2005.03.08 北川裕二

革命を俟つ櫛の方へ <4>

<創造-鑑賞過程>のマルセル・デュシャン

後世の決定

ジョルジュ・シャルボニエのインタビューに応えてデュシャンはこう言っていた。

「芸術家は自分が何をつくるのか分からないのですから、いわば、自分のつくるものに対して決して責任はありません。しかし、芸術家はそれへと駆り立てられるものですから、表面よりももっと深いところにあるような言うべき何かをほんとうに持っているならば、それをつくるものです。そして、だからこそ、『で、誰が決定するのか』と言えることがおもしろいわけです。だれが決定するのか、それはひじょうに単純です。後世がそれを引き受けるからです。後世は正しいのかまちがっているのか。それはまた別の問題です」

「後世」が作品の価値を「決定」するというデュシャンのこの言葉は、彼の作品を理解するにあたっても、とりわけ重要なタームである。言うまでもなく、「ガラス製の遅延」とレディ・メイドの「選択」とは、この「後世の決定(判断)」に関わることではなかったかと思われる。

問題とすべきは、例えば次のことだ。では「大ガラス」においては、「決定(判断)」がどのように表象されているのか。結論を言ってしまえば、それは「大ガラス」のどこにも表象されず、むしろ空位になっている。とはいっても、この空位が作品の特定の箇所に0記号のように表象されているということではない。けれども「後世の決定(判断)」そのこと自体が「大ガラス」を構造化している当のものであると捉えるべきだろう。というのも、「遅延」による作品の判断の保留が「後世の決定(判断)」に先送りされるということは、むしろあらかじめそれについて着想していなければ、導き出されない主題でもあるからだ。しかし、それは表象され得ない。が、それゆえに「表現されなかったが、計画していたもの」と「意図せず表現されたもの」の<あの世>の確定性が問われるわけである。

一方、レディ・メイドの「選択」は<何>に対する選択であったか。無論それは「既製」のものに対する決定のことであった。デュシャンによれば、過去はこのように──「既製品」として──われわれの眼前に、厳然と存在している(表象されている)。事物はおよそすべて<過去>のものだ。しかし「ショーウィンドー」のガラス越しに陳列された商品だけはそれを認めることはない。だが、既に見たように、それは未だ「決定」(選択)されていないがゆえに、実は何ものでもなく宙吊りのままである。

レディ・メイドの「選択」は、この事物の過去性と商品の宙吊りの決定的な差異を暴露することに照準を合わせている。既に指摘したようにその間を隔てるもの──「ショーウィンドー」──には、<既製の>亀裂が確認される(亀裂の存在によってガラスの物質性は前景化される)。商品は売れなければただのゴミにすぎないという事実がそのことを端的に裏付ける。それは未来を表象するはずの「商品」が、しかし現在にもなりえず、むしろ過去が「事物」の形態を纏って未来から<今・此処>へと回帰してくる可能性を引き出す。それが「既製品」に対する「後世の決定(判断)」、すなわちレディ・メイドにおけるあの「視覚的無関心」による「選択」の可能性であった。

したがって、この可能性を鑑賞者が引き受ける──「選択は往き戻る」──のであれば、展示されたレディ・メイドの「問い」とは、鑑賞者が再びそれを「ショーウィンドー」の向こうへ送り返すためには、向こうの世界──すなわち資本制消費社会がどのような社会になっていなければならないかというものである。それは同時に、生が商品のフェティシズムに侵されることから身を守る術を、美術制度という社会的なコンヴェンションを巧みに利用して密かに示唆するものでもあった。

芸術家が「表面よりももっと深いところにあるような言うべき何かをほんとうに持っているならば」、むしろこうした表象のシステムに走る亀裂への考察を深めるべきであろう。「芸術係数」という着想は、このシステムの臨界=特異点を見据えるという観点からみれば極めて有効である。もちろんそれだけでなく、マルセル・デュシャンの芸術はそれに対する斬新にして痛烈な洞察の数々を<満ち秘めている>。付け加えるまでもないが、今回の横浜美術館の展示で、デュシャンの作品と他の作家の作品を隔てる深くて遠いものとは、皮肉なことに「ガラス越し」の「後世の決定(判断)」へと向けられた無限小数のように確定性へと無際限に近傍するが、むしろそれゆえに「可能なもの」にも留まろうとする不確定的なもの──つまりアンフラ-マンスなもの──への慎重な配慮のことにほかならない。

1916年以来、「櫛」はまだ一度も髪を梳かしてはいない。やがていつかそのときが到来することを期待しつつ、静謐な美術館の片隅で、今もひっそり俟っている。

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