2004.07.17 伊東忠太 (解題+翻訳:中谷礼仁)
解題

本小論は、日本初の建築史家としてしられる伊東忠太(一八六七〜一九五四)が明治二七年(一八九四)に公表したものである。「造家学会(現日本建築学会)」(明治一九年創立)の「建築学会」への改名を望んだものである。当時同学会の機関誌は『建築雑誌』であり、ARCHITECTUREの訳語については「造家」「建築」とに分裂し、錯綜をきわめていた。それを伊東なりに整理しようとした意図が背景に潜んでいる。いずれにせよ日本におけるARCHITECTUREをめぐる概念規定の、本来的なずれを鮮烈に示すものであり、きわめて興味深い内容である。なお本論は、編集出版組織体アセテートにて発刊予定の英語版・アジア建築論のために、中谷が現代語訳したものである。

同論で伊東は、造家/建築の項目に学/術を掛け合わせたマトリックスで論を展開している。その結果、「造家」「建築」ともARCHITECTUREの真正の訳語足りえていないが、その茫漠さゆえに消極的に「建築」を選ぶこと。そして建築は学のみならず術において実現するものであるから、学会を廃止し協会とすべきことを主張している。前者は受け入れられ、後者はその過激さゆえに受け入れられなかった。この論文がもととなり、三年後の明治三〇年(一八九七)に、「建築学会」が誕生したのである。

なお「造家」「建築」それぞれの意味については、従来は前者が工学的な、後者がより芸術的な内容を含むものであったと理解されてきた。しかしこれは戦後の「建築家」の地位向上運動の際にねつ造されたパラダイムであり、実は当時においては、全く正反対の意味を成していた。「造家」は創造的意味を多分に持ち、「建築」は鉄道の敷設などに用いられた構築一般にかかわる用語だったのである。このねじれに伊東の第三の意図が潜んでいる。

伊東は、芸術概念を広く工学一般に潜ませるために「建築」を採用したとも推測できるのである。
(中谷礼仁)


参考文献
拙稿 「建築と築建」(『近世建築論集』に所収、二〇〇四、アセテート)
岡崎乾二郎 「 『隠喩としての建築』と「形式化の諸問題」をめぐって 」(雑誌『国文学』二〇〇四年一月、学燈社)

アーキテクチュールの本義を論じて、その訳字を選定し、わが「造家学会」の改名を望む

アーキテクチュールの語原はギリシャにあって、高等芸術の意味を持つ。しかしギリシャ人は自らこの語を用いることなく、その後のローマ人が、宮殿寺院などを設計建造する芸術をそう命名し、今日に至った。その言葉が我が国に伝わったが、時にはこれを「"建築"術」や「"建築"学」と訳し、あるいは「"造家"学」と訳すこととなった。そして遂にアーキテクチュールを考究するための学会である「"造家"学会」を実現させるに至ったのである。

アーキテクチュールには、これを二つの視点から観察したかのような性質がある。アーキテクチュールは絵図彫刻とならべるときは美術の一科であり、そして橋梁や造船とならべるときは工芸の一科となるのである。つまり前者は美術の上より観察し、後者は工芸の上より観察しているのである。

はたしてアーキテクチュールは美術の一科なのか、あるいは工芸の一科なのか。これを判定することは極めて困難である。確かに美術および工芸の定義とその範囲は未だ甚だ明析ではなく、人それぞれにその諸説をたがえている。アーキテクチュールと美術との関係については、かってそれについての卑見を雑誌『"建築"雑誌』誌上にて吐露したことがあった。私見によれば、アーキテクチュールはいわゆるFine Artに属すべきものであり、Industrial Artに属すべきものではない。アーキテクチュールの所属をあれこれ論述することはほとんど無意味だとは思う。とはいえ、アーキテクチュールを工芸の一科として工匠の手芸ごとに属させるか、むしろこれを美術の一科として、それを研究すべき一課題と認めるのか、いずれにすべきなのであろうか。

他方、我が国において現在、アーキテクチュールの訳字として二種類の文字がある。ひとつは「"造家"学」といい、帝国大学ではこの字を唱えている。もうひとつは「"建築"術」といい、美術家の一派が用いている。おそらく前者はアーキテクチュールを科学の一種とし、後者はそれを芸術の一種としているからなのであろう。思うにアーキテクチュールは、その視点の如何によってそのあらわれ方を異にするとはいえ、科学か芸術かというほどの甚だしい差異を生じるべきものなのであろうか。どちらが正しいのか知る由もない。この課題のために数言を述べさせてもらいたい。

アーキテクチュールの本義は決して家屋を築造するということではない。その本質が実体をBuildingに借りて、その形式を線条や体裁に訴えて真美を発揮することにあることは、私の多くの賛弁を要しないところであろう。それゆえ、それを「"造家"学」つまりは家を造る学と訳すのは不可能であることを知るべきである。墳墓、記念碑、凱陣門の如きは、決して家屋の中に含むべきものではないことを、試しに考えてみてほしい。これらを計画する者はアーキテクトでなくしていったい誰なのか。その堂塔伽藍はアーキテクトがその全力をつくして創作するものである。家屋と同一視すべきものではない。"家"の文字は決して各種の構造物を包括するものではない。ましてやまた、アーキテクチュアは構造以外の物件をも包括することから考えれば、"造家"という訳語が不可能であることを知るべきであろう。

では、"建築"の文字はどうだろう。その意味が茫漠であることゆえに、むしろ"造家"の字に比べれば、かえって妥当に近いものではないだろうか。しかしながらアーキテクチュールの文字はそもそもはじめから"建築"という文字の持つ意味を有してはいない。かつ往々にして土木と相衝突し相混同する恐れがある。橋梁における"建築"の用語使用などがその例である。"建築"の文字はいまだかって適当なアーキテクチュールの訳字ではない。

かつ我々は、ここにおいて学と術とについて思考せざるをえない。学は、万般に通じて其共通すべき一定の理法を研究し、術はそれを応用して実際に具現する手法を研究するものである。学と術とにはおのずとその別があるのである。おそらくアーキテクチュールは、学よりはむしろ術に属している。その建築の沿革を論じて形式の由来を考え、その形式の美醜を論じて手法の運用の原則を研究するごときは、すなわち「"建築"-学」に属すべきものであり、その手法の運用を実際に試みるにあっては、それはすなわち「"建築"-術」の範囲に属すべきものである。これゆえに我々がアーキテクチュールを修めるというときは、その一部は哲理を考え、また一部は手法をきわめることをいうのである。我々は学と術とをあわせて修めなければ、いまだアーキテクチュールの真相を窺うにはたりない。アーキテクチュールを「"造家"-学」と訳すことは、もちろん根拠のない論ではない。またそれを「"建築"-術」ということには、もちろん大いなる真理がある。ただ、ともにいまだアーキテクチュールの核心をついていないのみである。私はそれゆえにアーキテクチュールは我々の文字に翻訳することは不可能である、と思う。しかしながら強いてこれを付会させれば、「"建築"-術」と訳することが最も近く、それにおよぶものはない。以上述べたごとく、アーキテクチュールはこれを「"建築"-術」と訳すべきものであり、「"造家"-学」と訳すべき理由ははなはだ薄弱であるとしたい。そしてここに我が日本帝国のアーキテクト等が組織した一個の協会がある。その事業は、アーキテクチュールの研究であるにもかかわらず、これに「"造家"-学会」なる名称をつけているのは、事実、すこぶる怪しいことではないか。

要するに我が学会は、アーキテクチュールの訳語についてはすこぶる漠然としてはいないか。"建築""造家"両者の間に、さまようごとくではないか。すでに確定している我が学会規則を通覧して、そのアーキテクチュールに関する訳字を見てみよ。

第一条 本会を名づけて"造家"学会と称す
第二条 "造家"学に関する事業……
第五条 正員は"建築"学を・…
第十条 ……"建築"専門の学校に在て……
第廿八条 ……"建築"雑誌と名づけ…

ああ我が学会の規則であり、その研究の本体であるところのアーキテクチュールを訳してときには"造家"といい、またときには"建築"という。その一定の文字がないのでは、どうしてその核心を得たといえるのだろう。我が学会は規則第五条に「正員は"建築"学」云々といって、「"造家"学」とは述べていない。また十一条においては、「"建築"専門」といって「"造家"専門」とは述べていない。よって我が学会は、帝国大学におけるアーキテクチュールの学科を訳すにあたって「"建築"学」の文字をあてていることを知るのである。我が学会は一方においては明らかに"建築"の文字を是認し、そして他の一方において反対に"造家"の文字を用いているのは、果してどのような理由によるのか。あるいは"建築"と"造家"とは互にその意味を異にしているのだろうか、ひそかに疑ってみるのである。

かつ我が学会はアーキテクチュールに関する万般の研究を行なうのであり、単に学理のみを講究するものではない。そうであれば我々は、この団体に「学会」の名称を下すことに躊躇せざるを得ない。我々は我が学会において、芸術もまた研究するのであり、工事実施の方法を講究するのであり、これに附随する規約法律を論究するのであり、我が学会は学理と芸術とをあわせて包括する。これを「"造家"学会」と呼ぶのは、大いに非である。これを「"建築"学会」というのもまた甚だ妥当ではない。私はここに「"造家"学会」を改め、「"建築"協会」と呼ぶことを希望したい。

私がここで「"建築"協会」の名称を希望するのには、また別に理由がある。我が学会の組織はむしろアーキテクチュールに関する各種の職業に従事する土人の集合であり、単にアーキテクチュールに従事する人の集合体ではない。我が学会は博く同志の人を招き、その道に熱心な人を迎えてほしい。いやしくもアーキテクチュールの発達に関して稗益する所ありと認められるときは、専門が何であるか関係なく、これを受け入れて、その賛助を受けることをはばかってはいけない。私はそれゆえに、我が学会はその性質からむしろ「協会」と名付けるべきものにして、いまだ「学会」と名付けるべきものではないと思う。以上は私が「"造家"学会」の名称変更を希望するゆえんの概要である。いささかの卑見を陳べて我が学会々員諸君にはかる。諸君幸に高訓(尊い教え)をおしむことなかれ。

〔『建築雑誌』九〇号〕


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