artictoc [プラネタリーな実践誌]

volume3 特集 アート・ティクトク ─ Märchenkritik

Märchenkritik: Even a Bee is a Being:メルヒエンクリティック――アリにもハナにも心があり、言葉がある | 岡崎乾二郎

このテキストは、ジョン・ケージのオペラ「ユーロペラ 5」の上 演(2007年9月6日)に際し、執筆された。

ジョン・ケージ「ユーロペラ 5」
演出|足立智美
歌手1|天羽明惠
歌手2|小山由美
ピアノ|寺嶋陸也
ヴィクトローラ|朝比奈尚行
照明|岩村原太
音響|有馬純寿
マスク衣装|岡崎乾二郎
舞台監督|井清俊博

2007年9月6日 15:00/20:00
サントリーホール小ホール(東京)
サントリー音楽財団サマーフェスティバル
20周年記念特別演奏会

岡崎乾二郎
1955年東京生まれ。造形作家。
近畿大学国際人文科学研究所教授。主な作品=《あかさかみつけ》《灰塚アースワークプロジェクト》《回想のヴィトゲンシュタイン》《Random Accident Memory》など。主な著書=『ルネサンス 経験の条件』(筑摩書房)、『絵画の準備を!』(松浦寿夫との共著、朝日出版社)など。
1.

メルヒエン=民衆に口伝てに伝承されてきた小さな話。ときに荒唐無稽、幻想的なメルヒエンへの関心が18世紀にドイツロマン派を中心に起こります。
メルヒエンとは何なのか(何だったのか)? 重要なのは、言葉とは何か、そして心とは何か、という問いがそこにあることです。
メルヒエンは誰かによって語られ作られたものではなく、言葉がメルヒエンを作り、メルヒエンの言葉が、その話の主体、誰かを作る。メルヒエンが人に語らせるのです。人間が人間であることの証を、精神の存在ということに置くのであれば、人間はもともと人間であるのでなく、つまり先に精神があるのではなく、言葉こそが心を作り精神を宿させる。いいかえれば動物であっても植物であっても(人間であっても)言葉によって、同じ心を持つことができる。

われわれ人間は陸棲動物であるから水棲動物よりも陸棲動物の言葉の方がわかりやすい。そして陸棲動物のなかでは森にいる動物より家畜の方が、そして家畜のなかではわれわれに最も身近なものの言葉が最もよくわかる。ただしその場合にももちろん、つきあいや慣れ次第である。馬に乗りなれたアラビア人は、初めて馬に乗る人よりも馬の言葉がよくわかり、『イーリアス』のなかのヘクトルが自分の馬たちと話せたのとほぼ同様に馬と話せるのも当然である。
砂漠で周囲には生き物としては自分のラクダと一群の鳥しかいないアラビア人は、家に住んでいるわれわれよりラクダのことをよく理解できるし、鳥の鳴声を理解できると信じるであろう。
ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー『言語起源論』
大阪大学ドイツ近代文学研究会訳、
法政大学出版局

これは馬からみても同じです。ヘクトルと一緒に働く馬の方が、そうでない馬(あるいは人間)よりも、ヘクトルの言葉がわかるのは当然だということです。ヘクトルそして馬にとって、心があるか、ないかは、この言葉を交わすことができるという過程にだけある。いいかえれば言葉は、仕事や生活などのプロセスによって全然異なるものとして分化されている。動物たちと一緒に音楽を演奏することは可能です。つまり言葉、心を交わすことは可能です。けれど、一方で、この言葉を持たない、つまり心のない人びとはこの音楽を理解しない。ヘクトルも多くの家来が心を持たないガラクタに見えたでしょう。音楽の演奏、大工の仕事、馬術、料理、日常のさまざまな仕事、些細な仕事のそれぞれに独自な言葉があり、それぞれ動物、植物などと連動する固有の仕事の輪=一つの系(セリー)を作り上げている。仕事、生活ごとに異なる、さまざま多様な言葉、系がある。言葉の多様さは事物の働き、連動の仕方の多様さであり、それが心の多様さである。
決して人間だけに心があるわけでないし、人間、動物、植物、昆虫と生物種によって心が区分されているわけではない。言葉の違い、心の違いは、動物や人間を超えて、労働過程あるいは生態系の違いにこそ発生する。心とはそれぞれの仕事が機能し、活動している過程、つまりその言葉のやりとりに流れるものである。メルヒエンのそれぞれにはこうした動物や植物が同等に働く(ときには主人公になった)さまざまな生活の系が保存されている。
グリム童話の序文でグリム兄弟はメルヒエンを、災害で根こそぎ麦畑がなぎ倒された後、路ばたに残った地面に1、2本、麦がなお、まっすぐ立っている姿になぞらえています。この麦のように、現在はほとんど絶滅したようにみえる多数のマイナーな植物も必ず、それぞれ、わずかながらでも生態系を維持して、まっすぐ、きっと残っている。メルヒエンとはこういうものです。メルヒエンのそれぞれに、動物と植物そして人が機能的に連鎖して作り出す、有機的な生活世界、生態系がその形式的な自律を保ったまま残されていると考えたんですね。そしてそこに、多様な系それぞれの心もまた保存されている。

2.

ヘルダーはこう問います。

なぜこの花はその蜜を吸う蜜蜂のものなのか。蜜蜂は答えるだろう。「自然がこの花の蜜を吸うように私をつくったからです。この花だけをめざして他の花は見向きもしない私の本能が、私にとってはともかくも命令者なのです。それがこの花やこの種の花の咲いている花園を所有するように私に命じたのです」と。 ――[同上]

ヘルダーは同じ質問をたとえば、花畑で働く農夫に聞いてみたらどうだろうと考えます。すると農夫はきっと次のように答えるでしょう。

私はこれらの草に関して多くの権利をもっているのです。なぜなら、蜜蜂や獣は覚えたり、覚えさせたりする骨折りをしなかったからです。従って私がこれらの草にしるす一つ一つの想いが、私の所有権のしるしなのです。――[同上]

では蜜蜂が本能と言っているものと、農夫がしるしと言っているもの(つまり言葉)との違いは何でしょうか。どちらも「この花だけを目指す」という心、すなわちその花に向かい行動、労働するという行動を統制する起点(アリストテレスの言葉でいえば、エンテレイアケ[1]としての心を示していることにおいては同じではないか。
とはいえ生態系、活動が決して通じ合うことがないように、無数の通じ合うことのできない言葉がある。蜜蜂の言葉とダニの言葉、蟻の言葉はそれぞれの生態系、生活が通約できないかぎり互いに通約できません。
そのうえで、もし言語において動物と人間に違いがあるとすれば、人間は動物よりも多くの言葉を学習することができること、つまり、ときに分裂したように多くの心を宿すことができることにある。あたかも別の動物の心が憑依したように、別の言葉に感染し、人は変異する。激しい感情の変化、心の変化が作り出される。それが言葉の働きだとヘルダーは考えた。

[1]
「エンテレケイア(entelechia)」はアリストテレス哲学の概念で、「テロス(telos)=終わり、目的」という語を含み、「終局態」や「完成態」、「完全実現態」などと訳される。
3.

だから人間の言葉は決して単一の言葉だけでできているわけではない。言葉の中で、複数の言語、つまり、たくさんの動物たち、さまざまな生活、仕事の系(セリー)が行き来しているのです。人間の精神とはさまざまな言葉、生物が棲息する空き地のような場所だということができるかも知れない。自分でも知らずに、社会の大勢からは忘れ去られ、抑圧された人々のみならず禽獣魚介木石のさまざまな生活がメルヒエンとして棲み込んでいる。それを誰から聞いたかも知れず、人ごとのようにふと思い出したりするのです。思い出すだけではない。自分のものではないような感情、心がそのとき蘇る。ふだんの生活を占める言語、生活から抑圧され、片隅に圧迫されていた他者、禽獣魚介木石の気持ちが生まれる。複数のシステムの遭遇という意味で、メルヒエンにはまさに政治的な葛藤そのものが刻みこまれています。メルヒエンには、こうした闘いによって、いったんは滅ぼされたような小さく弱い者たち、動物たちの言葉が実際は滅びず、人の心の隅にそれぞれ自律した一つのシステム(別のシステム)として棲み込んでいたことが示されている。
メルヒエンは口伝てで伝承されますが、その過程で、それを語る人たちの主観で変形されることは少ない。たとえば文学者がこうした話を基に解釈を加えて小説を作ったとする。しかしそれをはじめて読んだ人たちがその話をまた口伝てで伝えるうちに、結局はもとのままのシンプルなメルヒエンに戻ってしまうということが起こる。つまりメルヒエン自体に形式的自律性、エンテレケイア、自律した心が宿っているわけです。こうしてメルヒエンが想い起こされるとき、人間の心は他者の言葉、つまり弱く小さなものたち、動物たちの心に明け渡されるということです。いうまでもありませんが、この過程において、人間世間の善悪、美醜の区分はまったく通用しません。

4.

16世紀の自然科学者にジャンバッティスタ・デッラ・ポルタという人がいます。ポルタは魔術師と呼ばれていました。そもそも文学者であった彼が、文学を自然科学に基礎づけようとしていたからかもしれません。ヘルダー同様、ポルタも多くの劇作を書いていますが、むしろ魔法陣のような秘密暗号術を考案したことが知られています。この暗号法は記憶術と繋がっている。記憶術では、思い出すべき「何か」ではなく、その何かを「思い出している心の状態」を再現すれば、対象の「何か」はその都度、作り直されると考えます。蜜蜂が、ある信号=情報の繋がりから花に気づき、その花を目指すように、人も、いくつかのきっかけ、信号の繋がりから何かを想い起こす。こうした限られた信号、記号を結びつけ、この何かを想起する心の状態=エンテレケイアを再生させようとするのが記憶術です。
ポルタにとっても、関心は単一のシステムとしての言語ではなく、個々の言葉がむしろ異なるシステムの端末となって、それをネットワークとして結びつける能力にありました。その結合を組み替えることによって、まったく異なる感情、心を喚起させる力を言葉は持つ。この言葉の能力によって演劇は、あらゆる心、感情を作り出す心の錬金術となりうる。心も、算術のように加算、減算、乗算、除算つまり演算できるはずである。ゆえにポルタも、心を一つとも人間だけが持つものとも考えなかった。
かつてアリストテレスが、事物はそれぞれ、そのエンテレケイアによって物質をひとつに繋ぎ合わせている、このエンテレケイアの特化された形式が心(アニマ)だと考えたように、そしてアリストテレスが植物そして動物たちにこそ、エンテレケイア、そして心(アニマ)のさまざまな相を見いだしたように、ポルタも心の多数性を動物たちの多数性に結びつけ、理解しました。
ポルタの人相研究は、彼が人の性格つまり心の多種多様を動物の多種多様に呼応させて理解していたことをよく示しています。
魔法陣のような図形とチャンス・オペレーションによって、歌い手たちが歌う旋律、あるいは歌う代わりに動物の仮面をかぶる、という選択がなされるジョン・ケージの最晩年のオペラ作品、《ユーロペラ5》は、ポルタの方法を思い起こさせます。そもそもオペラとは、心、感情の合理的な演算法として音楽を組織しようとした古代ギリシャの音楽観の復興として、ポルタ自身も属した16世紀の人文主義思潮から生み出されてきたものでした。
歌うことと表情は、言葉がもたらすエンテレケイア、心の差異の表出であり、そのエンテレケイアという隠されたステータスによって、歌と仮面が同等であることは当然でした。歌を歌うことは別の動物、別の心を身にまとうことだったのです。音楽、演劇を組織することは、決して直視されることのないエンテレケイアに接近し、それを手なずける、秘密の暗号法だったわけです。

De Furtivis Literarum Notis
ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ
(1535-1615)
『秘密書記法』(1563)
De Furtivis Literarum Notis
ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ
『人相学について』(1586)
De Furtivis Literarum Notis
『人相学について』(1586)より