岡田卓也の新作絵画をめぐって

池田孔介

小林秀雄は『近代絵画』においてピカソが抽象芸術を否定し続けたことを繰り返しとりあげ、画家のこのような態度と小林自身の近代絵画における批評態度とを重ねている。端的に言ってピカソをめぐる最終章において彼は、対象物が示すフォルムに対するディフォルマシオン(変形)の中に近代絵画の臨界点を見た。「対象から来る力と、画家の内部から来る力とが均衡する一点」を様々な方法で生み出すことで「形象の不安と謎」を露呈させるのだ、と。このような議論はしかし、一般的な意味での絵画の近代性、つまり純粋視覚へと向かうプロセスとしてのモダニズムの問題というよりはむしろロザリンド・クラウスが展開するモダニズム批判、グリーンバーグ批判の文脈に近い。形象の中に、形象の反対物へと変容してゆく母胎をみてとるリオタールの議論を踏まえつつ、クラウスは美術作品において図と地が確定的な位置を保持し得ずそれらが常に移り変わりながら明滅していく運動性の中にモダニズムが定めた純粋視覚とは別の価値基準を措定する。こう考えてみれば、小林は『近代絵画』という著作において「近代絵画」の条件を示すと同時にそれを乗り越える可能性をも織り込めた、と言えるかもしれない。

最近の岡田氏の作品に現れている複数の色面はしばしばキャンヴァスそのものが物質として持つ縁と平行・垂直関係をなすように分割されることで強固な正面性が、さらにこれらの色相や明度の対比を強調することにより画面上には浅い空間性が立ち上がることとなる。しかも場合によっては色面に半透明の塗り(残し)が用いられており空間の浅さはひときわ強調される。このような色面の織りなす層のそこかしこに現れる大きなストローク、幾何学形とは対極的な要素である画家自身の身体性をも意識させるような筆致は、安定した色面分割の中にあって縦横無尽に駆け回り画面にスピード感、運動感を与える。とはいえこの筆致は一見大胆かつ無造作に描かれているように見えながら、巧妙に幾何学形の裏側に回り込んだりその上に現れたりすることにより、色面構成において導入された空間構造を揺るがせるような効果を伴っている。複数の色面によってある一定の規定的条件を画面上に付与しつつ、しかし同時にそれらの構造に亀裂を走らせる、このような水準において岡田氏のストロークは立ちあがっているのだ。私はここでコーリン・ロウの述べた「虚の透明性」を想起する。「奥行きの浅い抽象的な空間に正面を向けて重ねて並べられた物体を分節化して表現しようとする時に生まれる」[*1] 透明性、ここにおける「分節化」の作用。観者が絵を前にするその度に複数の平面の安定した関係を切断し新たに結び付けなおすこと、画面上に現れる大きなストロークはこのような作用を担っているのである。

この作用を小林秀雄がピカソに見いだしたディフォルマシオンの効果と重ねて考えることができるだろう。ある規定的条件に深く根ざした上でしかし同時にその構造そのものを変容させる力動性、対象と非対象(抽象)の間を揺れ動き続ける作用、あるいは図と地がパルス状に明滅するような効果のうちに近代絵画の臨界点を見いだすことが可能なのであった。岡田の絵画にはピカソが扱ったような意味での対象物が現れることは無い。むしろ完全に抽象的な要素によって構成されているのだが、画中の幾何学形と運動的なストロークとの間には、それぞれの関係を結びつつ同時に互いの関係そのものが常に変容し、安定した空間性を解体していくような抽象の次元でのディフォルマシオンを確かに感じることができる。

小林秀雄であれクラウスであれ純粋抽象へ向かうような絵画のモダニズムの原理に深く意識的でありつつ、であるからこそその原理を突破しうるような可能性を思考することが可能となった。岡田氏もまた実制作の水準において近代絵画の原理をもとに徹底したエクササイズを続けていると言えるだろう。そしてそのような形式的な試行を徹底するところにこそ形式の亀裂は確実に生み出されつつあるのだ。

*1 コーリン・ロウ『マニエニスムと近代建築』(彰国社)p216

(いけだこうすけ 美術家)