2005.11.29 岡崎乾二郎

現代における劇場の可能性
──インタビュー〈2〉

2.

第三項としてのキャンプ

【岡崎】 基本的にマイナーな美術批評家でしかないフリードは、スーザン・ソンタグのような売れっ子の批評家の見解に異を唱えていたように見えますが、けれど問題構成でとらえるとシアトリカルという問題設定自体、ソンタグが『反解釈』で行った批評、特に「キャンプに関するノート」で書いたものと重なっているのですね。キャンプというのは、非常におもしろい概念です。これを僕なりに分かりやすく説明すると、キャンプはどこでもできる。工場でも戦場でも、公衆トイレであっても。観光地でキャンプするのでなく、キャンプするとそこが観光地になる。というわけでキャンプは、その場にいながら、その場にいず、無関係にその場を観察するという装置となる。「キャンプ」というのは関係の切断を意味している。ソンタグが、欲望を抱かずにポルノグラフィを見るのがキャンプであるという。ならば、いかがわしい歌舞伎町にテントをはってキャンプするのも同じです。その場に属していない、切断がある。そういう意味でホームレスはみんなキャンプ趣味でしょう。キャンプしている人はその場にいながら、その場の外にいる。宇宙人みたいなもので、まるで無関係なエイリアンのように欲望も利害関係も離れて観察している。それは一種のエイリネイション(疎外)であり、観客の側から主体的に行われる異化効果です。それがキャンプですね。
 ソンタグによって定義されたキャンプの面白い所は、いわゆる60年代の演劇が街頭に飛び出し、現実的状況に入り込んで現実的なハプニングとして熱狂を引き起こすものを追求するものが多かったのに対して、キャンプの重要なポイントはむしろ状況への無関心であり、非熱狂、欲望の切断、場からの切断にあったことです。対象に対する美しいとかきれいだとか、汚いとか、反発だとか感情を徹底的に切断して、クールで感情移入しないのがキャンプです。オフ・ミュージアム、劇場の外に出る、ということでは似て見えても、両者はまったく両極端に離れている。熱狂=ホットとキャンプ=クールなわけです。熱狂型がルソーのいう意味で観客が主体的に確保する劇化=同化=感情移入の技術だとしたら、キャンプは観客が主体的にコントロールする「異化」の技術である。双方とは劇場というハードな建築装置、ハコモノに依存しないで成立させようという点では同じですが正反対の性質を持つ。
 いままでの話を整理すると、一つにはプロセニアム型の演劇装置があった。その制度性に対立するかのように、劇場外の日常に演劇的熱狂として共同体を組成させようとするルソー型のタイプがある。60年代の前衛演劇をとらえる一般的な見解も、つい、この二元論の中でとらえられてしまうことが多いと思います。そこに第三のタイプ、このどちらでもないタイプとしてキャンプがある。それぞれの共通項は、プロセニアム型とキャンプ型というものは、完全に見るべき対象と見る人を切断するという装置であった。一方でプロセニアム型は舞台と観客を切断しつつも、なおかつ観客を場として統制し、ひとつに組織するという演劇的な本質においてはルソーと繋がっていた。ルソーはプロセニアム型の装置に反対しながらも、物理的な仕組みがなくても観客を束ねて場ができる、王の権力なしでも観客の側から自然発生的に共同体を生成させうると考えたようなものですね。60年代の文化もルソー型とキャンプ型の区別がどれだけ戦略的に明確化されているのかを問題にする必要がある。いま考えるといわゆる街頭演劇なんかも単純にスペクタクルに傾倒していたことでプロセニアムと変わりはなかったわけですね。キャンプはアンチシアトリカルな、まったく劇場に依存しない観客の側から考えられた方法論としてブレヒトよりも新しい。
 というわけで、これで三つの項目になったわけですが、構造としてこれを図式化すると、もうひとつ四つ目の項目のx があるはずなんですね(笑)。これが何か?この四角形を解くことが現在の演劇の状況を読み解く鍵になるかも知れませんね。

──キャンプ趣味というものが従来の形として括られていた二項の対立よりも新しい方法をもつ可能性を秘めているのはわかりました。一般的に60年代の演劇がルソー型による熱狂の渦において観客を組織したと考えられるなか、同時期にソンタグが『反解釈』を書いていた。つまり、60年代の中にでも可能性は両居していたことになる。そこで組織化される観客の部分と60年代の演劇と観客についてもう少し詳しくお聞きしたいのですが。

【岡崎】 60年代の演劇や美術は、見る側と作る側の切断される装置を批判しようとすると、どうしても単純にルソー主義になってしまった。けれど、権力によって切断を行使されるのではなく、その切断を方法論として我々が私有化して、自由に切断、接合する手段としてあるなら、どれほど深遠で高尚なものとして提示されたものでも、キャンプ的態度によって全てをキッチュにしてしまうこともできるし、逆にキッチュを高尚なものにもできる。今までの態度に同化しないという事ですから、偽者も本物もなくなる。いわば通常の疎外論ならばルソーへと傾倒していくのですが、これは疎外(エイリネイション)という効果を生産的に読み直したといえるでしょう。
  それで第三項のキャンプというものを、「組織」という面からもう少し詳しく述べると、これは脱組織なわけですよ。切断していくのです。マス(大衆)として組織されてしまった観客が、一人一人の個人になる方法論としてキャンプはある。相互に無関係になることです。それは外から見ると相当関係が壊れていて、皆が妙に無関係に切れて勝手にやれということでもあるけれど。
  ソンタグの言い方だとボードレールの精神的な核心もキャンプです。彼の恋愛モデルでは雑踏の中で偶然すれ違った人への恋であって、それ以上の関係を結ばない。ダンディーです。ダンディーの基本は世間的体裁との切断にある、どれほど恥ずかしいことをしていても平然としている。世俗的に規定された属性、価値概念から切断する。他者から承認されない価値観を平気でもち、社会関係や権力やお金など、既存の利害関係に還元されえない価値、プライドにすべてを賭ける。誰とも連帯せず、平然としている。これがダンディーであり、モダニストの基盤だとすれば、むしろキャンプこそがモダニズムの基盤にあるということになる。その先駆者がボードレールであり、「虚言の衰退」のオスカー・ワイルドだった。

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