2003.06.22 田口卓臣

ディドロ・ダランベール、『百科全書』の対抗運動 〈1〉

諸個人の協業

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 18世紀フランス思想の最先端に位置していたディドロとダランベール。『百科全書』という書物の編纂プロジェクトは、彼らが編著者の役割を担うことで押し進められることになった。以来、1751年出版の第1巻をかわきりに、フォリオ版28巻、補遺や索引まで加えると実に35巻という空前絶後の出版事業が公衆の噂を席捲(せっけん)する。巨大極まりないこの書物の執筆には、名前の判明しているだけでも二百人を超える人間が関わり、その数万にも及ぶ項目のテーマは極めて多岐に渡った。予約購読者は四千人、実際の読者はそれをはるかに上回る数だったという[*1]。なお、出版事業は1758年から1765年まで、国家によって差し止め処分にされた。それ以降の編纂はディドロがひとりで担当した。

*1 以上はジャック・プルースト『百科全書』(平岡昇・市川慎一訳、岩波書店、1979年)に詳しい。18世紀フランス思想研究に携わる者なら誰もがその名を知っているこの著者は、『ディドロと「百科全書」』(Jacques Proust, Diderot et l'Encyclopédie, Albin Michel, 1962/1995、未邦訳)という博士論文によって、ディドロおよび『百科全書』をめぐる研究の歴史に画期的な地平を開いた。ディドロの伝記としては、Arthur Wilson, Diderot, 1952/1972, Oxford University Press. (フランス語訳:Diderot, sa vie et son œuvre, Laffont-Ramsay, 1972/1985 )が優れている。
1.

 「諸学問、諸技術、諸工芸の合理的(体系的)辞典」としての『百科全書』の編纂目的は、世界に横溢する全ての知識を収集・総合したうえで貪欲な知的好奇心に駆られる公衆に向けて伝達することだった。それはしかし国家権力主導で上から下へと執筆の仕事が割り振られていくというのとは全く異なるプロジェクトだった。むしろ発禁処分や差し止め命令が度重なった事実を見れば、この事業が、言論を自由に行使することによってしばしば当時の権力(絶対王政君主)、イデオロギー(キリスト教)、社会制度といったものを揺るがす志向を持っていたことが分かる。

 ここまで不穏な力を発揮した一出版事業が曲がりなりにも21年の長きに渡って継続され得たのには、それに参加した諸個人の驚くべき多様性が原因している。つまり第一に『百科全書』はヨーロッパ諸国にまたがる人的ネットワークを土台にしていた。また第二に、階級・身分・地位・財産・教養・信仰のあらゆる面において異なる者たちが、「文人たちの協会」と全く対等な立場で協同作業を行ったのだ。

 具体的に見てみよう。まず何よりディドロは「哲学者」である。ダランベールは屈指の天才数学者として通っていた。こうしたいわゆる文筆家たちに加えて、執筆陣には考証学者、法律家、医者、工芸家、職人、素人研究家、フランスおよび諸外国のアカデミー会員、聖職者、国家行政に携わる者までが入っていた。例えば『法の精神』で有名なモンテスキューは高等法院長だし、『博物誌』の著者ビュフォンは王立植物園園長である。また、現在はおろか当時も無名の協力者たちの中には、靴下製造職人、木版画家、陶器工、活字鋳造職人、生糸製造職人、製図職人、ビール醸造職人などがいた。『百科全書』に氏名の記載された執筆者は、第1巻出版の時点では約五十名だったが、その後構成員を変化・増殖させながら最終的総数としては二百人にも達した。これに、匿名の執筆者、アカデミー古文書館などの文献を開陳した協力的人々[*2]、知識人同士の社交の場を提供したサロンへの来訪者なども加えて考えれば、参加者人数を見極めることは至難の業に近い。このように、『百科全書』は狭い文学者共同体の枠を大幅にはみ出る協力体制を創出していったのだ。

 とはいえこれら対等かつ多様な諸個人の集まりは、次のことを目指す点において一致していた。つまり、絶対王政下の権力の濫用に対する批判、王権を神権によって基礎付けようとするフランス王国のカトリシズム(ガリカニズム)への批判、西ヨーロッパ諸国の世俗的権力に容喙(ようかい)するローマ教皇の影響力からの脱出、僧侶身分・貴族身分の封建的特権への対抗、その封建制のもとで抑圧されている農民・第三身分一般の解放、などである。例えば、幾度にも渡る発禁処分にもめげずに出版を持続したこと自体が、濫用される権力への対抗を明白に表明していた[*3]。また、因襲にまみれたキリスト教に対する批判は、時にはディドロの手による項目「ジェズイットJesuite」のように露骨に、また時にはドルバック侯爵の書いた地質学や化学関連の項目、つまり宗教とはまるで無関係に見える題目の項目の中でさりげなく、展開された。さらに、ディドロが最も編集に力を註いだ技術関連の項目は、まさしく技術の情報を公開する点において、当時の封建的かつ閉鎖的な同業組合制度に向けた闘争の宣告を含意していたのだ。

 協力者の多様性について触れたディドロの言葉を聴こう。「執筆者の選択に関して周到に気を配る余裕はなかった。幾人かの秀でた人々の中に、才能のない人、凡庸な人、全く出来の悪い人たちがいた。そうした理由から、同一の作品の中に、大家の手になる名文と駆け出しの作家の雑文とが並んでいるといった、あの玉石混淆が生じたのだ。」(項目「百科全書Encyclopedie」)自ら編纂する書物への痛烈な内在的批判でもあるこの文章は、しかし同時に、教養や趣味の差を超えた、したがって当時としては階級・地位・財産・身分・職業などの差を超えた『百科全書』のありようを的確に示してくれている。なるほど欠陥が付き物とはいえ、まさしく玉石混淆であるがゆえの批判的な力が、確固として存在しているのだ。具体的にはどういうことだろうか? それを少しずつ見ていくことにしよう[*4]

*2 ディドロは王立図書館に所蔵されていたプリュミエ神父の著書『旋盤術』の一部を借り出したり、「靴下織り機」の図版を版画陳列室から借りてきたりした。また生糸職人の店や靴下製造業者の店を見学して、項目「手編みの靴下Bas」を執筆した。

*3 18世紀フランスにおける発禁処分、差し止め命令など、絶対王権側からの抑圧については、一概に現代の私たちの尺度を通して捉えるわけにはいかない。例えばディドロは1763年まで出版統制局長を勤めたマルゼルブの知己であったが、実のところ『百科全書』の差し押さえがなされることを事前にディドロに教えたのは、命令者であるマルゼルブ自身だった。しかもマルゼルブは書物を守るために自分の家に移すことまで申し出た。いわゆるアンシャン・レジーム期における最も開明的な政治家であり、ジャコバン主義の統治下ではその立憲王政的な立場から国王を擁護し、遂に断頭台へ送られることになるこの貴族については、木崎喜代治の優れた研究(『マルゼルブ――フランス十八世紀の一貴族の肖像』岩波書店、1986年)が存在する。

*4 次に挙げる書物は、『百科全書』の執筆に関わった者のうち139人についての簡潔な伝記を記している。Frank A. Kafker and Serena L. Kafker, The Encyclopedists as individuals: a biographical dictionary of the authors of the Encyclopedie, The Voltaire Foundation, 1988, «Studies on Voltaire andthe eighteenth century», vol. 257.
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