鏡に映し出されるのは刻一刻変化する世界のはずだった。にもかかわらず鏡が永遠を象徴するように捉えられてきたのは、鏡を覗き込むわれわれが、いつも変わらぬ自分の顔だけをそこに見出すという倒錯からきている。われわれは他者が見るような視点で自分の顔を鏡の中に見ることはできない。鏡が与えるのは同一の対象の異なる像(差異)ではなく、異なるものにさえ同一性を見い出させてしまう錯覚だった。ゆえに鏡の上では他人の姿すら自分の姿のように見え、あるいは自分の姿と他人の姿を同一視する錯誤すら生み出されてきたのである。
「ひとつの状態から別の状態へ移行することと、同一の状態にとどまっていることとの間には本質的な差異はない。<同じままでいる>状態は、人が思っているよりも変化に富んだものであり、逆に、ひとつの状態から別の状態への移行は、人が想像しているよりも同じ状態の延びたものに似ている」。(ベルクソン)――鏡に映しだされる常にうつろい変化している像を、同一なものとして感じてしまうのは転倒である。確かにここで確保される同一性はベルクソンがいう持続と似通っている。われわれが鏡の中に見ているものこそベルクソンがイメージと呼ぶものだった。だがイメージによって解決されるような差異/同一性のアンチノミーは必ずしも本質的なものではない。たとえば一点の曇りも歪みもない完全円の鏡が回転していたとしよう。正確に右回りで1分間に1回転。森田浩彰が作り上げたのはこうした精密な鏡だ。がいうまでもなく鏡が回転していることに誰も気付かない。鏡は極めて平滑に同じ室内の様子―イメージを映し(持続し)つづけているから。
地球が最終的にいかなる運動を行っているのかという問いは、それを位置づける不動の空間を前提としない限り成り立たない(もしその空間自体が動いていても誰も知覚しえない)。同じく鏡に映し出されるイメージのみが変化/持続する仮象ではない。むしろ仮象であるのは、基底となる世界であり、批判されるべきは、それへの安住だった。森田が動かそうとしているのは、この世界という観念、いや物自体である。それでも世界は動いている/止まっている。誰もそれを認めないにしても。

2002 | Vitrine製円形ミラー、アルミニウム、モーター | 直径63cm