柴田元幸|アメリカの男性作家が書く女性、女性作家が書く男性

March 4, 2014|講義

11月12日に「ことばのpicture books講座 Lost Modern Girls編」(講師=ぱくきょんみ)にて、ゲストに柴田元幸氏(アメリカ文学研究者、翻訳家、小説家)をお招きし、公開レクチャーが行なわれました。

アメリカ文学の中で、どのように男性作家が女性を描き、女性作家が男性を描いてきたか。講座のテーマである1920~30年代のモダンガールの時代を踏まえ、その前後から20世紀全体、現代までの小説の流れをアメリカの歴史の変遷とともに追いつつ、アメリカ文学における異性の描き方の特徴を探る試みがなされました。講義は、各時代の代表的な作家・作品を柴田先生による原文での朗読で紹介しながら進められました。

ヨーロッパの地続きの文化として出発したアメリカ合衆国で、やがて知的独立と言われるアメリカン・ルネサンスの時代を経て、第2の黄金時代と言われたのが1920~30年代。白人男性中心の作家の中で、女性は観念を体現する、象徴としての描かれ方が主流でした。19世紀末になると純文学作家としての女性が登場します。世界における立ち位置を一方的に意味付けられてきた女性が、男女関係の不公平さ、権力関係を確認する作品を描いていく。そこから夫婦という社会、個人の自由、人間関係としての絶対的な不満や絶望へと展開させ表現していく小説が出現します。そして、20世紀初頭、小説の世界でも「消費社会の誕生」という新しいフェーズを迎えます。モノを与える男性、与えられる女性が、お互いの視点から描かれるようになります。

第2次世界大戦後、中産階級の消費社会の到来でポップカルチャーが成熟してくると、当時のガールズグループが歌うような、ある意味観念的な大文字の男の子・女の子像が出現します。1970年代以降では、「フェミニズム以降の純文学」という事で、女性作家たちは、話を解決させるべく登場する賢い男性像をタブー視し、うまくいかない男女関係など、等身大の人間を描こうとします。その中で女性を観念的・象徴的にみようとする小説の登場にも触れられました。

講義後の質疑では、現代アメリカ合衆国での性関係を持たない男女間の描かれ方、男女という区分の周縁的な位置(ゲイやレズビアン)について、アメリカ文学の現在における主流や、「個人の救済」「自由の獲得」というテーマに対する現状などについて、さらに日本文学との比較など活発な意見が交わされました。

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講義で扱った作品:
ハーマン・メルヴィル「ピエール、あるいは曖昧さ」「ピエール」
エドガー・アラン・ポー「ライジーア」
シャーロット・パーキンス・ギルマン「黄色い壁紙」
ケイト・ショパン「一時間の物語」
シオドラ・ドライサー「シスター・キャリー」
イーディス・ウォートン「国の風習」
アニタ・ルース「殿方はブロンドがお好き」
F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」
ジョイス・キャロルオーツ「どこへ行くの、どこ行ってたの?」
ローリー・ムーア「作家になる方法」
スティーヴ・エリクソン「Xのアーチ」


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