窪田久美子の《クレヨン》は、だれもが子供の時にお絵書きに使った12色入りのクレヨンである。しかしこのクレヨンには色がない、ほぼ完璧に色彩は白黒の階調に置き換えられている。
色彩を付着させる用具としてのクレヨンに色彩がないことはナンセンスでしかありえない。しかしそもそもクレヨンをはじめとする色材が存在するのは、色彩が決して対象に固有のものではなく、すべての対象の色が塗り替え可能、交換可能であることをこそ示している。たとえば色のないクレヨンであれば、クレヨンで彩色すればいいのである。ではそのクレヨンは何によって色をつけるのか。つまり色材としてのクレヨンとは色彩が交換可能であることを示しつつ、自分自身だけは固有の色彩を持つと主張するパラドキシカルな存在であった。だが、そのクレヨン自身のその色彩であれ、塗り替えられなければならぬはずである。
窪田の《クレヨン》が喚起させる不思議な感覚は、それがクレヨンにとって本質的属性である色彩を欠きながらも、クレヨン以外の何ものにも感じられないという事実にこそあった。ここにあるクレヨンは確かに色彩を持たない、にもかかわらずこれはクレヨンである。では、ここで知覚されたクレヨンとは一体何なのか。しかしさらに根源的な驚くべきことが、その後おとずれる。見続けていると、ただのモノクロの階調でし かなかった窪田の《クレヨン》に、やがて橙、緑色、赤、青、黄色、とそれぞれのクレヨン一本一本が本来纏っているべき色彩が、まざまざと今確かにその色がそこにあるように浮かび上がってくるのである。「その色は目の中にあるのか、対象として存在するのか」。われわれは思わず目を擦ってしまう。現象としてうつりゆく色彩を意のままに操る機能を、クレヨンは窪田の《クレヨン》によって、はじめて手に入れる。変換しつづける現象/変換しうるのは物質のみである-というアンチノミー。
(モノクロ写真で撮影されたクレヨンの写真が併置されるとき、その写真は窪田の《クレヨン》を撮影したのか、実際のクレヨンを撮影したのか、あるいは、このモノクロ写真を元に窪田の《クレヨン》が制作されたのか、色彩が発生する/消去される時間の前後は不明に陥る)。

1992 | 石膏、石膏に着色、モノクロプリント、紙 | 10.4×23.4×1.6cm