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たとえば絵画や彫刻あるいは詩であれば、文字通りの意味で作品の内部に入り込むことはできるものではない。だからこそ文学や絵画、彫刻はあたかもその世界の内部へ入り込むこと(本来は不可能な)を可能にしたかのような錯覚を与える表現をその本領とさえしてきた。しかし建築、特に住宅では、事情は反対である。建築では文字通り、その内部に入り込み、住むこと―内側からその作品を知覚すること―は保証されているように思われる。
これは建築を内側から掌握する特権的な位置に―クライアント/建築家つまりは作者という主体が確定的に存在するということではない。ロースやミースに続いて、鈴木了二の《神宮前の住宅》がはっきり示しているように、建築ではその内部に入り込めば入り込むほど、その位置は限りなく遠ざかってしまうという逆説的な現象が起こりうる。《神宮前の住宅》が与える奇妙な感覚は、たとえばわれわれ自身の身体をその内側から感じることが実は究極的には不可能だという、もどかしさにも似ている。この身体の内に自分が確かに存在しているという自明性と共に/にも関わらず、その自明性を内側から知覚することができないというアンチノミー。
いわば神経を抜かれた虫歯の痛み。むろん痛みは確かに存在している。これは感覚が束ねられるべき知覚の中枢が、対象の文字通りの内部にあるとは限らないということであり、もちろんそれは外部から観察する視点によっても捉えられないということでもある。内部/外部という空間の分節は実は偽の分節であった。中枢は外にも内にもない。内部と外部が構造的にも空間的にも整合性を持って一致するということが建築の制度的ロジックだったとすれば、それらが一致するところの場所はそこに空間として存在しえないということである。反対にそうでなければ、内部と外部の空間的区分はもともと存在しえない――ゆえに内部と外部を分節するところの建築はもともと存在しえなかったことになる。
鈴木了二の仕事は建築と呼ばれてきた、こうした非/存在に付着させられてきた属性を―◇ひとつひとつ引き剥がす/◆一方でその属性だけで別のアンサンブルを組み立てる。その最終場面で、ついには◇「建築」それ自体は属性として最後まで引き剥がすことができない/◆建築の属性、要素をいくら集積しても「建築」それ自体には最後まで到達できない。―という事件(アンチノミー)を出現させることにだけひたすら向けられてきた。《神宮前の住宅》で内部空間と外部空間はあたかも別の構造であるかのように二つに引き剥がされ(それもまた建築の属性にすぎないゆえに)、そして再び、重ね合わされる。その瞬間、浮かびあがってくるのは、もはや内でも外でもない、つまり既成の空間には位置づけられない底しれぬ裂け目である。連続した空間はとつぜん底無しの計り知れない不安に怯えはじめる。内部と外部のわずかな裂け目から侵入してきた闇あるいは果てしなき夜。建築という痛みが本来属していたはずの、そして帰るべき場所をようやくわれわれはここで知ることになる。
展示している作品は、『神宮前の家』のコンクリート構造部分の1/10模型である。90度回転して、平面を垂直に起こすことで、内部と外部の両方を見られるようにしている。 |
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