第一部 レクチャー 「Development of Photograph〈写真〉という現象」
倉数茂(文化史)

第二部 シンポジウム「Visual Artの三十年代」
北川裕二(美術家)、石岡良治(表象文化論)、倉数茂

今回のレクチャーの目的は、写真というジャンルに焦点を絞って、二十年代の後半から三十年代にかけて存在した「物質性への志向」といったもの──実はこれは写真表現に限らず、広く芸術諸ジャンルに見られたものである──について考察することにあった。結果として、この時代の「リアリティ」の変容に論が及ぶことになった。
レクチャーの後、美術家の北川裕二さん[*1]、表象文化論の石岡良治さんに参加いただき、「Visual Artの三十年代」と題して小規模なシンポジウムを行った。お二人、及び御清聴いただいた皆さんに記して感謝する。
ここでは、レクチャーの発表内容を掲載する。

倉数茂
1969年生。主な論文に、「都市空間の系譜学」(『早稲田文学』)、『創発的言語態』(共著)など。東京大学総合文化研究科博士課程在籍。


*1 北川裕二 「ぶらつくオートマティスム」
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第一部 レクチャー 
「Development of Photograph〈写真〉という現象」

1.

先日、この展覧会がSpiritual Exciseとされていることがあって、イグナチオ・デ・ロヨラの霊操を読みました。誰もが感じることだと思うのですが、奇妙な本ですね。というのは、神の啓示を得る、ということを、徹底して即物的でシステマティックなプログラムによって可能である、と考えているからです。ロヨラ自身が、このプログラムを文字通りExcise、体操に喩えている。「散歩したり、歩いたり、走ったりすることを体操というように、霊操は魂を準備し、調えるあらゆる方法のことである」というように。この霊操は、もともと修行者本人ではなくて、その指導をする人に与えられたマニュアルです。いわば運動選手本人ではなく、コーチが科学的な生理学だとか運動理論を学ぶために作られたようなものです。むしろ当人は自分の魂の救いだとか、罪深さだとか考えない方がいいといっているような気すらします。そちらの方がいい記録が出る、と。通常イメージされるような宗教的回心体験とは異なって、ここでは個人の主体を消すような、機械的な身体や情動の運動や反復が推奨されているようです。

ところで、これが少し写真の仕組みと似ているような気がしました、もちろんこちらが写真のことを考えていたからということはありますが。この霊操が効力を発揮するためには、ひとつの前提を受け入れる必要があります。それは、神の臨在、神との出会い、がすでに与えられている、ということです。誰に、ということになると、順序としてはロヨラ、という個人に、ということですね。ロヨラは、あるとき神の存在を体験し、その後、この自分には偶然的に与えられたこの体験をどうしたら他者も体験できるか、必然的にとはいわないまでも、かなり高い蓋然性で経験するにはどうしたらいいかと考えて、何年も研究して、この霊操を書いた、ということになっています。ただし、ここでその個人がロヨラという人であったということはそれほど重要ではないと思います。ある誰かが、神の臨在を体験した、が故に、誰であっても同じコンディションにおかれれれば、体験する可能性がある。つまりロヨラという人は、ロヨラと呼ばれるような個人と、他の人間との差異をどうしたら消すことができるのか、と考えたのだと思います。自分は神に特別に選ばれた、召命された、というような発想とはまったく逆ですね。個人的差異、あるいは特定の時空に結びついた歴史性というものを消してしまえば、誰もが体験しうる、あるいは、すでに体験した、といってしまってもかまわない、と。そのために個人の意志や特性をなくしてしまうためのプログラムを書いたののではないか、と思うわけです。

実際に霊操を読んでいると、そのテクニックはほとんど記憶術に近いのではないかという気がします。というのは、そのかなりの部分が、想像力を使って、キリストにまつわる特定の歴史的できごと、その磔刑や復活をまざまざと思い描く、ということに費やされているからです。「観想しようとする出来事の現場に身を置く。ここで注意すべきことは、目に見える事柄、たとえば、われわれの主キリストを観想したり、黙想したりするにあたって、「現場に身を置く」とは、観想しようとする事柄が置かれている状況(有形の場所)をありありと想像の眼でみることである。」つまり自分なりの、自分にとってのイエスを想像しろ──近代的な宗教意識というのはそういうものではないかと思うのですが──というのではなくて、もっと物質的に、芝居の書き割りのように、キリストの受難を想像しなさい、ということですね。これも実際にそれを目撃していた人物、つまり使徒たちの記憶や感情を自分のものにする、一分も違わずそれを反復することで自分を消し去ってしまおうということなのではないかと思います。ただし、ここでも、肝心の神的体験は、こうしたイメージではない、ということをつけ加えておきます。ヴィジョンではない。言語化も、イメージ化もできないような純粋に知的な直観である、と。

さて、簡単にまとめると、この霊操のポイントは、最初に純粋な知的直観が、所与の事実性として与えられたと信ずる、ということではないかと思います。しかし、こうした事柄は必ずしも宗教的体験ではなくても起こるのではないか。要は、因果関係もなく、自分の能動的な判断とも思えないのに、ある認識が決定的なものとして与えられてしまう、ということはありうる。朝起きた瞬間、今日は絶対いいことがある、と確信する、とかでもいいですね。とすると、もともとそれは自分のものとも思えないので、それを信じるにせよ拒否するにせよ、その認識を自分のなかでどう処理するか、どういう関係を作っていくか、ということが問題になる。そういうことは案外日常でもあるのではないか。私は誰それを恋している、しかし、私はそれを信じない、とかですね。ウィトゲンシュタインの議論の中にムーアのパラドックスというのがありますが、それと少し似ているかもしれない。

ところで、これが写真とどう関係があるのか。二十世紀の一時期、写真は先取りして与えられた事実性、というものとの関係を問題にしたのかもしれないと思うからです。

一般に、写真は真実を写すわけではないにしても、ある事実、視覚的事実を記録するものだと考えられている。シャッターが降りたとき、この被写体がこの角度から見たなら、このような形態をしており、このように光を反射して、このように影を受けていた、という事実は疑えない、というように。これは誰もが経験することですが、あるとき、ある場所で写真を撮ったとして、それが自分が見たものと違っちゃっているというのはよくありますね。こんな風景だったっけ、とかこんな顔していたっけ、とか。カメラが見たものと、自分が見たものは違う。だから1920年代くらいになると(カメラの眼)フォト・アウゲということが言われる。この時代の人は、カメラの視覚が人間の視覚性とは異なっていることに驚き、しかもカメラの視覚の方が、より唯物的である、と信じたわけです。ここには、人間の視覚性のコンウ゛ェンションに対する疑いがある。ですから、これは写真内部の問題というよりも、より広い認識論的な問いかけと関わっている。美術史と関連づければ、印象派以降、キュビズム以降の問題意識の反映だった。ただ問題は、撮影の瞬間自体には、カメラがが何を見たかは誰にもわからないわけです。それは事後的に、プリントとして焼き付けられてからしかわからない。ですから、最初にカメラが見た何ものか、カメラの視覚が持つ事実性というのがある。しかしそれはブラックボックスですね。人間の視覚ではない何ものか、とかしかいえない。とすると、これをどのようにして現実的な像として実現させていくか、という問題が残る。ここにこの時代の特徴があったのではないか。より広く言えば、当時試みられた様々な技法の多くが、機械の視覚の人間にとっての外在性を、いかに確保するかという関心を共有していた、ということです。

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