artictoc [プラネタリーな実践誌]

volume0 特集 火星と時間 ─ MarsandTime

岡崎乾二郎「火星の住民と地球の芸術家」

岡崎乾二郎
1955年東京生まれ。造形作家。近畿大学国際人文科学研究所教授。主な作品=《あかさかみつけ》 《灰塚アースワークプロジェクト》 《回想のヴィトゲンシュタイン》 《Random Accident Memory》など。主な著書=『ルネサンス 経験の条件』など。

とうとう火星に水が発見されましたね。驚いていない人もいるようですが、火星に存在した巨大な氷を捉えた写真が新聞に掲載されて、僕は本当に驚きました。希望が出てきた。

火星の水に驚かれたのは美的な判断で、ということですか?

美的な判断というよりも、むしろ悟性的な判断。それはヒトの備える論理的な能力の問題。コモンセンス。それにしても少しでもSFとかに触れたことがある人ならば、火星に水があるのがわかったら、火星人や空飛ぶ円盤を見つけたのと同じ驚きは感じて当然だと思うんですけれど、パニックになるのも困るけれど、あまり事件になっている気配はない。何故でしょう? 今までも、水の痕跡かなんて、浸食の跡が見つかるだけで大騒ぎして、NASAは地中を掘って水の手がかりを探る計画を立てていた矢先だったのに。水が見つかったことは、水→生命発生のプロセスの蓋然性の高さを考えると、生命存在の可能性――知的生命の存在(する/した)可能性まで含めて――がほとんど100パーセントになったってことでしょう。なのに今回、火星の水発見という事件に驚かないとしたら、あえて無視している、というか、水→生命という論理―因果の必然を否定したいという想像力が抵抗しているのかな。大げさに聞こえるかもしれないけれど、ほんとうに天才が現われたり奇跡が起こったりするときに、一時的にそれを無視してしまうのと同じ現象かなあとも思ってしまう。

政治的なメディア操作も入っている?

そうかもしれないと邪推したくもなる。例えば同じ水に関わる事件としてニューオリンズの洪水がありますね。ハリケーンが直撃したら堤防が決壊することは、それこそハリケーン→決壊というくらいの必然として、政府もわかっていた。しかしブッシュは20億円かかる修復をケチった。その因果的な必然→可能性と、フセインが大量破壊兵器をもっている可能性の、どちらがリスクが大きく、リアルなものだと判断されうるのか。想像力の貧困さ、というより妄想―想像力が、当然の因果を必然と判断する悟性的判断を抑圧しているとしか思えません。軍を投入すべきなのはどちらだったのか。脆弱な堤防を見て、危ないと崩壊を必然としてリアルに感受する判断力は技術者ならずとも、ヒトは誰だってみんなもっている。それを感じることは、火星の水を発見したときに驚くのと同じ悟性的な能力。

宇宙人がいることが確実になったということですか?

実は、この宇宙で、地球以外での高度な知的生命体の存在は、科学者だったら誰だってすでに認めています。ただし、その知的生命体が地球人と同じ時間に同じ場所で出会う可能性はものすごく低いという、そういう計算になっている。だって、この地球でさえ、生命がいたのはその地球の歴史の全体から比べれば、ほんの一時、まして人間の存在したのなんて瞬きの間みたいなものですから。こうしたそれぞれの瞬間的存在である生命体が出会う可能性なんてのは、ほとんどない。確率的な頻度が一挙に落ちる。でも言い換えれば、この時間的な同期という条件を外せば、宇宙人はもう沢山いた/いる/現われる確率はものすごく高まる。だから他の惑星にも知的生命体があった可能性はほとんど必然。50億年間、火星の上に水があったということは、生命が生まれるまで、何度でも実験できるくらいの時間、チャンスが与えられていることと同じ。人間でなくても恐竜くらいは必ず発生する(ただし滅んでしまったかもしれないけど)。だから火星人の存在(いる/いた)は、理論的にもう証明されたことと同じだ(笑)。
とはいえ、知的生命体がいる可能性はカントが「月の住民」の存在に賭けてもいいといったように、悟性ばかりか理性の存在の条件ですね。つまりは人間が人間であるのは、月の住民が存在する可能性をリアルだと感じる能力によっている。これは1+1が2であることを認める能力よりももっと以前にあるはずの、人間が人間であることの条件。

その条件がない人もいる?

そうではなくて、「かつていた」とか「いつか生まれるだろう」とかは、リアルな事柄ではなく無視できる人間がいるということ。にもかかわらず、そういう人間が「フセインが核兵器を使うだろう」とか言う可能性なら、なぜリアルに感じるのか。いうまでもなく、それは現在の自分が属す利害関係(インタレスト=関心)に役立つからです。火星人がいるか、いないかは、現在のその人たちの関わる利害関係(インタレスト=関心)には影響を与えない。だから平気で無視する。堤防が壊れる可能性も同じように、現在の――実際にはもう過去になってしまったけれど――ブッシュをはじめとする政治家の利害(インタレスト=関心)に関わらなかった。
利害(インタレスト=関心)というのは、時間の果てしなく長い持続のなかから、そのなかのひとつの瞬間だけを特権的な現在として選び出しているということです。そして権力というのは、権力がその利害(インタレスト=関心)によって選んだ現在を押しつけ、それにすべてを一致させようとする。そうやって強制することで出てくる遅れから利潤を得ているということです。時間の流れる方向=orderを支配することが権力。
ともかく宇宙人がいると思っていた人たちは、これで決定的な証拠をつかんだわけです。でも大声でそれを言う必要もない。トランプの切り札を手に入れた喜びと同じ。使ってしまうと(それが当たり前になってしまうと)おしまい。いつか、ここぞというときにそのカードを使えばよろしい。それを前提に行動すればよろしい。切り札がいつか切られること――具体的に言うと火星人と地球人が出会うこと――を前提にこれから行動していけばいい。だから、僕はもう絶対火星人がいると思って行動しています(笑)。

切り札っていうのは芸術作品みたいなものだということですか?

確かに、美的判断というものの特殊性と似ていますね。芸術作品に出会い感動しても、その経験を普遍化することは、必ずしも、その経験を現在時で一般化――例えば多数の同意を獲得――すればいいというものではない。カントが言ったように、美的判断は主観的判断であり、かつ他者の同意を要請する。つまり、いまだ同意されていないが、同意されうる必然をもつというのが、美的判断の普遍性であって、普遍とは、そこに時間的な遅延、持続が含まれるわけですね。現在時にのみ獲得された同意、複数の意志の同期なんて、すぐ揺らいじゃうんだから普遍の条件にならない。人気と普遍は違う。むしろ遅延、持続こそが普遍の条件です。誰もが、いつかそれをわかる、そうした瞬間が必ず訪れる。逆にどんなにセザンヌが好きだって、四六時中セザンヌに感動している人などいない。嫌いになる瞬間だってある。だけれど、すべての人間にそれぞれそのセザンヌに感動する、そうした瞬間がいつかはきっと訪れる。それぞれのその瞬間は決して一致しない。それこそ100万年くらいの時差がありうる。この100万年まで引き延ばされる時間こそが、美的判断が把捉する普遍性、芸術作品が保持するべき性格ですね。現在時におけるアクチュアリティだけではだめ。言い換えれば、むしろ、こうした持続、遅延によってこそ、無数の異なる時、場所でのみ成立した無数の判断を(時と場所を超えて)一致させうるということでもある。

芸術作品は永遠の時間をもつ……?

いや、まったくそうではない。例えば、ひとたび発見されると火星に水があるのが常識=自明になり、発見されなかった時間は忘れられる。これから永遠に火星に水があったということにもなりそうです。だけど、またそれもいつか忘れられる。現在という自明性は、ひとたび獲得されれば永遠に持続するように考えられてしまうけれど、高松塚古墳のように発見されたことによって、かえって劣化し滅びるということもある。現在という安定したプラットフォームはない。発見は現在に位置づけることだけど、位置づけられる場としての現在のほうが先に劣化してしまう。だから永遠の現在なんてない。むしろ、火星の水が発見されたことは「作品をつくる/つくった」という不可逆的な出来事と比較できる。「できた」「つくった」というのは、あくまでも不可逆的な出来事です。制作というのはこうした出来事を起こすことに向けて組織される。時間を入れないと制作はできない。
だから火星の話もそうだけど、可能性とその証明としての発見は違う。証明―発見は制作と同じく不可逆的な出来事ですが、その不可逆性は論理的に構成されたものでなくてはならない。可能世界は無時間的なものですが、対する証明も、特定の時間に帰属する偶発的な判断であってはいけない。証明は個々の主観とも人々の同意とか人気とも無関係に成立しなければならない。作品の制作も同じ。火星に水が発見されたことが事件なのは、それがデータであることを超えて生命存在の論理的証明たりうるからです。これは発見―証明という出来事がなければ成り立たなかった。つまり今後、火星に水があることが自明化され、次に忘れ去られても、発見という出来事が構成してしまった論理は消されることはない。誰もがそれを忘れてしまってもです。もはや火星のどこにも水も氷も発見できなくなっても、発見されたという出来事は消却不能の論理的事実として存在しつづける。
たとえば富岡鉄斉でも北斎でもダヴィンチでも長寿でしたが、みんな「あと10年あれば、もっと高い地点に到達できたのに」と、同じようなことを言って死んでいますね。いつか絶対到達できるという論理的な前提が制作を支えている。彼らは作品ができる、完成するという出来事の意味がわかっていた。火星人はきっといるという理念と同じです。それは証明されるべき問題として、制作され克服されるべき問題として、すでに証明の済んだ問題として確かにそこにある。100万年生きていたら絶対できるはず、という感じ。100万年の持続時間のなかで、火星の水=火星人という確実性が得られるのと同じ。ゆえに彼らにとって、日々の制作は、その持続時間が確実であるとするに足りる不可逆的な証明となっていたはずです。ヴィトゲンシュタインは建築家のポール・エンゲルマンの設計したお姉さんの家を設計監理しなおした。ヴィトゲンシュタインは、図面上の数値と実際の建築が絶対に一致することなどないとわかっていた。誤差、ズレの不可避性はわかっている。けれどアクチュアルな現在という時空間の枠組みを外したときに、その完全性は論理的必然としてありうる。「いつか火星人と会える/会ってしまった」「いつか完全な建築が完成する/完成してしまった」というような証明の必然性。だから、その現実的には到達不可能な必然に、にもかかわらず技術は接近しつづけることができる。もっといけるはずだと。休むわけにはいかない。後退するだけだから。証明をつづけなければならない。制作は日々の事件として必要。サッカー選手が言うように能力だけではだめで、シュートを決めつづけなければならない。僕にとっては火星人がいることを前提に行動するというのはこういうことです。

2005年7月に
ヨーロッパ宇宙機構が発表した、
火星の北極付近
(北緯70.5°東経103°)に
位置する無名のクレーターを
撮影した写真。
幅35km、深さ最大約2km の
クレーターの中心に座する
円形の澄んだ物体、
これが火星に残存している
水の氷である。
写真が撮られた時点
(火星の北半球における晩夏)で、
二酸化炭素はすでに
北極冠から消失していたため、
ドライアイスではないと
見られる。クレーターの壁と
縁に沿っても、氷の微かな
痕跡が見られるが、
より多くの太陽光を浴びている
クレーター北西部には
確認されない。
クレーターの地面から
氷の表面まで200mある
高低差は、おそらく氷の下に
横たわる広大な砂丘に
因るものである。気温と
気圧条件が氷の昇華に
適さないため、この氷の断片は
一年中存在している。
この画像は、
ヨーロッパ宇宙機構の
Mars Express spacecraftに
搭載された高解像度ステレオ
カメラによって撮影された。
©ESA/DLR/FU Berlin (G. Neukum)
出典=Water ice in crater at Martian north pole
クレーターを撮影した写真