可視の微生物にこそ与えなければならない。しかし、わたしたちの意識ないし感覚は、その繁殖を直接観察するということができないため、あたかも<作物>に肥料を与えているかのように錯覚し、正確な因果関係を捉え損ねてしまう。このことは、marginとしての「限界」の技術を考えるにあたって根本的なモチーフを提供しているようにおもわれる。

わたしたちの生活の「縁」にもそうした微生物のごときものが、常に繁殖している。だが、現在のテクノロジーはいかなる領域であれ、ときに緩やかな時間の熟成を必要とする微生物が示すこうした複雑な分解過程を否定する傾向にある。問題なのは、この迂回のプロセスをリスクと考える観念が横行しており、強固な偏見を改めようとしないということだろう。時間に対するこの固定観念から脱するためには、身体や生活あるいは社会や地球において交換されている、無数の「限界」にあるものの優れた媒介機能とその連鎖に眼差しを向け、正確な認識を獲得していかなければならない。けれどもそれらは、土壌中の微生物の分解過程と同様に、人間のコントロールの及ばない不確定な要素を含む。つまり、迂回されたものが、わたしたちのもとに望んだかたちで回帰してくるとは限らないのだ。「限界」的な微細なものたちのこうした特徴は、しかしリスクではなく、未来あるいは時間に対して開かれていると認識すべきである。だとすれば、わたしたちはむしろ、その開かれた広大な世界へと自らの身体を委ね、分散させてしまうべきなのだ。つまり、身体各器官は「秩序の特権的イメージ」を逃れ、鼻歌は鼻歌、魚の目は魚の目の独立した生を営むのだ。この開かれた世界においては、身体各器官を統制し管理する者はひとりもいない。あるのはただ、異なる法則をもつ無数の営みの、その無限に連鎖するアソシエーション、それだけだ。テクノロジーのlimitから脱したmarginとしての「限界」の技術が活かされる領野があるのだとすれば、まさにここにおいてである。

*1  ただし、こうした認識には慎重な対応が求められることも事実だ。というのも、marginとしての「限界」的なものたちを論じるにあたっては、それらを象徴的に扱うことを回避しなければならないからだ。このエッセーでの主旨から言えば、鼻歌や魚の目という匿名的なものの機能は、セキュリティ・システムに見られる閉じた象徴の世界から逃れ出るための視差的な差異、方途である必要がある。したがって「限界」的なものであるとはいえ、例えば、伸びて乱れた髪の増殖のように、容易に無気味なもの──日本のお化けのそれ──に結びつくようなものは、本旨には、あまり一致しないものである(だが特有の仕方で論じることはできる)。もちろん象徴の世界は、それ自体複雑な世界であり、わたしたち人間の営みに──お化けの乱れた髪のような──興味深い役割を果たしていることも事実だ(いずれ別の所で論じてみたい)。しかし、表象の契機を欠いた微細なものの機能を指摘することが、ここでの目的なのである。
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