國吉和子|もうひとつの近代舞踊――フォックストロットを踊る芸者達

March 27, 2014|講義

2013年11月26日、「ことばのpicture books講座 Lost Modern Girls編」(講師=ぱくきょんみ)にて、ゲストに國吉和子氏(舞踊研究・評論)をお招きし、公開レクチャーが行なわれました。

モダニズムとダンスというテーマをたどっていくと浮かびあがる、帝国劇場を中心とする表向きの近代舞踊史とは別の、モダン芸者を自称する女性達の新しい舞踊の存在。講義は、1930年代の職業舞踊家としてのモダン芸者について、初代藤蔭静江から花園歌子への流れを追う内容で、貴重な写真資料、文章を紹介しながら進められました。

明治から大正にかけて、日本における舞踊の近代化が、西洋舞踊に刺激されながら模索されました。それに対しヨーロッパにおけるオリエンタリズム、特にジャポニズムが、19世紀末から20世紀にかけて流行し、日本の芸者たちが外国での万国博覧会に招かれて踊っていた前史があります。正史の中には取り込まれない芸者たちの流れの中に藤蔭静江もいました。
初代藤蔭静江は、永井荷風との結婚で有名になるなど、非常にモダンな芸者で、歌、文学に親しみ、藤間流から自分の藤蔭流を独立させ新舞踊運動の担い手の一人となり、家元制度などのシステムを打ち破った最初の人でした。そして、当時の音楽家や美術家と協働し、特に舞台美術における様々な実験をできる場として自身の舞踊作品を提供しました。舞台という総合芸術としての舞踊、その視点を日本舞踊の世界から提示したことが評価すべき点として指摘されました。

1930年に出版された「芸妓通」(四六書院、通叢書第29巻)を著わした花園歌子は、女学校を出ており、かなりインテリな芸者でした。日本の風土に根付きにくい西洋舞踊が、ドイツで学んできた石井漠らによって、近代日本人の身体の表現、ダンスとして芽を出していったのが1920年半ば以降。江戸以来の美意識の芸者たちを傍目に、近代舞踊の動きを取り入れ、日本髪に着物姿のままで、花園歌子らは自分たちの芸者によるモダニズムを完成させようとしました。また、著作中で、西洋の社交ダンスであるフォックストロットを踊れることがモダン芸者の定義の一つに挙げられています。1930年頃にはすでに、それが芸者の嗜みとして当然の前提となっていたことを象徴的に示しています。海を渡ったかつての芸者たちは、「サムライ、ハラキリ、ゲイシャ」と言われるような、西洋人が持つステレオタイプ的な日本のイメージに加担するようなかたちで自らを作り上げ、生きるために踊っていました。しかし1930年代日本の花柳界におけるモダンとは、西洋の真似というより、先端の西洋的なものを身に着けることで、決して引けを取らない近代人として同時代性を生きるためにモダンであるという考え方だったのではないかと考察されました。

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