2003.07.26 石岡良治 | ||
装飾と反復 〈1〉初出:『建築文化』2002年2月号 102-105頁 |
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1.
装飾は思いもかけないところ、自覚もないところに不意打ちのように現れる。これを避けることはできない。なぜなら襲ってくるのは当の見ている自分自身だからである。見ているのにそれを意識できない。その意味において、文字通り、装飾は視覚的な無意識の露呈である。それは視覚の周縁に位置づけられるが、しかし当の見ているという意識が可能なのは、また、見るという行為自体が可能なのも、その装飾があるゆえにである。 幼いころから私は、ウィーンの建物の装飾に注目するようになり、比較対照させたり、装飾的な細部をスケッチしたりもした。先人たちが建築物の装飾部分、たとえば屋根に壺のモチーフを深い考えもなくほどこしているのに驚いた。奇妙に思われる方は、十八世紀に建てられたウィーンの聖ミカエル教会正面の切妻壁の両端にある一対の装飾を見ていただくとよいであろう(口絵一三)。同じ図版にある別の建物には装飾がほとんどないファサードが見うけられることから、オーストリアで装飾が問題になったのも、この時期だったのかと思い起こされる。そのファサードのデザイナー、アドルフ・ロースは装飾に対する反対運動を繰り広げた人物であるが、逆に民衆はそこにオーストリア・バロック建築の美しさと活気を再発見し、それがまぎれもなくオーストリアの特色ある遺産であることを確認する審美眼を持つに至ったのである。[*1] その皮肉を含んだトーンはさておき、ここに見られる対照は興味深い。装飾の排除という、モダニズムのテーゼの孕んだ矛盾が図式的に示されているかのように感じられるからである。たしかにロースハウスのファサード、あたかもあらゆる装飾から清められて「聖なる都市、天国の首都、シオンのように光り輝く」さまを具現化したかのようなその外観は、装飾に満ちたウイーンの街並みを「地」へと沈めているかのようであり、自らを「図」として際立たせている。そしてさらにロース自身によるエッセイ「装飾と犯罪」[*2]が、モダニズムの「地」としての装飾、という主題を確認しているのではないだろうか。だがこうした文脈においては、装飾の魅力を語る言説はほぼ例外なく「モダニズムの限界」を強調する羽目に陥ってしまう。ゴンブリッチも例外ではない。アドルフ・ロースの功績を単純化することを戒めつつも、ここで彼は、ロースの無装飾さのなかにも「民衆はそこにオーストリア・バロック建築の美しさと活気」、すなわち装飾だけがもつ効果を読み取っていたと、そのアイロニーを得意気に報告するのである。こうして装飾のパターン認識を主題にしたゴンブリッチの『秩序の感覚』も、結局のところ、オプ・アートを始めとする「抽象芸術」と「装飾」の相互接近についての穏健な現状分析に至るところで終わっている。 こうしてアドルフ・ロース自身の思考を改めて辿り直そうとすると、当然、エッセイ「装飾と犯罪」の検討が要請されるわけだが、そこで読者はロースが「犯罪者」や「変質者」だけでなく「子供」「パプア人」を装飾の問題に結びつけていることに気付かされることになる。 人間の胎児は、母親の胎内中にある間に、動物の世界がたどってきた全発展段階を経験してしまう。 冒頭のこの一文は、ロースがヘッケル流の「個体発生は系統発生を繰り返す」という原理にコミットしていることを明確に示している。こうした発展史の射程は人種や文化にまで及び、「子供は道徳とは無関係だ。パプア人もまた、我々の目からすると、そうだ。」という形で責任のなさ=無垢という等式が打ち立てられる。この言明は差別的であるが、ロースの非難が「子供やパプア人」自身にではなく、「彼らのようにふるまう現代人」に向けられている点に注意する必要があるだろう。進化を遂げた「我々」の社会においては、「ノーマルなもの」が規範に結びつけられることによって、既に道徳的責任の可能性が生じているはずである。それにもかかわらず、こうした歴史的な事態を理解せず、もはや成立不可能な過去に固執するような現代人がおり、彼らはロースによって「犯罪者または変質者」との責めを負い、裁かれることになるのだ。こうして、このエッセイの中心命題は「文化の進化とは日常使用するものから装飾を除くということと同義である」と定式化される。 自分の顔を飾りたてたい、そして自分の身の回りのものすべてに装飾を施したい、そうした衝動こそ、造形芸術の起源である。それは美術の稚拙な表現だともいえよう。芸術はすべて、エロティックなものだ。 ロースによれば、エロティックな衝動に駆られた「最初の芸術家」は、男女の交接を十字架としてシンボライズせざるをえなかった。そしてこの衝動はベートーヴェンによる第九交響曲の作曲においても残存している。だが「進んだ」芸術形式がひとたび得られた後で、「自己の内部にどうしようもなく充満するものから解放されようとして」なおも交接のシンボルを壁になぐり書きし続ける者は論外であり、犯罪者か変質者とみなされる。「ところで、人がそうした変質的な衝動に最も駆られるのは、便所の中だということは、当然である。となると、一国の文化の程度は、便所の壁の落書きの程度によって推し測ることができるというものだ。」装飾の犯罪性は、すでに克服されたはずの、かつ当然隠されてしかるべき衝動をことさらに露呈させようとする猥褻行為のそれであることになる。しかしロースにおける装飾非難のトーンが、それ自体ほとんど衝動といって良い程の情動的な負荷を帯びていることには驚かされる。そしてその理由が「芸術はすべて、エロティックなものだ」という命題に由来することは明らかだ。あらゆる芸術活動が装飾衝動と関連付けられるのであるから、「文化の進化」はこうした衝動の置き換えのプロセスに他ならないが、衝動が消滅することは定義上ほとんど考えられない。文化と芸術のありうべき衝突は、時間的な繰り延べによって回避されるはずであったが、「近代の装飾家」はこの時間的進行の反転を試みるという咎で変質者とみなされるのである。 「近代の装飾家」は変質者であるのみならず、文化に対して犯罪行為を行っている、とロースは診断する。彼らは見境なく装飾衝動を解き放ち、文化の「健康」を損っているにもかかわらず、そのことによって心に至福を得る病人である。しかし、たとえ健康人であっても、エロティックな装飾衝動を消去させることは定義上不可能なのではなかったか。ロースが用いた「便所の壁の落書き」という言葉の射程がまさにここで明らかになるだろう。たしかに装飾はそれ自体が病気の症状とみなされうる。だが「便所の壁」という空間に囲い込まれるという条件において、それは犯罪行為であることを免れるのである。したがって、真に犯罪的なのは落書きそれ自体ではなく、空間的分割を損なうことによって至る所を便所の壁へと変えてしまう行為であった。 |
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