《Leviathan》の主題は、誰も実物を見たことのないキリストの似姿をイメージとしていかに再現するか、さらには現世には帰属しない超越的な存在をいかに信じるかという困難にある。復活したイエスがそれを信じないトマスに、傷口に指を入れさせ、「見ないで信じるものは幸いである」と諭したエピソードのように、この作品では観客が机の上に置かれた人体(臀部)の肛門に指をつっこみ、その中に仕込まれたトラックボールを指先で転がさないとイエスの姿を見ることができない。引き出しの中にある液晶モニターに映しだされる図像(イコン)は観客の指によって、文字通りのけぞり、美術史上描かれてきた様々な姿に変態していく。画家たちはなぜイエスの姿を変容させてきたのか。あるいは現代の美術がインタラクティブという呼び名で、観客の参加によって変容する作品をよりリアルだとみなす信仰に近付いていたのだとすれば、ここでイエスの姿を弄ぶ観客はイエスをよりリアルに感じられてもよいはずである。しかし勿論、そうはならない。イエス自身が言った「見ないで信じるものは幸いである」という言葉は現代にこそ有効なのである。肛門に人さし指を挿入する行為は、不浄、冒涜、そしてもちろん性的な行為として解釈される可能性が高い。観客がそれらの行為に対する意味の抵抗を乗り越え、なお指の挿入を実践することは、「踏み絵」がそうであったのと同様に、キリスト(あるいは似姿/贋の肛門)への信仰が試される過程に、そうと知らず接近してしまっているといえるだろう。ここで要請されるのはこうした投機的な行為である。信仰と信用を結びつけるのは身体という不確定な場である。いいかえれば身体とはこのような賭けが演じられる両義的な場面でしか実感されない。投機的な行為-身体的な代償によって、はじめて確保される確率的な信用-作者が《Leviathan》に込めたのは作者自身のこの確信(!)だった。が、作者は実は貨幣のような一見抽象的なシステムこそ、こうした身体を代償とする投機プロセスにひそかに支えられていると考えている。貨幣が信用を獲得し得るのは、貨幣自らがそれを所有しようとする欲望に対して自らの破棄の可能性を賭けているからではないか。貨幣に自分の氏名を記入して所有する人はいないが、それが貨幣の破棄/冒涜と連動するからだ。いいかえれば切り刻まれる=破棄される可能性を常に担保(延期)しているゆえに、貨幣への信用もようやく確保(延期)されうる。破棄という行為によって、いつの日か身体は貨幣と重なり合うだろう。この消失点を無限に先送り(先取り)することによって信用は形成される。(ゆえに貨幣を破り棄てることは自分自身の身体を切り刻むような戦慄と恍惚を伴う)。信用/冒涜というアンチノミー。こんな構図に基づき、身体/貨幣が重なりあう作品を作者は考えつづけている。

2003 | コンピュータ、液晶モニター、トラクボール、木材、ラテックス、書籍 他 | H110cm×W90cm×D80cm