12組の短い鉛筆同士がそれぞれ芯の部分で結合しているように見える鉛筆は、実は12本の鉛筆が真中の部分で芯まで削りとられている。鉛筆という形状をとどめながらも、「書く」という機能は宙づりにされている。それでも鉛筆として、これを使おうとするなら、この鉛筆は中央から破壊(切断)されなければならない。しかし、この究極の選択は鉛筆を使う/削るという回路にはじめから内包されていたものだった。使用とは対象の破壊である。この自明の理が、明解な構造(彫刻)として鉛筆に文字通り刻みこまれている。鉛筆、定規、そろばんといった日用品からはじまる豊嶋の作品は学習テストの解答、銀行口座の開設、株への投資と、実際の社会システムへの関与を企図した近年の作品群へと展開していくが、その関心は一貫し、つきつめられる問は常に所有あるいは私有ということの不可能性に向かっている。たとえば知識、あるいは財産を所有するとは一体いかなることなのか。ちょうど鉛筆を所有することがそれを使用することでは決してなく、むしろ、それを使用せず距離を持ち保管する=眺めつづけることと等価だったように、所有とは対象との距離を(埋めるのではなく)固定しようとする欲望だったのである。なるほど芸術とは対象を所有する/所有できない-というアンチノミーの狭間、その瞬間にひらめく、悲劇的かつユーモラスな行為だった。

1996-1999